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明星
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斯波家からの使者をもてなしている間に豪奢な贈り物を整えると、義元は丁寧な書状を武田と北条の両家へ送った。
―尾張は斯波家より縁組の望みこれあり。我が身には過分な話なれど尾張の安寧に資することと存じ候。ここは偏に御意を仰ぐべきものにて―
書状の内容は駿河と遠江を擁し東三河を押さえる大国の当主とは、とても思えぬほど腰の低いもの。その言葉の端々には、ただ賛同を得たいという慎重さがにじんでいる。己が大国の主であることは承知していた。だが同時に義父の傲慢さと北条の干渉心もよく知っていた。その無用な反発を避ける為には、どうあろうと下手に出る他ない。
その甲斐あって、まずは武田からの返書が届いた。信虎はいつものごとく強圧的な文を連ねていたが、最終的には側室ならば異存はないと婚姻を認めた。北条からも過去の諍いを治める為ならば致し方なしと返書が届いた。双方言葉の端々に上であろうとする態度は相変わらずであった。が、少なくとも反対はされずに済んだのだ。
これに義元は深く安堵の息を吐いた。ここでもし反対されていたら、覆すにはまた多くの時を要すことになっていただろう。
恐らくは、どちらも落ち目の斯波と結んだところで大したことはないと考えた筈。そしてまだ若い義元が城を明け渡してまで関係を修復したことを、なんという弱腰だと笑っていよう。だがそうして侮られている時間は、たとえ望んだとしても決して長くは続かない。
ともかく了承は得られたのだ。義元は斯波家への返事を書くためまた静かに筆を執った。
―この度の御厚意、まことに有難く存じ候。斯波家の御姫君を拝領仕るは、我が家門にとりても光栄の至りに候。尾張の安寧を願う心は我らも同じくするところにて、力を合わせんことを特に望むものなり。
その筆致には誠実さがにじんでいた。だが同時に冷徹な計算もまた働いていた。斯波を庇護することで、その家臣である織田を制す。尾張に今川の影響力を及ぼし、その間に三河と遠江を盤石に固める。その先に広がる未来。それを義元は冷静に見据えていた。
…。
今川館の奥深く、書院の襖をまだ春寒の残る夜風が揺らしていた。その音にふと筆を止めると、義元は息を吐いた。
何時の間にか夜も更けている。灯明の火がかすかに揺れる。目の前に広げた文案は、己が胸の内を吐露することのない外交文書。しかしその一行一行が自身の迷いと恐れを覆い隠す経のようにも思えた。
「二万。いや、頑張れば三万は集められようか」
頭の中で駿河・遠江・東三河の総力を数える。徴発すればその規模の兵を動員できる筈。武田も北条もその数を決して軽んじはすまい。そして、この力をもってすれば荒れる三河を押しつぶすことなど造作もない。
だが、それをすることが果たして本当に正しいのか。義元は己に問い続けていた。
表面に現れる己は、策を弄する小賢しい若者に見えるかもしれぬ。しかし胸の底には、常に重い影が巣くっている。自分は本当に大国を率いる器か。今はただ、都合がよく丁度いいからと当主の座に据えられているに過ぎない。義元に良くしてくれる家臣達も、父や兄から受けた恩を返しているに過ぎない。今川館に控える家老や譜代の武士たちも、いつかは声を揃えて義元に当主たるべき強さを示せと求めてくるだろう。
動けば勝てよう。だが勝ったとして、その先は?
脳裏にはもし軽挙に出た場合の未来がはっきりと浮かんでくる。三河を武力で平らげたとしても、待っているのは袋叩き。やはり危険だったかと甲斐からは武田が牙を剥き、相模の北条がまた強く干渉してくるに違いない。あの二国にとって今川が都合の良い存在であるうちは良い。しかし少しでも大きく羽ばたこうとしたなら、たちまち潰すべき存在へと変貌する。同盟の中で中核に立つ者の宿命。それを義元は嫌というほど理解していた。
―勝っても負けるか…。
言葉は誰にも聞かれぬよう小さかった。勝利を重ねながらも敗北に至るという帰結。若さがもたらす血気と理性がせめぎ合う。別の生の記憶はあれど、その矛盾は重く心にのしかかる。名門今川家を己が軽挙で滅ぼすわけにはいかない。迂闊に戦端を開き、氏輝兄上と同じ轍を踏んではならぬ。
ではどうすべきか。義元は幾度も自問を繰り返すが、行き着くところはいつも同じであった。
ー今は動かぬことこそ肝要。
動かぬこと。それは臆病ではない。己が力を秘し、周囲に利を与え和した方が得と思わせる。それこそが生き残りの術。野心を見せず確かな存在感を示すことが出来れば、兵を動かさずとも周囲に影響を及ぼせよう。そのような立場を築き上げることこそが、選ぶべき道であると理性は囁いていた。
思えば斯波に仕掛けた策に続く縁談も、まさにその一歩。織田の増長に怯える斯波家。その不安に寄り添い姫を受け入れることで、尾張に静かな楔を打ち込む。これぞ軍を動かさずに相手を制する戰。しかしこれとて危うい均衡の上に立っているに過ぎない。武田と北条に伺いを立て承認を得ねばならぬ姿勢は、己が矜持を削った。だが矜持よりも国を守ることが先決。
―兵站の国、となる、か。
義元は心中で反芻した。野心を抑え、駿河・遠江を兵站基地として働かせる。兵糧、塩などを整え、同盟国にとって無くてはならぬ存在とする。害すより和する方が得。そう思わせ続けなければならない。険しい山国の甲斐には物資を供給し、相模を押さえる北条には背後の安心を与える。己が刃を振るわずとも、二国はこの先も戰を続けるだろう。そこに今川の影を落とせばよい。
―ただ、本当にそれでよいのか。
迷いの中には、どうしても沸き上がる血潮がある。周囲がしているように己が手で刀を振るい、軍を率いて勝利を掴む。この戦国の世に覇業を成してみたいという欲望。しかしそのような衝動は幾度も押し殺してきた。僧籍から還俗し家督を継いだ自分は、もとより望まれぬ当主。
―そんな自分に降りてきた不可思議な未来の知識。その意味とは。
これが覇業をなす為ならば、もっと猛々しい武将のもとに降りていたであろう。
「やはり、まずは揺るがぬ国造り。これを急がねば…」
心に定まった言葉はその夜、何度も繰り返された。揺るがぬ国―それは外征によって広げた版図ではなく、内から固められた堅牢な基盤。農を安定させ、商いを育て、兵を鍛え家中をまとめる。そうしてこそいずれ訪れる大乱にも、怯まずに臨めよう。
―そうだ。その時にこそ動けばよい。今は動けずとも、いつか機は訪れる。
灯明の火が細くなり、夜はさらに深まっていく。義元は筆をとり、書きかけの文案に新たな一行を書き加えた。そこにはやはり、武ではなく和を重んじる言葉が記された。誰が見ても柔らかく謙虚で、低姿勢な文。しかしその奥には、他の誰でもない己で選びとった覚悟が潜んでいた。
動かぬことで力を示す。それを胸に秘め、義元もまた長い夜を越えようとしていた。
―尾張は斯波家より縁組の望みこれあり。我が身には過分な話なれど尾張の安寧に資することと存じ候。ここは偏に御意を仰ぐべきものにて―
書状の内容は駿河と遠江を擁し東三河を押さえる大国の当主とは、とても思えぬほど腰の低いもの。その言葉の端々には、ただ賛同を得たいという慎重さがにじんでいる。己が大国の主であることは承知していた。だが同時に義父の傲慢さと北条の干渉心もよく知っていた。その無用な反発を避ける為には、どうあろうと下手に出る他ない。
その甲斐あって、まずは武田からの返書が届いた。信虎はいつものごとく強圧的な文を連ねていたが、最終的には側室ならば異存はないと婚姻を認めた。北条からも過去の諍いを治める為ならば致し方なしと返書が届いた。双方言葉の端々に上であろうとする態度は相変わらずであった。が、少なくとも反対はされずに済んだのだ。
これに義元は深く安堵の息を吐いた。ここでもし反対されていたら、覆すにはまた多くの時を要すことになっていただろう。
恐らくは、どちらも落ち目の斯波と結んだところで大したことはないと考えた筈。そしてまだ若い義元が城を明け渡してまで関係を修復したことを、なんという弱腰だと笑っていよう。だがそうして侮られている時間は、たとえ望んだとしても決して長くは続かない。
ともかく了承は得られたのだ。義元は斯波家への返事を書くためまた静かに筆を執った。
―この度の御厚意、まことに有難く存じ候。斯波家の御姫君を拝領仕るは、我が家門にとりても光栄の至りに候。尾張の安寧を願う心は我らも同じくするところにて、力を合わせんことを特に望むものなり。
その筆致には誠実さがにじんでいた。だが同時に冷徹な計算もまた働いていた。斯波を庇護することで、その家臣である織田を制す。尾張に今川の影響力を及ぼし、その間に三河と遠江を盤石に固める。その先に広がる未来。それを義元は冷静に見据えていた。
…。
今川館の奥深く、書院の襖をまだ春寒の残る夜風が揺らしていた。その音にふと筆を止めると、義元は息を吐いた。
何時の間にか夜も更けている。灯明の火がかすかに揺れる。目の前に広げた文案は、己が胸の内を吐露することのない外交文書。しかしその一行一行が自身の迷いと恐れを覆い隠す経のようにも思えた。
「二万。いや、頑張れば三万は集められようか」
頭の中で駿河・遠江・東三河の総力を数える。徴発すればその規模の兵を動員できる筈。武田も北条もその数を決して軽んじはすまい。そして、この力をもってすれば荒れる三河を押しつぶすことなど造作もない。
だが、それをすることが果たして本当に正しいのか。義元は己に問い続けていた。
表面に現れる己は、策を弄する小賢しい若者に見えるかもしれぬ。しかし胸の底には、常に重い影が巣くっている。自分は本当に大国を率いる器か。今はただ、都合がよく丁度いいからと当主の座に据えられているに過ぎない。義元に良くしてくれる家臣達も、父や兄から受けた恩を返しているに過ぎない。今川館に控える家老や譜代の武士たちも、いつかは声を揃えて義元に当主たるべき強さを示せと求めてくるだろう。
動けば勝てよう。だが勝ったとして、その先は?
脳裏にはもし軽挙に出た場合の未来がはっきりと浮かんでくる。三河を武力で平らげたとしても、待っているのは袋叩き。やはり危険だったかと甲斐からは武田が牙を剥き、相模の北条がまた強く干渉してくるに違いない。あの二国にとって今川が都合の良い存在であるうちは良い。しかし少しでも大きく羽ばたこうとしたなら、たちまち潰すべき存在へと変貌する。同盟の中で中核に立つ者の宿命。それを義元は嫌というほど理解していた。
―勝っても負けるか…。
言葉は誰にも聞かれぬよう小さかった。勝利を重ねながらも敗北に至るという帰結。若さがもたらす血気と理性がせめぎ合う。別の生の記憶はあれど、その矛盾は重く心にのしかかる。名門今川家を己が軽挙で滅ぼすわけにはいかない。迂闊に戦端を開き、氏輝兄上と同じ轍を踏んではならぬ。
ではどうすべきか。義元は幾度も自問を繰り返すが、行き着くところはいつも同じであった。
ー今は動かぬことこそ肝要。
動かぬこと。それは臆病ではない。己が力を秘し、周囲に利を与え和した方が得と思わせる。それこそが生き残りの術。野心を見せず確かな存在感を示すことが出来れば、兵を動かさずとも周囲に影響を及ぼせよう。そのような立場を築き上げることこそが、選ぶべき道であると理性は囁いていた。
思えば斯波に仕掛けた策に続く縁談も、まさにその一歩。織田の増長に怯える斯波家。その不安に寄り添い姫を受け入れることで、尾張に静かな楔を打ち込む。これぞ軍を動かさずに相手を制する戰。しかしこれとて危うい均衡の上に立っているに過ぎない。武田と北条に伺いを立て承認を得ねばならぬ姿勢は、己が矜持を削った。だが矜持よりも国を守ることが先決。
―兵站の国、となる、か。
義元は心中で反芻した。野心を抑え、駿河・遠江を兵站基地として働かせる。兵糧、塩などを整え、同盟国にとって無くてはならぬ存在とする。害すより和する方が得。そう思わせ続けなければならない。険しい山国の甲斐には物資を供給し、相模を押さえる北条には背後の安心を与える。己が刃を振るわずとも、二国はこの先も戰を続けるだろう。そこに今川の影を落とせばよい。
―ただ、本当にそれでよいのか。
迷いの中には、どうしても沸き上がる血潮がある。周囲がしているように己が手で刀を振るい、軍を率いて勝利を掴む。この戦国の世に覇業を成してみたいという欲望。しかしそのような衝動は幾度も押し殺してきた。僧籍から還俗し家督を継いだ自分は、もとより望まれぬ当主。
―そんな自分に降りてきた不可思議な未来の知識。その意味とは。
これが覇業をなす為ならば、もっと猛々しい武将のもとに降りていたであろう。
「やはり、まずは揺るがぬ国造り。これを急がねば…」
心に定まった言葉はその夜、何度も繰り返された。揺るがぬ国―それは外征によって広げた版図ではなく、内から固められた堅牢な基盤。農を安定させ、商いを育て、兵を鍛え家中をまとめる。そうしてこそいずれ訪れる大乱にも、怯まずに臨めよう。
―そうだ。その時にこそ動けばよい。今は動けずとも、いつか機は訪れる。
灯明の火が細くなり、夜はさらに深まっていく。義元は筆をとり、書きかけの文案に新たな一行を書き加えた。そこにはやはり、武ではなく和を重んじる言葉が記された。誰が見ても柔らかく謙虚で、低姿勢な文。しかしその奥には、他の誰でもない己で選びとった覚悟が潜んでいた。
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