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秋年貢
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秋の気配が深まり、遠くの山々にはわずかに赤が差し始めていた。今川館の主殿には駿遠の国人や奉行たちがずらりと並び、若き当主の言葉を静かに待っていた。
今川義元、十八歳。
かつては僧籍にあった少年が兄・氏輝の急死により還俗し、今や一国どころか二国の主。それ故その双肩には領民数万の命運と家の命脈がかかっていた。広間の正面に座した義元は、白い直垂をまとい扇を軽く膝に立てる。幼さはすでに薄れ、その目には静かな光が宿っている。
「―して、秋年貢の割符、定めの時季に至った」
言葉少なに放たれたその声は若くとも澄み渡り、場を引き締めるだけの力を持っていた。これに老臣たちも神妙にうなずく。
「駿河・遠江、今年の作柄はいかがと見るか。まずは郡奉行より申せ」
「はっ、駿河はおおむね平年並みにて候。ただし南方の一部においては、夏の長雨により田の立ち枯れ散見され、収量やや減ずるかと――」
「遠江においても似たる傾向、北遠の山間においては収穫やや低調にございます」
義元はしばし目を閉じた。収量は平均――だが余裕はない。周囲には北条、武田、三河松平がそれぞれの爪を研いでいる。金の蓄えは充分といえるが、米の蓄えもまた国の命綱。
義元は扇をゆるりと開くと、重く告げた。
「四公六民。―四割を以て、秋の年貢率と定む」
座に一瞬、静寂が走る。これに奉行のひとりが口を開いた。
「ハ、されど四割にては、農民よりの不満がやや懸念されまするが――」
これは北条の年貢率と比べれば重いと感じた者の声。
「それがしも、三分六厘ほどに留めてはとの意見が一部より――」
義元は口元に微かな笑みを浮かべたが、すぐに扇を畳みはっきりとした声音で答えた。
「この国は今まさに備えを要す時。油断すればただちに敵を呼び込もう。なれば農民には耐えを願う。されども冬の施米と荒地開墾を奨励いたす。併せて布令せよ」
若き当主の声には、もはや年齢を疑わせぬ決然さがあった。老臣たちは深々と頭を下げた。
「ははっ、仰せのままに」
義元はふと庭の紅葉を見やり、小さく息をついた。
―父も、兄も、いまやおらず。己が定める年貢率ひとつが、この国を飢えさせもすれば護りもする。若き今川義元、初めて己の意志で国の重さを測った秋であった。
…。
夜の駿府は虫の音も途絶え、風の音が竹林を渡るばかり。評定の後で残った者達との会談ですっかり遅くなり、義元と雪斎はふたりだけで夜食を摂ることにした。
月明かりの差す書院の一隅。そこへ煤けた鉄鍋に湯が静かに湛えられ、小さな火鉢の上で白い湯気を立てている。その中では角切りの豆腐がゆらゆらと湯に揺れていた。
「この秋の年貢、四割では不服の者もあった様子…」
領主として口にした手前、引っ込みがつかなかったのもある。が、恩恵も与えかなり潤っている筈と義元は読んでいたのだが。
雪斎はそれに微笑し、目の前の湯豆腐に例えた比喩で返す。
「湯の熱は芯まで届かねば意味がない。あつらえたように表が白くとも、芯が冷えたままでは水くさい塊とも思えよう」
「理解を得るにはまだ時が要ると?」
「豆腐はただ熱すればよいというものではない。こうして湯の温みが芯まで届く頃合いを待つ。それが肝要」
熱い湯気の向こうで、ふたりのまなざしが一瞬交わった。
「はて、その言葉は以前にも聞いたような気がいたします…」
それにまた笑みを零すと、雪斎は掬った湯豆腐をいれた椀を義元の前にすすめる。
「ふふふ…、あれはおぬしが十にもならぬ頃のこと。あの朝はもう米の飯は食べぬといって儂を困らせた。覚えておるか?」
「はい。あのときは出てくる米が毎度毎度硬くて、つい反発したのです」
「そのくせ湯豆腐はうまそうに食うておった。『これは京風ですか?』などと、ませたことを申してな」
「ははは、精進料理にも風流を見出したい年頃だったのでしょう」
熱い湯豆腐を刻み葱と柚子皮の浮かんだつゆに入れると、その熱で香気が立ち昇る。共に学んだ懐かしい時代を思い出し、二人はくすりと笑い合った。湯の中の豆腐は沸き立つ泡にちろちろと揺れている。
「人の器量もまた、熱の通りのようなもの。表ばかり立派でも中が冷えておれば、政も軍も動かぬもの」
「では師よ、私はもう芯まで温まっておりましょうか」
義元はふと気になって師に問うた。雪斎はそれに箸を置くと、しばし黙して湯の音に耳を傾ける。
「…焦らずともよい。芯まで熱が通るには時が要る。だがおぬしの中には途方もない火種があるのは確か。それは幼き日に湯豆腐をほおばりながら瞳を輝かせていた時より、この雪斎は見抜いておった」
「ありがとう存じます」
日々重責に追われている身。だが今宵ばかりは師と向き合い、湯豆腐の一椀に心を預けている。十八になったとはいえまだ迷いも多く、こうして心を晒し師と向かい合うと時が巻き戻り幼き頃に戻った気がする。
外では風が竹林を渡る音がまたひときわ強まった気配。
「どうぞこれからも、変わらぬご指導を賜りたく」
「言われるまでもないこと。むしろ危なっかしくて目が離せぬ」
「いや、ははは、これは手厳しい」
「そう思うのなら、もう少し師を労わってもらえると嬉しいのだがな」
今度は義元が湯豆腐を掬って雪斎にすすめる。
「精進致します」
湯の中では残った豆腐が静かに崩れた。まるで思い出が湯に溶けるように。その音すらも聞こえてくるような、心地の良い夜であった。
今川義元、十八歳。
かつては僧籍にあった少年が兄・氏輝の急死により還俗し、今や一国どころか二国の主。それ故その双肩には領民数万の命運と家の命脈がかかっていた。広間の正面に座した義元は、白い直垂をまとい扇を軽く膝に立てる。幼さはすでに薄れ、その目には静かな光が宿っている。
「―して、秋年貢の割符、定めの時季に至った」
言葉少なに放たれたその声は若くとも澄み渡り、場を引き締めるだけの力を持っていた。これに老臣たちも神妙にうなずく。
「駿河・遠江、今年の作柄はいかがと見るか。まずは郡奉行より申せ」
「はっ、駿河はおおむね平年並みにて候。ただし南方の一部においては、夏の長雨により田の立ち枯れ散見され、収量やや減ずるかと――」
「遠江においても似たる傾向、北遠の山間においては収穫やや低調にございます」
義元はしばし目を閉じた。収量は平均――だが余裕はない。周囲には北条、武田、三河松平がそれぞれの爪を研いでいる。金の蓄えは充分といえるが、米の蓄えもまた国の命綱。
義元は扇をゆるりと開くと、重く告げた。
「四公六民。―四割を以て、秋の年貢率と定む」
座に一瞬、静寂が走る。これに奉行のひとりが口を開いた。
「ハ、されど四割にては、農民よりの不満がやや懸念されまするが――」
これは北条の年貢率と比べれば重いと感じた者の声。
「それがしも、三分六厘ほどに留めてはとの意見が一部より――」
義元は口元に微かな笑みを浮かべたが、すぐに扇を畳みはっきりとした声音で答えた。
「この国は今まさに備えを要す時。油断すればただちに敵を呼び込もう。なれば農民には耐えを願う。されども冬の施米と荒地開墾を奨励いたす。併せて布令せよ」
若き当主の声には、もはや年齢を疑わせぬ決然さがあった。老臣たちは深々と頭を下げた。
「ははっ、仰せのままに」
義元はふと庭の紅葉を見やり、小さく息をついた。
―父も、兄も、いまやおらず。己が定める年貢率ひとつが、この国を飢えさせもすれば護りもする。若き今川義元、初めて己の意志で国の重さを測った秋であった。
…。
夜の駿府は虫の音も途絶え、風の音が竹林を渡るばかり。評定の後で残った者達との会談ですっかり遅くなり、義元と雪斎はふたりだけで夜食を摂ることにした。
月明かりの差す書院の一隅。そこへ煤けた鉄鍋に湯が静かに湛えられ、小さな火鉢の上で白い湯気を立てている。その中では角切りの豆腐がゆらゆらと湯に揺れていた。
「この秋の年貢、四割では不服の者もあった様子…」
領主として口にした手前、引っ込みがつかなかったのもある。が、恩恵も与えかなり潤っている筈と義元は読んでいたのだが。
雪斎はそれに微笑し、目の前の湯豆腐に例えた比喩で返す。
「湯の熱は芯まで届かねば意味がない。あつらえたように表が白くとも、芯が冷えたままでは水くさい塊とも思えよう」
「理解を得るにはまだ時が要ると?」
「豆腐はただ熱すればよいというものではない。こうして湯の温みが芯まで届く頃合いを待つ。それが肝要」
熱い湯気の向こうで、ふたりのまなざしが一瞬交わった。
「はて、その言葉は以前にも聞いたような気がいたします…」
それにまた笑みを零すと、雪斎は掬った湯豆腐をいれた椀を義元の前にすすめる。
「ふふふ…、あれはおぬしが十にもならぬ頃のこと。あの朝はもう米の飯は食べぬといって儂を困らせた。覚えておるか?」
「はい。あのときは出てくる米が毎度毎度硬くて、つい反発したのです」
「そのくせ湯豆腐はうまそうに食うておった。『これは京風ですか?』などと、ませたことを申してな」
「ははは、精進料理にも風流を見出したい年頃だったのでしょう」
熱い湯豆腐を刻み葱と柚子皮の浮かんだつゆに入れると、その熱で香気が立ち昇る。共に学んだ懐かしい時代を思い出し、二人はくすりと笑い合った。湯の中の豆腐は沸き立つ泡にちろちろと揺れている。
「人の器量もまた、熱の通りのようなもの。表ばかり立派でも中が冷えておれば、政も軍も動かぬもの」
「では師よ、私はもう芯まで温まっておりましょうか」
義元はふと気になって師に問うた。雪斎はそれに箸を置くと、しばし黙して湯の音に耳を傾ける。
「…焦らずともよい。芯まで熱が通るには時が要る。だがおぬしの中には途方もない火種があるのは確か。それは幼き日に湯豆腐をほおばりながら瞳を輝かせていた時より、この雪斎は見抜いておった」
「ありがとう存じます」
日々重責に追われている身。だが今宵ばかりは師と向き合い、湯豆腐の一椀に心を預けている。十八になったとはいえまだ迷いも多く、こうして心を晒し師と向かい合うと時が巻き戻り幼き頃に戻った気がする。
外では風が竹林を渡る音がまたひときわ強まった気配。
「どうぞこれからも、変わらぬご指導を賜りたく」
「言われるまでもないこと。むしろ危なっかしくて目が離せぬ」
「いや、ははは、これは手厳しい」
「そう思うのなら、もう少し師を労わってもらえると嬉しいのだがな」
今度は義元が湯豆腐を掬って雪斎にすすめる。
「精進致します」
湯の中では残った豆腐が静かに崩れた。まるで思い出が湯に溶けるように。その音すらも聞こえてくるような、心地の良い夜であった。
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