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野に立つ白き獣
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岩本山の丘に囲いができてから半月が過ぎた。初めてこの地に放たれた山羊たちは最初こそ周囲を警戒していたものの、やがて山草を自由に食み緩やかな斜面を登り降りするようになった。
しかし村の者たちは、はじめこの見慣れぬ生き物を不気味なものと見ていた。
「おかしな眼をした角のある獣が、なにやら怪しい声で鳴いておる。まるで鬼の子だ」
「いや、鹿にも角は在ろう。じゃが鹿と同じで畑を荒らすんでないか?」
「怖や怖や…。乳が出るなどと言うが、化け物の類ではあるまいな…」
不安がる者たちは眉をひそめ、畑を持つ百姓は距離を置いた。だがそんな風評も面倒見の良い老婆の一言で吹き飛んだ。
「なんの、山羊も牛とたいして変わらん。それに乳を煮て粥にしたら赤ん坊の熱が下がった。よう効く甘い乳じゃ」
「まぁ、山羊の乳とはそれほど甘いのかえ?」
これをきっかけに、女たちは椀を持って囲いの前に並び始めた。搾った乳を受け取り、それを口にした子供たちはそのさっぱりとした酸味と甘さに顔をほころばせた。草の香りが残る淡い乳は、痩せた農民の胃にもやさしく染みたのだ。
「ふむ、この丘には水が乏しい。草の丈も低い」
「ならばこちらの沢筋に移すがよい。山間にて他の獣も少なかろう」
さらなる飼育地の選定は、かつての検地とは異なる目線で行われた。田を作れぬ土地にこそ価値を見いだすという真逆の着想。義元はこれを山の民にも力をと唱えた。
「今はの。ヤギを大事に大事に育て、よく太らせよ。育て方を学び、殖えてからが勝負よ」
それまで山村は国人領主の支配を受けつつ年貢の負担ばかりが重く、米もろくに採れない。そのため不作の年にはしばしば民が逃げ出していた。だが山羊の導入はそうした地域に牧畜という新たな産業を植え付けられる。
だが反面、その価値や意味を分からぬ者たちの中には不満を漏らす者もいた。
「なにを考えておられるのか。太守はおかしな獣にかまけてばかり。戦の備えこそ急務というに」
「左様。米と武具を備えねば、甲斐や三河に笑われましょうぞ」
だが義元はその声にも微笑をもって応じた。
「ほほほ、そなたらの懸念も尤もな事。されど米が市に集まれば、直にその値も下がろう。その時にはドンと買うてやる。それ故この冬は施米で誰ひとり飢えさせぬ。飢えで人が減らねば、それだけ来年の力となろう?」
「「おお」」
義元には深い戦略があった。この地に豊かな米を望むのは難しい。ならば獣や果樹で金を得て、その金で米を買う。それにはじっくりと山を育てるしかない。
稲以外の生産により、山の金山化を目指す施策。それはまず馬や牛とも違う、角のある小さき白き獣によって始められた。これにより領民たちの価値観を変え、民と兵を支える新たな糧のかたちと成していくのだ。
しかし村の者たちは、はじめこの見慣れぬ生き物を不気味なものと見ていた。
「おかしな眼をした角のある獣が、なにやら怪しい声で鳴いておる。まるで鬼の子だ」
「いや、鹿にも角は在ろう。じゃが鹿と同じで畑を荒らすんでないか?」
「怖や怖や…。乳が出るなどと言うが、化け物の類ではあるまいな…」
不安がる者たちは眉をひそめ、畑を持つ百姓は距離を置いた。だがそんな風評も面倒見の良い老婆の一言で吹き飛んだ。
「なんの、山羊も牛とたいして変わらん。それに乳を煮て粥にしたら赤ん坊の熱が下がった。よう効く甘い乳じゃ」
「まぁ、山羊の乳とはそれほど甘いのかえ?」
これをきっかけに、女たちは椀を持って囲いの前に並び始めた。搾った乳を受け取り、それを口にした子供たちはそのさっぱりとした酸味と甘さに顔をほころばせた。草の香りが残る淡い乳は、痩せた農民の胃にもやさしく染みたのだ。
「ふむ、この丘には水が乏しい。草の丈も低い」
「ならばこちらの沢筋に移すがよい。山間にて他の獣も少なかろう」
さらなる飼育地の選定は、かつての検地とは異なる目線で行われた。田を作れぬ土地にこそ価値を見いだすという真逆の着想。義元はこれを山の民にも力をと唱えた。
「今はの。ヤギを大事に大事に育て、よく太らせよ。育て方を学び、殖えてからが勝負よ」
それまで山村は国人領主の支配を受けつつ年貢の負担ばかりが重く、米もろくに採れない。そのため不作の年にはしばしば民が逃げ出していた。だが山羊の導入はそうした地域に牧畜という新たな産業を植え付けられる。
だが反面、その価値や意味を分からぬ者たちの中には不満を漏らす者もいた。
「なにを考えておられるのか。太守はおかしな獣にかまけてばかり。戦の備えこそ急務というに」
「左様。米と武具を備えねば、甲斐や三河に笑われましょうぞ」
だが義元はその声にも微笑をもって応じた。
「ほほほ、そなたらの懸念も尤もな事。されど米が市に集まれば、直にその値も下がろう。その時にはドンと買うてやる。それ故この冬は施米で誰ひとり飢えさせぬ。飢えで人が減らねば、それだけ来年の力となろう?」
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