≒今川義元 風雲繁盛記≒

空志戸レミ

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苦悩の武田晴信

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武士として育てられたわけではない義元。当然、武では他の者に大きく劣っていた。しかしそれを補って余りある別の力を有していた。それは書の力。筆は槍より強しである。

幼き頃より寺で学び、長きにわたり写経と写本を重ねた筆致は乱れもなく精緻。また数多くの書物を読んだことで巧みな引用にも長けていた。そしてなにより、人に親しみを与え楽しませることのできる文を書くこと。これをもっとも得意としていた。

その影響を最も強く受けていたのが、義元の義弟となった武田晴信であった。

季節の折々に送られてくる便り。そこに香るのは荒々しい甲斐の現状とはまったく違う香しさ。便りは妻となった三条の方のもとへも、姉上からも寿桂尼からも届けられる。その柔らかな文化の香りに触れ、自分達のしていることへの疑問を晴信は強めていた。

―武のみをもって国を治めんとすれば、やがて民の心は荒み疲弊するは必定。されど文をもって理を示せば、いつかは理解し従う道も知ろう。晴信殿も若き身、なれどこの理を知れば必ず大成なされよう。

それは晴信が日々の不満を書き連ねた文、今にして思えば恥ずかしい手紙に対する返書であった。その墨跡鮮やかな筆致は、まるで義元その人の声が宿るかのよう。

「しかし、まさか義兄殿が斯波から姫を娶ろうとは…」

書院にて文と贈り物を広げていた晴信はそう感想をこぼす。

「そうですな。三河を平らげたあとは尾張に進むものと思っておりましたが…、相変わらず駿府殿のなさることは読めませぬ」

晴信の話相手となっていたのは穴山信友。これもまた晴信の姉を娶った義兄であった。それゆえ遠慮なく器に盛られた米菓に手を伸ばすと、宙に放って口で受けてみせる。

「しかし、それでは進む道がないではないか。我らと共に信濃を攻めるはせぬというし、商いも続けておると聞く。これでは八方塞がりであろう」
「はい。ですがその八方塞がりこそ、駿府殿の狙いやもしれませぬ」

「なに、八方塞がりが狙いだと…」

したり顔でそう語った信友に、晴信は険しい視線を向ける。その視線を躱すように再び手を伸ばし米菓を頬張ると、信友はわざと大きな音を立て茶を啜る。言外に、どういうことか自分で考えてみろと示しているのだ。

「どういうことだ。東には北条、北には我ら武田。この上さらに西の尾張と結べば、まるで身動きが取れぬではないか」
「はい。ですがそうなれば逆に、何処からも攻められませぬ」

「なに?」
「お分かりになりませぬかな。駿府殿は三方と縁を通じた。されど南には海しかないゆえ、船さえあれば出入りは自由。その地の利を活かし、向こう十年は国力の増強に努める腹積もりなのでは?」

「ッ!!」

「お分かりになりましたか。今の駿府は、どの国に対しても大きな利を与えております。上杉と対する北条には背後の安全を。我ら武田には食料と塩を。ここへ新たに加わる尾張には足元を脅かす家臣どもへの睨みを。こうしておけば何時何処の国と関係がおかしくなったとしても、すぐさま他の国に助けてもらえます」
「それが、義兄殿の狙いだというのか」

晴信は信友へと真剣な眼を向ける。

「十中八九、この見立てで間違いないでしょう。先の今川家当主。駿府殿の兄君は領土拡大路線を展開し失敗致しました。三河で負けては松平の増長を許し、三河が駄目なら甲斐へと矛先を変え、我らに対してもたいした成果もないままに病没。その悪い流れを踏襲せぬよう、今はじっくりと力を蓄える構えかと」

そうまで説明されると、晴信にも見えてくるものがあった。

「なるほど。確かに義兄殿は今川家を継ぎはした。しかし元々は儂と同じく当主となる身ではなかった。それゆえ家中が荒れ家督争いが起きたのだったな。領内を落ち着け家臣達の信頼を得るには、まだ時がかかるということか」
「順当な家督相続がなされたのなら、そのような苦労もせず済んだ事でしょう。ですが駿府殿の足元、これはまだまだ盤石とは申せません」

信友の説明に、晴信も頷いて応じる。この義兄は晴信にとってよき相談相手だった。

「そうであったな。歳も近く儂の方が早くに元服もした。それ故ついあれこれと比べてしまい、家督を継げぬ事にいらぬ焦りを覚えていたやもしれぬ」
「であれば、そこに気付いて頂けただけでも話した甲斐があったというもの」

次いで晴信は、姉から届いた手紙にも目を通しはじめた。

他家から新たな姫が輿入れをする。これを迎える姉上も心中穏やかではなかろう。だというのに手紙の内容には、晴信を気遣う言葉ばかりが綴られている。

義兄殿も姉上も自分にとても優しく、心に寄り添う文をくれる。

しかし晴信は己の父から、こうした優しい言葉をかけられたことがなかった。元より立場は兄が亡くなった時の替え。それゆえ継承の筆頭となっても、ただ勝てただ討てと命じられるのみ。そこへ齎される姉夫婦の便りは、若き晴信の心に一入に沁みこんでいたのだ。

―だというのに、儂は…。

駿府から齎される便りを心の支えとしていながら、読む度に自身の不甲斐なさを鏡で見せつけられる思い。それを感じると、いつも心はかき乱された。若き晴信は苦悩の只中にあったのだった。
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