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那古野の春
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この日の尾張の空は、まだ冬の余韻を残して曇りがちであった。
そしてここ清洲の城中において、斯波義統は何かそわそわと妙に落ち着かぬ様子を見せていた。書院に座してもしきりに膝を揺すり、心ここにあらずといった風。その様は近習たちも顔を見合わせるほどであった。
「はて、正月に出かけてから、どこか様子がおかしくはないか」
「さあ、春の陽気に浮かれたのであろう」
斯波家の威光は衰え、その実権は織田守護代両家に握られている。ゆえに若き当主の振る舞いも家臣たちの目にはどこか軽んじられ、笑いの種とされることが多かった。
そんな折、城下の寺から使いが参じた。説法をいたしますゆえ、殿も如何かとの勧めであった。これに義統は目を輝かせ、近臣わずかを連れそそくさと出立した。だが、これを監視の者たちは鼻で笑い、深刻に受け止めようとしなかった。
「坊主など呼び付ければよいものを。やはり女か。さては寺で、多少は見た目の良いはした女でもあてがわれたな」
「まったく、寺を口実にするとは。先が思いやられるわ」
織田家がお目付け役にとつけた家臣たちは、口々に皮肉を叩く。なにせ斯波家は、いまや名ばかりの守護。若殿がどこで遊び惚けていようとも大した影響はない。むしろ陰鬱な顔で城に居られることの方がうっとおしい。そんな状況から守護自らが外出するのも、立場が分かってきたのだろうと誰も気にも留めなかったのである。
しかし出かけた義統からすぐに、寺で餅つきをするから参加せよと別の者たちが呼ばれた。
それらは僅かに残った、義統が信用する家臣達。それでもその程度の数では何も出来ぬ。精々が餅をつきながら愚痴を吐くのが関の山だろうと、笑って放置された。
しかし、これが夕刻になっても義統は戻らなかった。
流石にこれはおかしいと感じた家老が寺に使いを走らせる。すると、そこには確かに餅つきの跡があった。しかし義統の姿はない。そこで僧侶に問うと、しばらく前に酒に酔われご機嫌でお帰りになったと答える。
「ば、帰っただと?城へ戻ったなら途中で出会う筈。それがいったい、何処へ帰ったというのだ!?」
使者はあちこちと、立ち寄りそうな場所を探し歩いた。だが一向にその足取りは掴めない。
こうしてその夜、清洲城は奇妙な不安に包まれた。城中の者たちは若殿の軽率さをあざけりながらも、心の底では不吉な予感を覚えずにはいられなかった。無事であればよいが、もし何か遭った時に自分達が周りから疑われるのは面白くなかった為である。
一方、岩倉の織田信安のもとにも、斯波義統が失踪したらしいとの報せが届いた。
「なんと。斯波家は末世に至ったか」
信安は冷笑し、対立する清洲織田氏の失態を心中でほくそ笑んだ。
翌日になっても義統は姿を現さない。だが、代わりに届いたのは一通の書状。そして差出人の名は、斯波義統。文には那古野城にて宴を催すゆえ、守護代の両名も参れと書かれている。
清洲の織田彦五郎は愕然とした。
「な、那古野城だと?あれは今川の城。馬鹿を申すな」
岩倉の織田信安も書状を読み、目を細めた。
「昨夜は行方知れずだったものが、なぜ那古野に…」
訝しみつつも、立場上斯波家当主の招きは無視できぬ。両名は互いに出方を探りながら文の内容を確かめ合うと、しぶしぶ那古野へ向かうこととなった。
城門を潜り、大広間へと通された彼ら。そこで目にしたのは、晴れやかに装いを凝らした斯波義統の姿であった。
「両名とも、よう参ったな。今日は真に良き日。その方らが証人ぞ」
しかもそこには今川方の使者が控えており、厳かに文書が読み上げられている。
「―以上をもって、那古野城を斯波義統様に譲渡致します」
それはまさしく、城譲渡の調印式であった。
「なッ!?」
「馬鹿な、城の譲渡だと…!?」
織田守護代の両名は思わず声を漏らした。
清洲でそわそわと落ち着かなかった様子。寺に出かけたきり戻らなかった一件。それらは全て、この為の仕掛けであったのだ。
斯波家は尾張守護。だがその形ばかりの当主がまさか今川家の後押しを得て、堂々と那古野城に入るとは。さらにこの場では否応なく、織田の両家はその事実を認めざるを得なかった。返還するという話の内容には、なんの不備不都合も無いのだから。
書状に署名と血判をついた義統は懐紙でその指を拭うと、酒杯を掲げにこやかに言った。
「これよりは、ここ那古野を我が居城といたす。そなたらもよくよく力を合わせ、斯波家を盛り立ててくれよ」
大広間には賛同と祝いの笑いが満ちた。が、守護代たちの胸中は煮えくり返る思い。外とのやり取りは守護の役目。が、それを一言の相談もなく頭越しにされれば、自分達の立場がない。されど城ひとつを貰い受ける交渉をしろと命じられても、どうすればよいのか皆目見当もつかなかった。
結果、宴は続き華やかに盃が交わされるなか、両名はただただ苦渋を隠す笑みを浮かべるしかなかった。
――してやられた。
こうして斯波義統は清洲から忽然と姿を消し、那古野城を新たな居城として世に示したのである。
…。
斯波家の威信は、この日を境にわずかながらも息を吹き返した。もっとも実権は依然として織田家の手中にあり、義統の未来は決して安泰ではない。だが初めて我が手で家臣どもの裏をかいてやったと、胸のすく思いに満ちていた。義統は那古野城の天守から、尾張の地を眺めた。
――してやったぞ!
たとえそれが今川の手を借り操られた結果だったとしても、こうして城が無傷で手に入ったのだ。さらに当面の暮らしに困らぬようにと、今川は蔵の財や兵糧をそのまま置いていってくれた。それがあれば、新たに家臣を雇うことだって出来よう。
期待に胸を膨らませ大きく息を吸い込むと、風がやさしく吹き抜けてゆくのを頬に感じた。それは春の到来を感じさせる、心地の良いとてもやわらかな風であった。
そしてここ清洲の城中において、斯波義統は何かそわそわと妙に落ち着かぬ様子を見せていた。書院に座してもしきりに膝を揺すり、心ここにあらずといった風。その様は近習たちも顔を見合わせるほどであった。
「はて、正月に出かけてから、どこか様子がおかしくはないか」
「さあ、春の陽気に浮かれたのであろう」
斯波家の威光は衰え、その実権は織田守護代両家に握られている。ゆえに若き当主の振る舞いも家臣たちの目にはどこか軽んじられ、笑いの種とされることが多かった。
そんな折、城下の寺から使いが参じた。説法をいたしますゆえ、殿も如何かとの勧めであった。これに義統は目を輝かせ、近臣わずかを連れそそくさと出立した。だが、これを監視の者たちは鼻で笑い、深刻に受け止めようとしなかった。
「坊主など呼び付ければよいものを。やはり女か。さては寺で、多少は見た目の良いはした女でもあてがわれたな」
「まったく、寺を口実にするとは。先が思いやられるわ」
織田家がお目付け役にとつけた家臣たちは、口々に皮肉を叩く。なにせ斯波家は、いまや名ばかりの守護。若殿がどこで遊び惚けていようとも大した影響はない。むしろ陰鬱な顔で城に居られることの方がうっとおしい。そんな状況から守護自らが外出するのも、立場が分かってきたのだろうと誰も気にも留めなかったのである。
しかし出かけた義統からすぐに、寺で餅つきをするから参加せよと別の者たちが呼ばれた。
それらは僅かに残った、義統が信用する家臣達。それでもその程度の数では何も出来ぬ。精々が餅をつきながら愚痴を吐くのが関の山だろうと、笑って放置された。
しかし、これが夕刻になっても義統は戻らなかった。
流石にこれはおかしいと感じた家老が寺に使いを走らせる。すると、そこには確かに餅つきの跡があった。しかし義統の姿はない。そこで僧侶に問うと、しばらく前に酒に酔われご機嫌でお帰りになったと答える。
「ば、帰っただと?城へ戻ったなら途中で出会う筈。それがいったい、何処へ帰ったというのだ!?」
使者はあちこちと、立ち寄りそうな場所を探し歩いた。だが一向にその足取りは掴めない。
こうしてその夜、清洲城は奇妙な不安に包まれた。城中の者たちは若殿の軽率さをあざけりながらも、心の底では不吉な予感を覚えずにはいられなかった。無事であればよいが、もし何か遭った時に自分達が周りから疑われるのは面白くなかった為である。
一方、岩倉の織田信安のもとにも、斯波義統が失踪したらしいとの報せが届いた。
「なんと。斯波家は末世に至ったか」
信安は冷笑し、対立する清洲織田氏の失態を心中でほくそ笑んだ。
翌日になっても義統は姿を現さない。だが、代わりに届いたのは一通の書状。そして差出人の名は、斯波義統。文には那古野城にて宴を催すゆえ、守護代の両名も参れと書かれている。
清洲の織田彦五郎は愕然とした。
「な、那古野城だと?あれは今川の城。馬鹿を申すな」
岩倉の織田信安も書状を読み、目を細めた。
「昨夜は行方知れずだったものが、なぜ那古野に…」
訝しみつつも、立場上斯波家当主の招きは無視できぬ。両名は互いに出方を探りながら文の内容を確かめ合うと、しぶしぶ那古野へ向かうこととなった。
城門を潜り、大広間へと通された彼ら。そこで目にしたのは、晴れやかに装いを凝らした斯波義統の姿であった。
「両名とも、よう参ったな。今日は真に良き日。その方らが証人ぞ」
しかもそこには今川方の使者が控えており、厳かに文書が読み上げられている。
「―以上をもって、那古野城を斯波義統様に譲渡致します」
それはまさしく、城譲渡の調印式であった。
「なッ!?」
「馬鹿な、城の譲渡だと…!?」
織田守護代の両名は思わず声を漏らした。
清洲でそわそわと落ち着かなかった様子。寺に出かけたきり戻らなかった一件。それらは全て、この為の仕掛けであったのだ。
斯波家は尾張守護。だがその形ばかりの当主がまさか今川家の後押しを得て、堂々と那古野城に入るとは。さらにこの場では否応なく、織田の両家はその事実を認めざるを得なかった。返還するという話の内容には、なんの不備不都合も無いのだから。
書状に署名と血判をついた義統は懐紙でその指を拭うと、酒杯を掲げにこやかに言った。
「これよりは、ここ那古野を我が居城といたす。そなたらもよくよく力を合わせ、斯波家を盛り立ててくれよ」
大広間には賛同と祝いの笑いが満ちた。が、守護代たちの胸中は煮えくり返る思い。外とのやり取りは守護の役目。が、それを一言の相談もなく頭越しにされれば、自分達の立場がない。されど城ひとつを貰い受ける交渉をしろと命じられても、どうすればよいのか皆目見当もつかなかった。
結果、宴は続き華やかに盃が交わされるなか、両名はただただ苦渋を隠す笑みを浮かべるしかなかった。
――してやられた。
こうして斯波義統は清洲から忽然と姿を消し、那古野城を新たな居城として世に示したのである。
…。
斯波家の威信は、この日を境にわずかながらも息を吹き返した。もっとも実権は依然として織田家の手中にあり、義統の未来は決して安泰ではない。だが初めて我が手で家臣どもの裏をかいてやったと、胸のすく思いに満ちていた。義統は那古野城の天守から、尾張の地を眺めた。
――してやったぞ!
たとえそれが今川の手を借り操られた結果だったとしても、こうして城が無傷で手に入ったのだ。さらに当面の暮らしに困らぬようにと、今川は蔵の財や兵糧をそのまま置いていってくれた。それがあれば、新たに家臣を雇うことだって出来よう。
期待に胸を膨らませ大きく息を吸い込むと、風がやさしく吹き抜けてゆくのを頬に感じた。それは春の到来を感じさせる、心地の良いとてもやわらかな風であった。
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