≒今川義元 風雲繁盛記≒

空志戸レミ

文字の大きさ
79 / 82

施餓鬼

しおりを挟む
年が改まっても義元の座には安寧が訪れなかった。元日の祝儀を終えたのちから、彼の机上には各地の代官や地侍からの訴えが積まれ続けていた。商いの税率を定めるこの時期。例年であれば算木と帳簿のやり取りだけで済むはずであったが、昨年に自らが発した言葉に縛られていた。

今年の冬は誰であろうと餓死者を出さぬ。

家臣たちにとっては勇ましい檄に聞こえた。だが年明けとともに現実が重くのしかかる。水がなく日照りに見舞われた地では、米の実りが例年の半分にも満たなかった。かと思えば長雨で稲のやられた土地もある。加えて秋口には野盗が農村を荒らした所もあるという。かと思えば倉の中の穀物がいつの間にか商人の手に渡り、値を吊り上げられていたりもした。

義元が掲げた理想が単なる美辞麗句であれば、それで済んだかもしれぬ。だが年貢率を定める為に発した言葉は、軽々しく発したものではなかった。そのため彼自身が足を運び調停に奔走する日々が続いていた。

また義元が餓死者を出さぬと公言した後、最も大きな課題は誰にこの手配を委ねるかであった。役人や代官では横領の恐れがある。武士では民に横柄な態度をとり畏怖を与えすぎよう。ならば誰がこの役にふさわしいか。

「雪斎。我が手の者と共に、臨済宗の僧たちに食料運搬を手配させよ」

義元の師、太原雪斎。学識と統率力を兼ね備え、僧俗を問わず信望厚い人物。しかも僧であれば施餓鬼という仏事の看板を堂々と掲げることができる。駿河には臨済寺をはじめ禅宗の寺院が多い。義元もかつてはそのなかの一人として、彼らの清廉な姿を知っている。

その意図を汲み雪斎は静かに頷いた。

「なれど薪の足りぬ村も多くあろう。そういった村では寺ごとに施餓鬼の会を催しての。亡者に施すと称し生きる民へ食を与えるのだ」

施餓鬼せがきとは、飢え苦しむ餓鬼へ供養を捧げる仏事。それを表向きの理由とすれば、粥を分け与える行為は誰も咎めることができない。しかも僧侶たちが行えば役人の着服も防がれる。

「心得ました。民を救うは仏法の慈悲。ご決断を行うのみでございます」

その瞳には師として成長した弟子を誇る思いも宿っていた。


やがて領内の寺の境内から湯気が立ちのぼった。僧たちが据えた大鍋では粥が温められ、そこへ細かく刻まれた菜が入れられる。子を抱いた母が列をなし、老いた農夫も杖を突き並ぶ。僧は鉢に粥をよそい、一人一人に合掌してそれを渡した。

「この粥が亡き魂へ届きますように」
「ああ、ありがたや…」

声は仏に捧げられながらも、実際は生きる者の腹を満たす。こうした炊き出しは駿河から遠江、東三河へと広がった。痩せた村の童たちは今年は餓えずに済むと目を輝かせる。襤褸を纏った農夫たちは、これをお指図くださった雪斎さまは仏のような御方だと語りあった。

無論、すべてが順調ではない。行列に割り込む者、盗みを働こうとする者も現れる。だが僧侶たちは施しが続いて欲しくば御仏の意志に適うよう心掛けよと諭した。すると村人同士でも監視の目を光らせはじめる。煮炊きの手伝いを買って出る者も現れる。

次第に民の間には、互いにもっと助け合わねばという意識が芽生え始めた。義元の願った形が生まれた。領主の恩恵として与えていたのでは、取り立てられた年貢が僅かに戻ってきたに過ぎない。しかも下手をすれば、地元の国人領主との間を確執を生んでしまう恐れもあった。

そこで施餓鬼。仏事を通じて共に飢えを退ける仕組みを築きあげる。さらにここには、民を一揆という暴動に駆り立てる他の宗教勢力から引き離す狙いもあった。

…。

夜更け。今川館の一室にて義元は文机の前に座り記録をしたためていた。

「米は尽きぬ。されど人の欲は尽きることがない。ただ与えるのみでは、まるで足りぬ。人の心を縛る仕組みを用いてこそ、却って民は守られる」

ふと顔をあげ、燈火に映る己の影を見つめた。

―我が言は軽からず。餓死者を出さぬと誓った以上、いかなる策をも弄さねばならぬ。これを笑う者は笑えばよい。しかし領国に生きる者の命を繋ぐ為ならば、名など惜しくはない。その決意は重く、確かであった。


暦も二月に入るころには、施餓鬼の炊き出しは領内の恒例となりつつあった。山里の雪深き村にも、駿府から送られた穀物が届き、僧侶と兵が出向いて粥を配った。

人々はまだ痩せ細ってはいたが、例年のように飢えで死人を葬る村はない。寒風のなかで暖かな粥を啜るたび、子供たちは春までもう少しと笑う。

その報を聞き、義元はようやく胸のつかえを下ろした。課題はまだ山積している。金の不足、商人との摩擦、隣国との関係。だが今年の冬を民と共に越えられるなら、それこそが領国の力となろう。

義元は再び筆を執り、来たるべき春の策を思案し始めるのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...