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山に鳴く声
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天文六年、秋――。
浜名湖の水面を渡る風は乾き、山々の木々も薄く色づき始めていた。西の堺より戻った船団が引間の港に着いたとの報が駿府の今川館に届いたのは、ちょうど義元の朝餉が終わった時分であった。
「そうか。してその船、何を積んで戻ったか?」
「はい。主には絹布と唐物、それに珍しきは生きた山羊数頭だそうにございます」
その言葉に義元の瞳が一瞬光を帯びた。
「ほぉ、ヤギと申したか。それは紛れもなく乳を出す獣であるな?」
「ハ。乳も絞れ、毛も取れるとか。堺の商人どもが他国より持ち込んだものの一部が、我らの船に渡ったとのこと」
義元は口元に笑みを浮かべた。ようやく求めていたヤギが手に入ったのだ。
座を離れ、歩を庭の縁側へと進める。そこからは、安倍川の流れが遠く光を帯びて見えた。川向こうの丘陵に広がるのは、ぽつぽつと切り開かれた棚田とその周囲の木立。そして、さらにその奥には険しい山々が連なっていた。
「駿遠の地は広しとはいえ、平らなる田畑はわずか。あの山あの谷と、どれほどの力を費やせど米一石を取るにも難儀する始末。普通では田を拓けど水が下りず、畑に種を蒔けば鹿と猪がしつこく荒らしていく」
義元の声には静かなる怒りがにじんでいた。それはいくら常備兵たちを動員したところで領地全体を変えていくには、多くの時間と労力を要すると知ったからだった。
「だがあの山の草地をヤギが食みて、乳を出し毛を落とす。こうなれば人の手間をかけずとも、山を金山に変える術が生まれる」
ひと息つくと、義元は振り返って続けた。
「駿河と遠江。この地は守りには向いておる。山に囲まれているゆえ攻め口は限られ、川も守りとなろう。だが食には乏しい。多くの兵を養うに十分な米がとれぬ。これに漁ばかりを進めては、やがては海も痩せてゆこう」
脳裏には花倉の乱で見た凄惨な光景が焼きついていた。家中が割れ、農村が荒れ、一部では飯も水も絶えたあの夏――。兵士らが乱暴に刈った稗を噛み、泥にまみれ息絶えていった地獄を忘れてはいなかった。
「ヤギの雌は子を産み数を殖やす。牛ほどに大きくもなく、駿遠の険しき丘にも放せよう」
義元は傍に控えていた山本勘助を呼び寄せた。
「勘助。そなたの指図で牧を造らせよ。まずは岩本山あたりの開けた丘がよい。下には水もある。村の者に世話を命じよ。餌は山草、囲いは竹でよい」
「かしこまりました。ただ、ひとつお尋ねを。その獣、山に放っても逃げぬものでしょうか?」
義元は少しだけ笑い、こう答えた。
「ヤギは群れをつくる生き物ゆえ、常に群れで動く。なれど放す間は共に動ける身軽な童に面倒をみさせよ。それにいう事をよく聞く犬もおれば、なおのこと良い」
堺より戻った船から、白き毛をもつ小さき獣が駿府の町に連れられてきた。人々はそれを物珍しげに眺める。山羊はそうした人々を恐れるでもなく、涼やかな瞳で遠くの山を見つめていた。
駿遠の険しき山と乏しき田の地に、また一本の道筋が開かれた日であった。
浜名湖の水面を渡る風は乾き、山々の木々も薄く色づき始めていた。西の堺より戻った船団が引間の港に着いたとの報が駿府の今川館に届いたのは、ちょうど義元の朝餉が終わった時分であった。
「そうか。してその船、何を積んで戻ったか?」
「はい。主には絹布と唐物、それに珍しきは生きた山羊数頭だそうにございます」
その言葉に義元の瞳が一瞬光を帯びた。
「ほぉ、ヤギと申したか。それは紛れもなく乳を出す獣であるな?」
「ハ。乳も絞れ、毛も取れるとか。堺の商人どもが他国より持ち込んだものの一部が、我らの船に渡ったとのこと」
義元は口元に笑みを浮かべた。ようやく求めていたヤギが手に入ったのだ。
座を離れ、歩を庭の縁側へと進める。そこからは、安倍川の流れが遠く光を帯びて見えた。川向こうの丘陵に広がるのは、ぽつぽつと切り開かれた棚田とその周囲の木立。そして、さらにその奥には険しい山々が連なっていた。
「駿遠の地は広しとはいえ、平らなる田畑はわずか。あの山あの谷と、どれほどの力を費やせど米一石を取るにも難儀する始末。普通では田を拓けど水が下りず、畑に種を蒔けば鹿と猪がしつこく荒らしていく」
義元の声には静かなる怒りがにじんでいた。それはいくら常備兵たちを動員したところで領地全体を変えていくには、多くの時間と労力を要すると知ったからだった。
「だがあの山の草地をヤギが食みて、乳を出し毛を落とす。こうなれば人の手間をかけずとも、山を金山に変える術が生まれる」
ひと息つくと、義元は振り返って続けた。
「駿河と遠江。この地は守りには向いておる。山に囲まれているゆえ攻め口は限られ、川も守りとなろう。だが食には乏しい。多くの兵を養うに十分な米がとれぬ。これに漁ばかりを進めては、やがては海も痩せてゆこう」
脳裏には花倉の乱で見た凄惨な光景が焼きついていた。家中が割れ、農村が荒れ、一部では飯も水も絶えたあの夏――。兵士らが乱暴に刈った稗を噛み、泥にまみれ息絶えていった地獄を忘れてはいなかった。
「ヤギの雌は子を産み数を殖やす。牛ほどに大きくもなく、駿遠の険しき丘にも放せよう」
義元は傍に控えていた山本勘助を呼び寄せた。
「勘助。そなたの指図で牧を造らせよ。まずは岩本山あたりの開けた丘がよい。下には水もある。村の者に世話を命じよ。餌は山草、囲いは竹でよい」
「かしこまりました。ただ、ひとつお尋ねを。その獣、山に放っても逃げぬものでしょうか?」
義元は少しだけ笑い、こう答えた。
「ヤギは群れをつくる生き物ゆえ、常に群れで動く。なれど放す間は共に動ける身軽な童に面倒をみさせよ。それにいう事をよく聞く犬もおれば、なおのこと良い」
堺より戻った船から、白き毛をもつ小さき獣が駿府の町に連れられてきた。人々はそれを物珍しげに眺める。山羊はそうした人々を恐れるでもなく、涼やかな瞳で遠くの山を見つめていた。
駿遠の険しき山と乏しき田の地に、また一本の道筋が開かれた日であった。
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