≒今川義元 風雲繁盛記≒

空志戸レミ

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甲斐国 親子事情

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梅雨が明け甲斐の山々にも初夏の気配が匂いだした頃、武田信虎(43)は高台から川を下る丸太の群れを見下ろしていた。今日は林業の視察に訪れていたのだ。

(ふん、伐採は順調のようだな…)

山から伐り出された樹木は枝を払われ、丸太となって川を下る。川を下れば丸太はそのまま駿府へと流れ着き、今度はそれが食料となってこの甲斐に戻ってくる。

(余分に送った分まで丁寧に勘定してその礼を寄越すのだから、なんとも律儀な婿殿よ。儂ならば海に流れたとでも言って、数など適当に誤魔化すものを)

その様子をまるで鮭のようだと思いながらも、その恩恵は計り知れない。

享禄元年(1528年)には甲斐国内に徳政令(債権放棄)を発したばかり。あの時は災害の頻発で秋の収穫が危ぶまれた。故にそうでもせねば土一揆に発展する恐れがあったからだが、騒ぎとなる前に徳政令を発したのは、東国の大名では信虎が初であろう。

あれは背に腹は代えらなかったとはいえ、泥を被る思いの苦渋の決断だった。

それが駿府に娘を送ると、材木を欲した婿殿のお陰で急に経済が回るようになり、年貢以外にも食い物が手に入るようになった。食い物があるので民の様子も明るい。

(以前には敵対していた駿府。だが、まさかおまけで相模とまで停戦できるとはな)

これも婿である今川義元の働きかけによるもの。武田信虎にとって、婿の義元は実に気の利く男にみえた。

(しかし、内輪の争いと負け戦続きだったが、これでようやく信濃に集中できる。だというのに北条は、相も変わらず気が利かぬわ…)

この頃、武田信虎の元には北条氏綱から密かに打診があった。それは停戦から今一歩すすめ同盟し、共に上杉を攻めぬかという誘い。

だが、信虎はこの誘いを断った。

北条からすれば武田を巻き込み上杉に対し一対三としたいのだろうが、それに戰をしない宣言を出した今川の婿がどれほど兵を出すか分からない。そもそも、領地も接していない手伝い戰などに兵を出すなど信虎でもお断りだ。

さらに、晴信に嫁いできた扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の娘はすで亡くなったが、その3年も前には朝興の叔母を信虎は側室に迎えている。そうした扇谷上杉氏との縁組がなお続いている中で対上杉の同盟を持ちかけられるのは、信虎であっても不快を覚えるだけだった。

(それに東は一進一退。まるで利にならぬではないか。戦費を費やしても領土が増えぬのでは話にならぬ。であれば西の信濃の方が、まだやりようはある…)

天文4年(1535年)には信濃諏訪郡の諏訪頼満と和睦しているが、韮崎へ攻め込まれた恨みはまだ消えていない。

そして北条と今川であれば、まだ利をもたらしてくる今川の方が信用できる。それに信濃であれば今川も領地を接している。やりよう次第では戰など御免と情けない事をいう婿を、うまく焚きつけることもできよう。

(ま、もし動かずとも食料を送ってくるだけでも、あれは十分役に立っておる。逆に欲目をかいて動かぬだけ御しやすいわ)

と、川を見下ろしながら思案する信虎の元に、視察の話を聞きつけたのか息子晴信(16)が姿をみせた。

「父上、こちらにおいででしたか」

が、これに思考を中断された信虎は不満を露わにした。

「おまえはこんな所にまで儂を追いかけて来たのか」
「は…、あ、いえ。そのようなことは…」

会って早々に不満をぶつけられた晴信は答えに窮す。事実、外に出かけ機嫌の良い時ならば話をきいてもらえようと、晴信は父を追いかけてきたのだ。

その動揺に信虎は鼻をならすと、晴信に向け眼下を顎でしゃくった。

「見よ晴信。伐った木が川を下って行く」

晴信も前に出て高台から下を覗くと、次々に丸太が川を流れて行く。

「あれが糧食となって甲斐に戻ってくるのだ」
「はい、ですが…。戰続きでみなの疲れが癒えておりませぬ」

「たわけが!それで戰を待てと申すか!」
「し、しかしそればかりか、原因も分からぬ病があちこちで流行り―」

「武士が病など知ったことか!病など坊主にでも任せておけ!待ったら待った分だけ、敵も同様に力を盛り返すのだぞ!それがおまえには分からぬか!」
「そ、それは」

激した父。しかしなお言葉で言い募って考えを変えてもらおうとする晴信の前に、信虎の小姓たちが壁を作った。

「晴信さま、次の視察に参ります。どうかこの辺でお引き取りを」

それはこの親子をこれ以上口論させまいとする配慮であった。しかし去っていく父の後姿を、晴信は唇を噛んで見送ったのであった。
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