≒今川義元 風雲繁盛記≒

空志戸レミ

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怒りの弾正

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天文七年の早春。まだ芽吹かぬ尾張の野を、乾いた木枯らしが冷たく吹き抜けていた。外を出歩く人影はなく、刈られた田畑は静まり返っている。

だがここ古渡城の一角では、只ならぬ怒声が大きく響いていた。

「なにぃ、斯波義統が那古野に入ったと申すか!」

天を突くほどの怒声に、部屋の襖までもが震える。叫んだのは尾張の事実上の支配者と目される、織田弾正忠信秀。しかし今はその眼を赤く血走らせ、傍らにあった香炉を蹴り飛ばした。

「何をたわけたことを!あの傀儡が城を手に入れただと!いったい誰の許しを得て!?」
「どうかお鎮まりを!これは斯波が今川と通じた策にございます」

慌てた近臣が主君を静めようと手を尽くす。

「分かっておるわ!だが対価は!?あの今川がただで城を渡すなどあるまい!」

激情に駆られた信秀は、今度は文机の面を拳で強く叩き割った。

「この尾張を今まで誰が護り通してきたか…。斯波か!?違う!織田よ!あ奴の父は周りが止めるのも効かずに兵を出し、遠江で捕まった間抜けではないか!」
「し、周囲に聞こえます!どうかお鎮まりを…!」

那古野城。それは信秀がかねてから目をつけていた城であった。津島から清洲へ、そして那古野を押さえることで尾張の西と中央を手中に収めるという構想。それは長いあいだ信秀が脳裏に思い描いてきたこと。

だが駿河の今川義元が、突如として斯波に那古野城を譲ったという報が入ったのだ。それがどうにも我慢ならなかった。

それをどうにか宥めようと、控えていた家老の林秀貞が口を開く。

「殿。斯波が那古野を得たとて、早々動ける訳ではございませぬ。今の斯波家には軍を動かす金も兵糧もありませぬゆえ…」
「分かっておるわ!だが、そこに付けこんで今川の青二才めが口を挟んできた。今まで斯波を虐げてきた分、家中の火種となりうるわ」

これに、もう一人その場に控えた家老、平手政秀が低く口を開いた。

「なれども、那古野の地はもとより斯波家が所領。民の目にもこれは正当な返還。譲渡の運びと映りましょう」
「だから厄介なのだろうが!」

信秀は吐き捨てるように言った。

「理を踏まず、出兵に異を唱えた織田達定を討ったはあ奴の父よ。挙句に遠江で捕まり帰らぬ始末。その間、尾張を守り続けたのは我ら織田。断じて斯波などない!」
「さ、それそれ。それ故に道理の通る手として、今川は斯波を使ったのでございましょう」

温厚な政秀が、ゆるりとした口調で火のように怒りを燃やす主君を諫める。

「ですので、これはどうかお気を付けを。この動き。どうやら今川が狙うは尾張を攻めるのではなく、殿の動きを封じることが目的かと。斯波に正統性を与え、他の織田家をはじめ信秀様を逆賊と見せる構えでは?」
「ハッ!それこそ戯言よ!」

信秀は立ち上がり、床を踏み鳴らした。

「正統だと?我らが何年ここで民のために塩を運び、米を刈らせ、税を集めて治めてきた!それを逆賊と申すか!」

政秀はそれにも頷きつつ答える。

「さればこそ、まずはお静まりを。怒りにまかせて動かれれば、まさに相手の思惑通り。今城を奪おうとすれば、斯波は謀反されたと訴えましょう。その時には今川も大義を得て、堂々と尾張に兵を入れる口実を与えてしまいます」

林秀貞も頷いてこれに続く。

「そうですな。ここは斯波が那古野にて何を為すか、しばらくは様子を見るべきかと。名ばかりの守護がどの程度やれるのかを見るのも、また一興ではございますまいか?」

その言葉に、信秀の目が刃のように鋭く光った。

「たわけが!今までどれほど辛抱強く待ったと思っている!だが、今はまだ預けておこう。うぬらもしかと策と仕掛けを考えよ!」

炎のような怒りはまだ胸の奥に燃えている。だが理は通じた。これに平手政秀が深く頭を下げる。

「ご明察にございます。今は耳目が向いております故、那古野を奪うならば機を待つべきかと。名分あってこそ民の心もついて参りましょう」

それを聞いてか聞かぬか。信秀は黙ったまま荒々しく歩を庭縁へと進める。

空は鈍色に暗く、冷たい風が松の枝を揺らし吹き抜けていた。春は遠く、土はまだ凍えるように硬い。だが、いずれ必ず花も咲こう。その時こそは那古野を。いや尾張を我が手中に。

信秀の眼の奥には燃える野心が渦巻いていた。
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