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施餓鬼
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年が改まっても義元の座には安寧が訪れなかった。元日の祝儀を終えたのちから、彼の机上には各地の代官や地侍からの訴えが積まれ続けていた。商いの税率を定めるこの時期。例年であれば算木と帳簿のやり取りだけで済むはずであったが、昨年に自らが発した言葉に縛られていた。
今年の冬は誰であろうと餓死者を出さぬ。
家臣たちにとっては勇ましい檄に聞こえた。だが年明けとともに現実が重くのしかかる。水がなく日照りに見舞われた地では、米の実りが例年の半分にも満たなかった。かと思えば長雨で稲のやられた土地もある。加えて秋口には野盗が農村を荒らした所もあるという。かと思えば倉の中の穀物がいつの間にか商人の手に渡り、値を吊り上げられていたりもした。
義元が掲げた理想が単なる美辞麗句であれば、それで済んだかもしれぬ。だが年貢率を定める為に発した言葉は、軽々しく発したものではなかった。そのため彼自身が足を運び調停に奔走する日々が続いていた。
また義元が餓死者を出さぬと公言した後、最も大きな課題は誰にこの手配を委ねるかであった。役人や代官では横領の恐れがある。武士では民に横柄な態度をとり畏怖を与えすぎよう。ならば誰がこの役にふさわしいか。
「雪斎。我が手の者と共に、臨済宗の僧たちに食料運搬を手配させよ」
義元の師、太原雪斎。学識と統率力を兼ね備え、僧俗を問わず信望厚い人物。しかも僧であれば施餓鬼という仏事の看板を堂々と掲げることができる。駿河には臨済寺をはじめ禅宗の寺院が多い。義元もかつてはそのなかの一人として、彼らの清廉な姿を知っている。
その意図を汲み雪斎は静かに頷いた。
「なれど薪の足りぬ村も多くあろう。そういった村では寺ごとに施餓鬼の会を催しての。亡者に施すと称し生きる民へ食を与えるのだ」
施餓鬼とは、飢え苦しむ餓鬼へ供養を捧げる仏事。それを表向きの理由とすれば、粥を分け与える行為は誰も咎めることができない。しかも僧侶たちが行えば役人の着服も防がれる。
「心得ました。民を救うは仏法の慈悲。ご決断を行うのみでございます」
その瞳には師として成長した弟子を誇る思いも宿っていた。
やがて領内の寺の境内から湯気が立ちのぼった。僧たちが据えた大鍋では粥が温められ、そこへ細かく刻まれた菜が入れられる。子を抱いた母が列をなし、老いた農夫も杖を突き並ぶ。僧は鉢に粥をよそい、一人一人に合掌してそれを渡した。
「この粥が亡き魂へ届きますように」
「ああ、ありがたや…」
声は仏に捧げられながらも、実際は生きる者の腹を満たす。こうした炊き出しは駿河から遠江、東三河へと広がった。痩せた村の童たちは今年は餓えずに済むと目を輝かせる。襤褸を纏った農夫たちは、これをお指図くださった雪斎さまは仏のような御方だと語りあった。
無論、すべてが順調ではない。行列に割り込む者、盗みを働こうとする者も現れる。だが僧侶たちは施しが続いて欲しくば御仏の意志に適うよう心掛けよと諭した。すると村人同士でも監視の目を光らせはじめる。煮炊きの手伝いを買って出る者も現れる。
次第に民の間には、互いにもっと助け合わねばという意識が芽生え始めた。義元の願った形が生まれた。領主の恩恵として与えていたのでは、取り立てられた年貢が僅かに戻ってきたに過ぎない。しかも下手をすれば、地元の国人領主との間を確執を生んでしまう恐れもあった。
そこで施餓鬼。仏事を通じて共に飢えを退ける仕組みを築きあげる。さらにここには、民を一揆という暴動に駆り立てる他の宗教勢力から引き離す狙いもあった。
…。
夜更け。今川館の一室にて義元は文机の前に座り記録をしたためていた。
「米は尽きぬ。されど人の欲は尽きることがない。ただ与えるのみでは、まるで足りぬ。人の心を縛る仕組みを用いてこそ、却って民は守られる」
ふと顔をあげ、燈火に映る己の影を見つめた。
―我が言は軽からず。餓死者を出さぬと誓った以上、いかなる策をも弄さねばならぬ。これを笑う者は笑えばよい。しかし領国に生きる者の命を繋ぐ為ならば、名など惜しくはない。その決意は重く、確かであった。
暦も二月に入るころには、施餓鬼の炊き出しは領内の恒例となりつつあった。山里の雪深き村にも、駿府から送られた穀物が届き、僧侶と兵が出向いて粥を配った。
人々はまだ痩せ細ってはいたが、例年のように飢えで死人を葬る村はない。寒風のなかで暖かな粥を啜るたび、子供たちは春までもう少しと笑う。
その報を聞き、義元はようやく胸のつかえを下ろした。課題はまだ山積している。金の不足、商人との摩擦、隣国との関係。だが今年の冬を民と共に越えられるなら、それこそが領国の力となろう。
義元は再び筆を執り、来たるべき春の策を思案し始めるのであった。
今年の冬は誰であろうと餓死者を出さぬ。
家臣たちにとっては勇ましい檄に聞こえた。だが年明けとともに現実が重くのしかかる。水がなく日照りに見舞われた地では、米の実りが例年の半分にも満たなかった。かと思えば長雨で稲のやられた土地もある。加えて秋口には野盗が農村を荒らした所もあるという。かと思えば倉の中の穀物がいつの間にか商人の手に渡り、値を吊り上げられていたりもした。
義元が掲げた理想が単なる美辞麗句であれば、それで済んだかもしれぬ。だが年貢率を定める為に発した言葉は、軽々しく発したものではなかった。そのため彼自身が足を運び調停に奔走する日々が続いていた。
また義元が餓死者を出さぬと公言した後、最も大きな課題は誰にこの手配を委ねるかであった。役人や代官では横領の恐れがある。武士では民に横柄な態度をとり畏怖を与えすぎよう。ならば誰がこの役にふさわしいか。
「雪斎。我が手の者と共に、臨済宗の僧たちに食料運搬を手配させよ」
義元の師、太原雪斎。学識と統率力を兼ね備え、僧俗を問わず信望厚い人物。しかも僧であれば施餓鬼という仏事の看板を堂々と掲げることができる。駿河には臨済寺をはじめ禅宗の寺院が多い。義元もかつてはそのなかの一人として、彼らの清廉な姿を知っている。
その意図を汲み雪斎は静かに頷いた。
「なれど薪の足りぬ村も多くあろう。そういった村では寺ごとに施餓鬼の会を催しての。亡者に施すと称し生きる民へ食を与えるのだ」
施餓鬼とは、飢え苦しむ餓鬼へ供養を捧げる仏事。それを表向きの理由とすれば、粥を分け与える行為は誰も咎めることができない。しかも僧侶たちが行えば役人の着服も防がれる。
「心得ました。民を救うは仏法の慈悲。ご決断を行うのみでございます」
その瞳には師として成長した弟子を誇る思いも宿っていた。
やがて領内の寺の境内から湯気が立ちのぼった。僧たちが据えた大鍋では粥が温められ、そこへ細かく刻まれた菜が入れられる。子を抱いた母が列をなし、老いた農夫も杖を突き並ぶ。僧は鉢に粥をよそい、一人一人に合掌してそれを渡した。
「この粥が亡き魂へ届きますように」
「ああ、ありがたや…」
声は仏に捧げられながらも、実際は生きる者の腹を満たす。こうした炊き出しは駿河から遠江、東三河へと広がった。痩せた村の童たちは今年は餓えずに済むと目を輝かせる。襤褸を纏った農夫たちは、これをお指図くださった雪斎さまは仏のような御方だと語りあった。
無論、すべてが順調ではない。行列に割り込む者、盗みを働こうとする者も現れる。だが僧侶たちは施しが続いて欲しくば御仏の意志に適うよう心掛けよと諭した。すると村人同士でも監視の目を光らせはじめる。煮炊きの手伝いを買って出る者も現れる。
次第に民の間には、互いにもっと助け合わねばという意識が芽生え始めた。義元の願った形が生まれた。領主の恩恵として与えていたのでは、取り立てられた年貢が僅かに戻ってきたに過ぎない。しかも下手をすれば、地元の国人領主との間を確執を生んでしまう恐れもあった。
そこで施餓鬼。仏事を通じて共に飢えを退ける仕組みを築きあげる。さらにここには、民を一揆という暴動に駆り立てる他の宗教勢力から引き離す狙いもあった。
…。
夜更け。今川館の一室にて義元は文机の前に座り記録をしたためていた。
「米は尽きぬ。されど人の欲は尽きることがない。ただ与えるのみでは、まるで足りぬ。人の心を縛る仕組みを用いてこそ、却って民は守られる」
ふと顔をあげ、燈火に映る己の影を見つめた。
―我が言は軽からず。餓死者を出さぬと誓った以上、いかなる策をも弄さねばならぬ。これを笑う者は笑えばよい。しかし領国に生きる者の命を繋ぐ為ならば、名など惜しくはない。その決意は重く、確かであった。
暦も二月に入るころには、施餓鬼の炊き出しは領内の恒例となりつつあった。山里の雪深き村にも、駿府から送られた穀物が届き、僧侶と兵が出向いて粥を配った。
人々はまだ痩せ細ってはいたが、例年のように飢えで死人を葬る村はない。寒風のなかで暖かな粥を啜るたび、子供たちは春までもう少しと笑う。
その報を聞き、義元はようやく胸のつかえを下ろした。課題はまだ山積している。金の不足、商人との摩擦、隣国との関係。だが今年の冬を民と共に越えられるなら、それこそが領国の力となろう。
義元は再び筆を執り、来たるべき春の策を思案し始めるのであった。
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