2 / 2
週に一度の返事を待つ
しおりを挟む
文通を、始めた。
きっかけは、忘れてしまった。
思い返せば、慌ただしく過ぎていく日々のなかで、私はどこか息苦しさを覚えていたのだと思う。
朝は決まった時刻に起き、用意された服に袖を通し、決められた言葉を口にしては決められた人々と顔を合わせる。
変化のない毎日。そこに、不満があったわけではない。
だが、心がひどく何かに飢えていた。
だからこそ、非現実的な刺激を無意識のうちに求めていたのかもしれない。
紙の上では、この身分も血筋も名誉でさえも意味をなさない。
ただ文字を書く人間と、それを読む人間がいるだけであった。
ある日、文通で結婚にまで至った兄に私はひどく勧められていた。
「悪くはない気晴らしだと思う。お前も、一人で寂しいだろうからな」
「寂しくなど、ありません」
「そうか?……だが、時には異なる身分の者と関わることも必要だ」
兄は、格下の貴族令嬢と恋愛結婚を交わしていた。
顔色を伺うようなこともなく、声色さえも必要がない。
文字であるからこそ、伝わるものがあるのだと。
登録の手続きを済ませ、私は言葉を交わす相手を探していた。
幾人もの紹介文が並ぶ中で、ふと、ある一文が目に留まる。
“異国から来たばかりで、この地の文字を学ぶため”
他と比べて、ひどく簡素な説明でもあった。その人物は男であり、年齢は私よりもいくらか若くもあった。
それでも、私はわずかな興味を抱いていた。
見知らぬ異国の文化に触れられるのなら、と。
すぐさま、ハルに向けて手紙を書いた。私のこの長い本名は伏せ、手紙上では短く“セラ”と名乗った。
翌週。
使用人が静かに差し出した一通の封筒を見た瞬間、私は思わず目を見開いていた。
それはこれまでこの屋敷にも届いたことがないような、庶民的で簡素な封筒であったのだから。
質の良い白い封筒や便箋に慣れた私の目には、それはあまりにも粗末な茶色の紙であるかのように映っていた。
封を開け、静かに手紙を開いた。
恐らく、インクの扱いにも慣れていないのであろう。
ところどころ文字は滲み、線は揺れ、その形もひどく歪んでいた。
しかしその一点を除けば、内容は至極真っ当なものでもあったのだから私は驚いていた。
『手紙を、ありがとうございます』
ハルは祖国で親を亡くし、縁を頼ってこの国へやってきたのだという。
今は祖父と二人で暮らしており、日々の生活にはようやく慣れてきたが、文化や言葉にはまだ不安が多いらしい。
そしてこの手紙もまた、祖父に添削されたものなのだと正直に記されていた。
何度も練習を重ね、失敗をしては書き直し。
ようやく一通の手紙として形にできたことへの喜びと、それを受け取った私への礼が、拙いながらも丁寧に綴られていた。
『これから、よろしくお願いします』
何度も文字を目で追うにつれ、私はこの胸の奥がかすかに温かくなるのを感じていた。
素朴で、落ち着いた雰囲気の青年なのだろう。
そのような印象が、自然と浮かんだ。
気づけば私はペンを取り、返事を書き記していた。
『困ったことがあれば、遠慮せず私に聞いてほしい』
そして、必要以上に多くの言葉を書き連ねていたような気がする。
書類や報告書ではない文章を書くことが、このように楽しいものであるとは思いもしなかった。
***
いつしか私は、週に一度届く返事を心待ちにするようになっていた。
ハルは、心優しい青年でもあった。
顔も知らぬ私の身を案じ、かつての返事を真似てか私の家族の健康までをも気遣う言葉を、何の躊躇いもなく書いて寄越す。
その文章からは、年齢以上に大人びた性格であることが窺えた。
名も知らぬハルの祖国であるという異国の文化に、時には驚き時には笑みを浮かべることもしばしば。
次第に、私はハルという人間そのものに、強く興味を抱くようにもなっていた。
季節が移ろえば、私は庭に咲く花の名を書いた。
街を歩けば、この雑踏のなかにハルがいるのではないかと、その姿を探してしまうようなことも多々あった。
ハルは、ありふれた黒い髪に、黒い瞳をしているらしい。
ある日、そう手紙に書かれていた。
道行く黒い髪をした青年たちの姿を眺めながら、私は小さく息をついた。
それに比べて、私は自らの姿を語ることができずにいた。
金の髪に、紫の瞳。
それだけで、私の出自は容易く知られてしまうからだ。
それにも関わらず、ハルは私について深く詮索するようなことはしなかった。
その慎み深さに安堵しながらも、どこか寂しさのようなものを覚えてしまう。
私はただ、文字の練習相手にしか過ぎないのであると。
自らに向けてそう言い聞かせるたびに、胸の奥に小さな痛みが生まれていた。
それでもハルの語り口は新鮮で、時折、目を見張るほどに生き生きとしていた。
自然の美しさ、料理の温かさ。日々の些細な出来事でさえも。
金や権力とは無縁の、庶民としてのささやかな幸せがそこには記されていたのだから。
誰にでも等しく、幸せは存在する。
そう、ハルの言葉は教えてくれるようでもあった。
素直に、羨ましいと思った。
それと同時に、私はハルとの交流を通して自らが知ることもなかった世界を覗いているのだとも感じていた。
庶民の青年と文通をしているのだと兄に告げたとき、ひどく驚かれてしまった。
しかしそれでも一言、
「良い経験だ」
と、大らかに笑っていた。
その言葉に、私はどこか救われたような気がしていた。
間もなく、手紙が届く日だ。
使用人に使いを出し、預かり所へと向かわせた。
先週は、ハルからの問いに答えていくうちに、便箋の枚数が思いのほか増えてしまった。
ハルは、その全てに目を通すことができたのだろうか。
そして、どのような返事を書いたのか。
考えるだけで、自然と口元には笑みが浮かぶ。
紙の上だけでの、この関係。
それでも確かに、私の心は遠く離れた一人の青年へと向かっていた。
あの茶色の封筒を手に取る瞬間を思い描きながら、静かに返事を待ち続ける。
きっかけは、忘れてしまった。
思い返せば、慌ただしく過ぎていく日々のなかで、私はどこか息苦しさを覚えていたのだと思う。
朝は決まった時刻に起き、用意された服に袖を通し、決められた言葉を口にしては決められた人々と顔を合わせる。
変化のない毎日。そこに、不満があったわけではない。
だが、心がひどく何かに飢えていた。
だからこそ、非現実的な刺激を無意識のうちに求めていたのかもしれない。
紙の上では、この身分も血筋も名誉でさえも意味をなさない。
ただ文字を書く人間と、それを読む人間がいるだけであった。
ある日、文通で結婚にまで至った兄に私はひどく勧められていた。
「悪くはない気晴らしだと思う。お前も、一人で寂しいだろうからな」
「寂しくなど、ありません」
「そうか?……だが、時には異なる身分の者と関わることも必要だ」
兄は、格下の貴族令嬢と恋愛結婚を交わしていた。
顔色を伺うようなこともなく、声色さえも必要がない。
文字であるからこそ、伝わるものがあるのだと。
登録の手続きを済ませ、私は言葉を交わす相手を探していた。
幾人もの紹介文が並ぶ中で、ふと、ある一文が目に留まる。
“異国から来たばかりで、この地の文字を学ぶため”
他と比べて、ひどく簡素な説明でもあった。その人物は男であり、年齢は私よりもいくらか若くもあった。
それでも、私はわずかな興味を抱いていた。
見知らぬ異国の文化に触れられるのなら、と。
すぐさま、ハルに向けて手紙を書いた。私のこの長い本名は伏せ、手紙上では短く“セラ”と名乗った。
翌週。
使用人が静かに差し出した一通の封筒を見た瞬間、私は思わず目を見開いていた。
それはこれまでこの屋敷にも届いたことがないような、庶民的で簡素な封筒であったのだから。
質の良い白い封筒や便箋に慣れた私の目には、それはあまりにも粗末な茶色の紙であるかのように映っていた。
封を開け、静かに手紙を開いた。
恐らく、インクの扱いにも慣れていないのであろう。
ところどころ文字は滲み、線は揺れ、その形もひどく歪んでいた。
しかしその一点を除けば、内容は至極真っ当なものでもあったのだから私は驚いていた。
『手紙を、ありがとうございます』
ハルは祖国で親を亡くし、縁を頼ってこの国へやってきたのだという。
今は祖父と二人で暮らしており、日々の生活にはようやく慣れてきたが、文化や言葉にはまだ不安が多いらしい。
そしてこの手紙もまた、祖父に添削されたものなのだと正直に記されていた。
何度も練習を重ね、失敗をしては書き直し。
ようやく一通の手紙として形にできたことへの喜びと、それを受け取った私への礼が、拙いながらも丁寧に綴られていた。
『これから、よろしくお願いします』
何度も文字を目で追うにつれ、私はこの胸の奥がかすかに温かくなるのを感じていた。
素朴で、落ち着いた雰囲気の青年なのだろう。
そのような印象が、自然と浮かんだ。
気づけば私はペンを取り、返事を書き記していた。
『困ったことがあれば、遠慮せず私に聞いてほしい』
そして、必要以上に多くの言葉を書き連ねていたような気がする。
書類や報告書ではない文章を書くことが、このように楽しいものであるとは思いもしなかった。
***
いつしか私は、週に一度届く返事を心待ちにするようになっていた。
ハルは、心優しい青年でもあった。
顔も知らぬ私の身を案じ、かつての返事を真似てか私の家族の健康までをも気遣う言葉を、何の躊躇いもなく書いて寄越す。
その文章からは、年齢以上に大人びた性格であることが窺えた。
名も知らぬハルの祖国であるという異国の文化に、時には驚き時には笑みを浮かべることもしばしば。
次第に、私はハルという人間そのものに、強く興味を抱くようにもなっていた。
季節が移ろえば、私は庭に咲く花の名を書いた。
街を歩けば、この雑踏のなかにハルがいるのではないかと、その姿を探してしまうようなことも多々あった。
ハルは、ありふれた黒い髪に、黒い瞳をしているらしい。
ある日、そう手紙に書かれていた。
道行く黒い髪をした青年たちの姿を眺めながら、私は小さく息をついた。
それに比べて、私は自らの姿を語ることができずにいた。
金の髪に、紫の瞳。
それだけで、私の出自は容易く知られてしまうからだ。
それにも関わらず、ハルは私について深く詮索するようなことはしなかった。
その慎み深さに安堵しながらも、どこか寂しさのようなものを覚えてしまう。
私はただ、文字の練習相手にしか過ぎないのであると。
自らに向けてそう言い聞かせるたびに、胸の奥に小さな痛みが生まれていた。
それでもハルの語り口は新鮮で、時折、目を見張るほどに生き生きとしていた。
自然の美しさ、料理の温かさ。日々の些細な出来事でさえも。
金や権力とは無縁の、庶民としてのささやかな幸せがそこには記されていたのだから。
誰にでも等しく、幸せは存在する。
そう、ハルの言葉は教えてくれるようでもあった。
素直に、羨ましいと思った。
それと同時に、私はハルとの交流を通して自らが知ることもなかった世界を覗いているのだとも感じていた。
庶民の青年と文通をしているのだと兄に告げたとき、ひどく驚かれてしまった。
しかしそれでも一言、
「良い経験だ」
と、大らかに笑っていた。
その言葉に、私はどこか救われたような気がしていた。
間もなく、手紙が届く日だ。
使用人に使いを出し、預かり所へと向かわせた。
先週は、ハルからの問いに答えていくうちに、便箋の枚数が思いのほか増えてしまった。
ハルは、その全てに目を通すことができたのだろうか。
そして、どのような返事を書いたのか。
考えるだけで、自然と口元には笑みが浮かぶ。
紙の上だけでの、この関係。
それでも確かに、私の心は遠く離れた一人の青年へと向かっていた。
あの茶色の封筒を手に取る瞬間を思い描きながら、静かに返事を待ち続ける。
10
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
【8話完結】恋愛を諦めたおじさんは、異世界で運命と出会う。
キノア9g
BL
恋愛を諦め、ただ淡々と日々を過ごしていた笠原透(32)。
しかし、ある日突然異世界へ召喚され、「王の番」だと告げられる。
迎えたのは、美しく気高い王・エルヴェル。
手厚いもてなしと優しさに戸惑いながらも、次第に心を揺さぶられていく透。
これは、愛を遠ざけてきた男が、本当のぬくもりに触れる物語。
──運命なんて、信じていなかった。
けれど、彼の言葉が、ぬくもりが、俺の世界を変えていく。
全8話。
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
2度目の異世界移転。あの時の少年がいい歳になっていて殺気立って睨んでくるんだけど。
ありま氷炎
BL
高校一年の時、道路陥没の事故に巻き込まれ、三日間記憶がない。
異世界転移した記憶はあるんだけど、夢だと思っていた。
二年後、どうやら異世界転移してしまったらしい。
しかもこれは二度目で、あれは夢ではなかったようだった。
再会した少年はすっかりいい歳になっていて、殺気立って睨んでくるんだけど。
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
黒獅子の愛でる花
なこ
BL
レノアール伯爵家次男のサフィアは、伯爵家の中でもとりわけ浮いた存在だ。
中性的で神秘的なその美しさには、誰しもが息を呑んだ。
深い碧眼はどこか憂いを帯びており、見る者を惑わすと言う。
サフィアは密かに、幼馴染の侯爵家三男リヒトと将来を誓い合っていた。
しかし、その誓いを信じて疑うこともなかったサフィアとは裏腹に、リヒトは公爵家へ婿入りしてしまう。
毎日のように愛を囁き続けてきたリヒトの裏切り行為に、サフィアは困惑する。
そんなある日、複雑な想いを抱えて過ごすサフィアの元に、幼い王太子の世話係を打診する知らせが届く。
王太子は、黒獅子と呼ばれ、前国王を王座から引きずり降ろした現王と、その幼馴染である王妃との一人息子だ。
王妃は現在、病で療養中だという。
幼い王太子と、黒獅子の王、王妃の住まう王城で、サフィアはこれまで知ることのなかった様々な感情と直面する。
サフィアと黒獅子の王ライは、二人を取り巻く愛憎の渦に巻き込まれながらも、密かにゆっくりと心を通わせていくが…
美貌の貧乏男爵、犬扱いしていた隣国の王子に求婚される
muku
BL
父亡き後、若くして男爵となったノエルは領地経営に失敗し、多額の借金を抱えて途方に暮れていた。そこへやって来たのは十年前に「野良犬」として保護していた少年レオで、彼の成長を喜ぶノエルだったが、実はその正体が大国の王子であったと知って驚愕する。
復讐に来たのだと怯えて逃げ出すノエルだったが、レオことレオフェリス王子はノエルに結婚してほしいと頼み始める。
男爵邸に滞在すると言い出す王子は「自分はあなたの犬だ」と主張し、ノエルは混乱するしかない。見通しの立たない返済計画、積極的な犬王子、友人からのありえない提案と、悩みは尽きない美貌の男爵。
借金完済までの道のりは遠い。
狼の護衛騎士は、今日も心配が尽きない
結衣可
BL
戦の傷跡が癒えた共生都市ルーヴェン。
人族と獣人族が共に暮らすその街で、文官ユリス・アルヴィンは、穏やかな日々の中に、いつも自分を見守る“優しい視線”の存在を感じていた。
その正体は、狼族の戦士長出身の護衛騎士、ガルド・ルヴァーン。
無口で不器用だが、誠実で優しい彼は、いつしかユリスを守ることが日課になっていた。
モフモフ好きなユリスと、心配性すぎるガルド。
灰銀の狼と金灰の文官――
異種族の二人の関係がルーヴェンの風のようにやさしく、日々の中で少しずつ変わっていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる