『生きた骨董品』と婚約破棄されたので、世界最高の魔導ドレスでざまぁします。私を捨てた元婚約者が後悔しても、隣には天才公爵様がいますので!

aozora

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 夜の闇を切り裂いて進む馬車の微かな揺れが、今は唯一の現実だった。

 あれほど喧騒に満ちていた王宮の舞踏会場は、もう遠い世界の出来事のようだ。シャンデリアの光も、嘲るような囁き声も、オーケストラの調べも、今はもう聞こえない。

 私の隣で、侍女のクロエが固唾を飲んで座っている。彼女は何も言わない。ただ、時折私に投げかけられるその視線には、深い憂いと、それ以上に揺るぎない信頼の色が宿っていた。

 涙は、もう出なかった。

 馬車が王宮の門をくぐり、ジュリアン様――いいえ、ジュリアン・ベルフォートが私に与えたベルフォート家所有のタウンハウスへと向かう道すがら、私の心にあったのは悲しみではなかった。

 それは、もっと硬質で、冷たく、そして燃えるようなもの。

 怒り。

 そして、鋼鉄の如き決意。

 砕け散った約束の音は、終わりの合図ではなかった。始まりの号砲だったのだと、私の魂が叫んでいた。

「お嬢様……」

 クロエが私の肩に、そっとカシミアのショールをかけた。彼女の指先が微かに震えている。

「クロエ」

 私は静かに口を開いた。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。

「クロエ、あなたは実家に戻りなさい。ヴァレンシア家も、長年仕えた侍女の次の勤め先を斡旋するくらいの体面は保つでしょうから」

 これは優しさではない。これ以上、私の没落に彼女を巻き込むわけにはいかないという、ただそれだけの、酷く自己満足な理屈だった。

 しかし、クロエは静かに首を横に振った。

「いいえ、お断りいたします」

 その声には、普段の柔和さとは違う、凛とした響きがあった。

「私が生涯お仕えすると誓ったのは、ヴァレンシアという家名ではございません。セラフィナお嬢様、あなた様ただお一人です。たとえお嬢様が茨の道を行かれるとしても、そのお側こそが、私のいるべき場所なのです」

 その言葉が、凍てつきかけていた私の心の奥に、小さな温かい火を灯した。

 私は何も言わず、窓の外に流れる王都の夜景に目を向けた。

 ありがとう、とは言えなかった。そんな言葉でこの忠誠に応えることは、あまりに軽々しいと思えたから。

 やがて馬車は、見慣れたタウンハウスの前に静かに停止した。夜明け前の薄明かりの中、白亜の壁と瀟洒な鉄柵で飾られた建物が、まるで知らない場所のように冷たく、よそよそしく佇んでいた。

 昨日まで、ここは私の家だったはずなのに。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■

 玄関の扉を開けると、待ち構えていたかのように、ベルフォート家の執事が無表情で立っていた。その顔には、かつて私に向けられていた敬意のかけらもなかった。

「…セラフィナ『元』令嬢。ジュリアン様からの伝言にございます」

 彼はわざとらしく間を置いて、侮蔑を隠そうともしない声で告げた。

「明日の正午を期限といたします。このタウンハウスから、貴女の『私的な』荷物をすべて撤去し、速やかにご退去いただきたい、と。…ああ、ベルフォート家より贈られたドレスや宝飾品の類は、もちろん置いていっていただきますよう」

 追い打ちをかけるような、丁寧な言葉で紡がれた残酷な宣告。

 私はただ、小さく頷いた。ここで感情を見せることは、彼らの思う壺だ。

「承知いたしました。…ジュリアン様には、ご丁寧なご配慮に感謝申し上げるとお伝えくださいませ」

 執事は私の冷静な反応に僅かに眉をひそめたが、一礼すると音もなく去っていった。

 私とクロエは、二人きりで広すぎるホールに取り残された。

 荷造りは、奇妙なほど静かに進んだ。

 クローゼットに並ぶ、流行の最先端をいく豪華なドレスの数々。そのほとんどは、ジュリアンが「婚約者に相応しいように」と贈ってきたものだ。メゾン・ヴァレリアーノのイブニングドレスも、グッチア・インペリアルのコートも、今はもう私の物ではない。

 宝石箱の中のきらびやかな宝飾品も、すべてベルフォート家の紋章が刻印されている。それらも置いていく。

 失うものが多ければ多いほど、本当に大切なものが何なのか、くっきりと輪郭を現してくる。

 それらすべてに背を向け、私が古びた革のトランクに入れたのは、数少ないヴァレンシア家から持ってきた質素な普段着と下着、そして……使い古された革表紙の本。それは幼い頃、唯一私の知的好奇心を褒めてくれた母が遺してくれた、古代魔術語の詩集だった。きらびやかな宝石よりも、この一冊の方が、今の私には遥かに重い価値を持っていた。

 私は寝室を出て、書斎へと向かった。そこは、表向きは絵画の資料を整理する部屋ということになっていたが、本当は私の聖域だった。

 クロエにだけ目配せをして、私は壁にかけられた風景画をそっと持ち上げた。その裏には、巧妙に隠された小さな窪みがある。

 そこにあったのは、私の本当の宝物。

 一冊の、使い古されて表紙が擦り切れた革張りのノート。

 そして、黒いベルベットの布に丁寧に包まれた、いくつもの魔導具の部品。水晶のレンズ、銀線よりも細い魔力伝導線、そして指の爪ほどの大きさしかない、複雑なルーンが刻まれた数個の結晶体。

 ノートには、私が独学で探求してきた「エーテル織演算」の理論と数式が、びっしりと書き込まれていた。部品は、まだ不完全な「ニューロ・レンズ」と、思考実験のための小型演算機のコアだった。

 これこそが、私の魂。私の情熱。そして、これから私の唯一の武器となるもの。

 私はそれらを慎重にトランクの底にしまい込み、服と母の形見の本で隠した。

 クロエは何も言わずに、その一部始終を静かに見守っていた。彼女は私の「淑女らしからぬ趣味」に薄々気づいていたのだろう。それでも、一度もそれを咎めたり、問い質したりすることはなかった。

 荷造りが終わりに近づいた頃、玄関のベルが鳴った。

 やってきたのは、実家であるヴァレンシア子爵家の紋章をつけた使者だった。彼は私に一通の手紙を差し出すと、一言も発さずに立ち去った。

 父からの手紙だった。

 震える指で封を切り、中にあった便箋を広げる。そこには、父の几帳面だが冷たい筆跡で、非情な言葉が綴られていた。

『セラフィナへ。
 お前のしでかしたことは、ヴァレンシア家の歴史に拭い去れぬ汚点を残した。ベルフォート公爵家からの婚約破棄は、我々一門にとって致命的な恥辱である。
 しかし、父としての最後の情けをかけてやる。
 お前には二つの道を用意した。
 一つは、王都から遠く離れた辺境の土地を持つ、初老のフォンティーヌ男爵の後添えとなること。彼の先妻は不幸にも早くに亡くなられたが、ベルフォート家から捨てられたお前のような『傷物』には、むしろ分不相応な縁談であろう。持参金も十分に用意するゆえ、先方も満足するはずだ。
 もう一つは、勘当を受け、ヴァレンシアの名を捨てること。金輪際、我々と関わることなく、平民としてどこへなりと消えるがいい。
 返事は三日以内に寄越すように』

 フォンティーヌ男爵……その名には聞き覚えがあった。社交界の噂では、先妻は病死などではなく、彼の暴力的な性癖に耐えかねて衰弱死したのだと囁かれていた。領地は荒れ放題で、もはや破産寸前。ヴァレンシア家からの持参金だけが目当ての、貪欲で粗野な男。

 父は私を、そんな獣の巣穴に売り飛ばそうというのか。

 手紙が、私の手の中でくしゃりと音を立てた。

 これが、私の家族。血を分けた父親の言葉。

 私の名誉や尊厳ではなく、家の体面しか考えていない。どちらの道を選んだとしても、それは「セラフィナ・ド・ヴァレンシア」という人間の死を意味していた。

 静かな絶望が、怒りの炎さえも飲み込もうとする。頼るべき場所は、この世界のどこにもないのだと、改めて突きつけられた。

「お嬢様……」

 クロエが心配そうに私の顔を覗き込む。

 私はゆっくりと顔を上げた。崩れ落ちそうになる心を、最後の意地で繋ぎとめる。

「いいえ、クロエ」

 私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「道は、二つではないわ。…ええ、三つ目の道が…いいえ、違う。誰かに与えられた道など、もう二度と歩まない。…道は、私が創る。私が歩むべき、たった一つの道を」

 私は握りつぶした手紙を暖炉の冷たい灰の中に投げ捨てた。

 その瞬間、私の瞳に再び冷たい光が宿った。

 もう迷いはない。私は、私の力で生きていく。そして、私を貶め、踏みつけにしたすべての者たちに、彼らが理解できる唯一の言語で、私の価値を証明してみせる。

 圧倒的な成功と、誰にも模倣できない力によって。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■

 その頃、王都のもう一つの中心地、エーテルポート地区に聳え立つガラスと鋼鉄の塔の一室で、一人の男が夜明けの光を浴びていた。

 セバスチャン・モラン公爵。

 革新派を率いる若き実力者であり、魔導技術の天才。

 彼は舞踏会から戻って以来、一睡もしていなかった。彼の広大な書斎、その執務机には、最高級の酒でも、貴婦人からの恋文でもなく、一枚の学術論文の複製が広げられていた。

『エーテル織の位相幾何学に基づく高次演算モデルの提案』

 著者の名は、「S・ヴァレン」。

「……革命的だ」

 セバスチャンは誰に言うでもなく呟いた。

「既存の魔術体系を根底から覆す。マナを…エネルギーではなく『情報』として扱うだと?…これを『異端』の一言で黙殺したアカデミーの連中は、やはりただの化石だな。惜しいことだ」

 彼は指先で、論文に描かれた複雑な数式をなぞった。それはまるで、未知の宇宙の法則を解き明かす地図のように美しく、そして恐ろしいほどに精緻だった。

「この理論を応用すれば、我々が進める『クリーン・エーテル転換炉』のエネルギー効率を現行の数倍…いや、数十倍にまで高められるだろう。それだけではない。マナの位相構造を直接操作することで、いかなる手段でも解読不能な『絶対防壁』の構築すら可能になる…。これは、ポスト量子暗号という思考実験を現実のものにする鍵だ」

 ふと、彼の脳裏に、数時間前の舞踏会の光景が蘇る。

 満場の貴族たちの前で、婚約破棄という最大の屈辱を突きつけられた令嬢。

 セラフィナ・ド・ヴァレンシア。

 誰もが彼女が泣き崩れるか、ヒステリーを起こすか、あるいは失神するだろうと期待していた。しかし、彼女は違った。

 絶望の淵に立たされながら、彼女が見せたのは涙ではなかった。背筋を伸ばし、顔を上げ、すべてを見透かすような静かな瞳で、愚かな茶番劇を演じる元婚約者とその新しい相手を見つめていた。

 その姿には、砕かれることを拒むダイヤモンドのような、凍てつくほどの気高さがあった。

「セラフィナ・ド・ヴァレンシア…ヴァレンシア…S・ヴァレン。…まさか、な。あの『完璧な淑女』が、この論文を?…いや、だが、あの極限状況で見せた瞳。あれはただの飾り物の令嬢が持つものではない。…そうだ、完璧すぎるのだ。完璧な令嬢という仮面こそが、最高の隠れ蓑だったとしたら…?」

 セバスチャンは呟いた。

 彼は立ち上がり、巨大な窓から眼下に広がる王都アストラリスを見下ろした。旧市街の古い街並みと、エーテルポートの近代的なビル群が、朝日に照らされて対照的な影を落としている。

「もし、万が一……私の推測が正しいのなら」

 彼の口元に、冷徹な笑みとは違う、純粋な知的好奇心と興奮に満ちた微かな笑みが浮かんだ。

「ベルフォート家は、磨けば比類なき輝きを放つ原石を、ただの石ころだと思って投げ捨てたことになる。いや、それ以上の大失態を演じたのかもしれないな」

 彼は執務机に置かれた通信用の魔導具に手を伸ばした。

「私だ。セラフィナ・ド・ヴァレンシアの再調査を命じる。既存の報告書はすべて破棄しろ。彼女の交友関係、師事した人物、個人的な購入履歴…特に、ギルドを通さない裏市場での取引を金の流れから徹底的に洗え。彼女が路地裏で買ったパン一個の値段まで、私に報告しろ。いいな」

 通信の相手からの了承の返事を聞くと、彼は静かに回線を切った。

 世界は、退屈な権力争いに明け暮れている。

 だが、その水面下で、本物の才能が、理不尽な運命によって殻を破られ、今まさに覚醒しようとしているのかもしれない。

「面白い。実に、面白いことになってきた」

 セバスチャン・モランは、堕ちた星屑が放つであろう、未来の輝きを幻視していた。それは、この停滞した王国に新しい夜明けをもたらす光になるかもしれないと、予感しながら。
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