81 / 82
苦悩の武田晴信
しおりを挟む
武士として育てられたわけではない義元。当然、武では他の者に大きく劣っていた。しかしそれを補って余りある別の力を有していた。それは書の力。筆は槍より強しである。
幼き頃より寺で学び、長きにわたり写経と写本を重ねた筆致は乱れもなく精緻。また数多くの書物を読んだことで巧みな引用にも長けていた。そしてなにより、人に親しみを与え楽しませることのできる文を書くこと。これをもっとも得意としていた。
その影響を最も強く受けていたのが、義元の義弟となった武田晴信であった。
季節の折々に送られてくる便り。そこに香るのは荒々しい甲斐の現状とはまったく違う香しさ。便りは妻となった三条の方のもとへも、姉上からも寿桂尼からも届けられる。その柔らかな文化の香りに触れ、自分達のしていることへの疑問を晴信は強めていた。
―武のみをもって国を治めんとすれば、やがて民の心は荒み疲弊するは必定。されど文をもって理を示せば、いつかは理解し従う道も知ろう。晴信殿も若き身、なれどこの理を知れば必ず大成なされよう。
それは晴信が日々の不満を書き連ねた文、今にして思えば恥ずかしい手紙に対する返書であった。その墨跡鮮やかな筆致は、まるで義元その人の声が宿るかのよう。
「しかし、まさか義兄殿が斯波から姫を娶ろうとは…」
書院にて文と贈り物を広げていた晴信はそう感想をこぼす。
「そうですな。三河を平らげたあとは尾張に進むものと思っておりましたが…、相変わらず駿府殿のなさることは読めませぬ」
晴信の話相手となっていたのは穴山信友。これもまた晴信の姉を娶った義兄であった。それゆえ遠慮なく器に盛られた米菓に手を伸ばすと、宙に放って口で受けてみせる。
「しかし、それでは進む道がないではないか。我らと共に信濃を攻めるはせぬというし、商いも続けておると聞く。これでは八方塞がりであろう」
「はい。ですがその八方塞がりこそ、駿府殿の狙いやもしれませぬ」
「なに、八方塞がりが狙いだと…」
したり顔でそう語った信友に、晴信は険しい視線を向ける。その視線を躱すように再び手を伸ばし米菓を頬張ると、信友はわざと大きな音を立て茶を啜る。言外に、どういうことか自分で考えてみろと示しているのだ。
「どういうことだ。東には北条、北には我ら武田。この上さらに西の尾張と結べば、まるで身動きが取れぬではないか」
「はい。ですがそうなれば逆に、何処からも攻められませぬ」
「なに?」
「お分かりになりませぬかな。駿府殿は三方と縁を通じた。されど南には海しかないゆえ、船さえあれば出入りは自由。その地の利を活かし、向こう十年は国力の増強に努める腹積もりなのでは?」
「ッ!!」
「お分かりになりましたか。今の駿府は、どの国に対しても大きな利を与えております。上杉と対する北条には背後の安全を。我ら武田には食料と塩を。ここへ新たに加わる尾張には足元を脅かす家臣どもへの睨みを。こうしておけば何時何処の国と関係がおかしくなったとしても、すぐさま他の国に助けてもらえます」
「それが、義兄殿の狙いだというのか」
晴信は信友へと真剣な眼を向ける。
「十中八九、この見立てで間違いないでしょう。先の今川家当主。駿府殿の兄君は領土拡大路線を展開し失敗致しました。三河で負けては松平の増長を許し、三河が駄目なら甲斐へと矛先を変え、我らに対してもたいした成果もないままに病没。その悪い流れを踏襲せぬよう、今はじっくりと力を蓄える構えかと」
そうまで説明されると、晴信にも見えてくるものがあった。
「なるほど。確かに義兄殿は今川家を継ぎはした。しかし元々は儂と同じく当主となる身ではなかった。それゆえ家中が荒れ家督争いが起きたのだったな。領内を落ち着け家臣達の信頼を得るには、まだ時がかかるということか」
「順当な家督相続がなされたのなら、そのような苦労もせず済んだ事でしょう。ですが駿府殿の足元、これはまだまだ盤石とは申せません」
信友の説明に、晴信も頷いて応じる。この義兄は晴信にとってよき相談相手だった。
「そうであったな。歳も近く儂の方が早くに元服もした。それ故ついあれこれと比べてしまい、家督を継げぬ事にいらぬ焦りを覚えていたやもしれぬ」
「であれば、そこに気付いて頂けただけでも話した甲斐があったというもの」
次いで晴信は、姉から届いた手紙にも目を通しはじめた。
他家から新たな姫が輿入れをする。これを迎える姉上も心中穏やかではなかろう。だというのに手紙の内容には、晴信を気遣う言葉ばかりが綴られている。
義兄殿も姉上も自分にとても優しく、心に寄り添う文をくれる。
しかし晴信は己の父から、こうした優しい言葉をかけられたことがなかった。元より立場は兄が亡くなった時の替え。それゆえ継承の筆頭となっても、ただ勝てただ討てと命じられるのみ。そこへ齎される姉夫婦の便りは、若き晴信の心に一入に沁みこんでいたのだ。
―だというのに、儂は…。
駿府から齎される便りを心の支えとしていながら、読む度に自身の不甲斐なさを鏡で見せつけられる思い。それを感じると、いつも心はかき乱された。若き晴信は苦悩の只中にあったのだった。
幼き頃より寺で学び、長きにわたり写経と写本を重ねた筆致は乱れもなく精緻。また数多くの書物を読んだことで巧みな引用にも長けていた。そしてなにより、人に親しみを与え楽しませることのできる文を書くこと。これをもっとも得意としていた。
その影響を最も強く受けていたのが、義元の義弟となった武田晴信であった。
季節の折々に送られてくる便り。そこに香るのは荒々しい甲斐の現状とはまったく違う香しさ。便りは妻となった三条の方のもとへも、姉上からも寿桂尼からも届けられる。その柔らかな文化の香りに触れ、自分達のしていることへの疑問を晴信は強めていた。
―武のみをもって国を治めんとすれば、やがて民の心は荒み疲弊するは必定。されど文をもって理を示せば、いつかは理解し従う道も知ろう。晴信殿も若き身、なれどこの理を知れば必ず大成なされよう。
それは晴信が日々の不満を書き連ねた文、今にして思えば恥ずかしい手紙に対する返書であった。その墨跡鮮やかな筆致は、まるで義元その人の声が宿るかのよう。
「しかし、まさか義兄殿が斯波から姫を娶ろうとは…」
書院にて文と贈り物を広げていた晴信はそう感想をこぼす。
「そうですな。三河を平らげたあとは尾張に進むものと思っておりましたが…、相変わらず駿府殿のなさることは読めませぬ」
晴信の話相手となっていたのは穴山信友。これもまた晴信の姉を娶った義兄であった。それゆえ遠慮なく器に盛られた米菓に手を伸ばすと、宙に放って口で受けてみせる。
「しかし、それでは進む道がないではないか。我らと共に信濃を攻めるはせぬというし、商いも続けておると聞く。これでは八方塞がりであろう」
「はい。ですがその八方塞がりこそ、駿府殿の狙いやもしれませぬ」
「なに、八方塞がりが狙いだと…」
したり顔でそう語った信友に、晴信は険しい視線を向ける。その視線を躱すように再び手を伸ばし米菓を頬張ると、信友はわざと大きな音を立て茶を啜る。言外に、どういうことか自分で考えてみろと示しているのだ。
「どういうことだ。東には北条、北には我ら武田。この上さらに西の尾張と結べば、まるで身動きが取れぬではないか」
「はい。ですがそうなれば逆に、何処からも攻められませぬ」
「なに?」
「お分かりになりませぬかな。駿府殿は三方と縁を通じた。されど南には海しかないゆえ、船さえあれば出入りは自由。その地の利を活かし、向こう十年は国力の増強に努める腹積もりなのでは?」
「ッ!!」
「お分かりになりましたか。今の駿府は、どの国に対しても大きな利を与えております。上杉と対する北条には背後の安全を。我ら武田には食料と塩を。ここへ新たに加わる尾張には足元を脅かす家臣どもへの睨みを。こうしておけば何時何処の国と関係がおかしくなったとしても、すぐさま他の国に助けてもらえます」
「それが、義兄殿の狙いだというのか」
晴信は信友へと真剣な眼を向ける。
「十中八九、この見立てで間違いないでしょう。先の今川家当主。駿府殿の兄君は領土拡大路線を展開し失敗致しました。三河で負けては松平の増長を許し、三河が駄目なら甲斐へと矛先を変え、我らに対してもたいした成果もないままに病没。その悪い流れを踏襲せぬよう、今はじっくりと力を蓄える構えかと」
そうまで説明されると、晴信にも見えてくるものがあった。
「なるほど。確かに義兄殿は今川家を継ぎはした。しかし元々は儂と同じく当主となる身ではなかった。それゆえ家中が荒れ家督争いが起きたのだったな。領内を落ち着け家臣達の信頼を得るには、まだ時がかかるということか」
「順当な家督相続がなされたのなら、そのような苦労もせず済んだ事でしょう。ですが駿府殿の足元、これはまだまだ盤石とは申せません」
信友の説明に、晴信も頷いて応じる。この義兄は晴信にとってよき相談相手だった。
「そうであったな。歳も近く儂の方が早くに元服もした。それ故ついあれこれと比べてしまい、家督を継げぬ事にいらぬ焦りを覚えていたやもしれぬ」
「であれば、そこに気付いて頂けただけでも話した甲斐があったというもの」
次いで晴信は、姉から届いた手紙にも目を通しはじめた。
他家から新たな姫が輿入れをする。これを迎える姉上も心中穏やかではなかろう。だというのに手紙の内容には、晴信を気遣う言葉ばかりが綴られている。
義兄殿も姉上も自分にとても優しく、心に寄り添う文をくれる。
しかし晴信は己の父から、こうした優しい言葉をかけられたことがなかった。元より立場は兄が亡くなった時の替え。それゆえ継承の筆頭となっても、ただ勝てただ討てと命じられるのみ。そこへ齎される姉夫婦の便りは、若き晴信の心に一入に沁みこんでいたのだ。
―だというのに、儂は…。
駿府から齎される便りを心の支えとしていながら、読む度に自身の不甲斐なさを鏡で見せつけられる思い。それを感じると、いつも心はかき乱された。若き晴信は苦悩の只中にあったのだった。
10
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる