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夜の帳が下りた市場地区は、昼間の喧騒が嘘のように静まりかえるわけではなかった。
酒場の陽気な音楽、路地裏で交わされるひそひそ話、そして時折響く怒声。
光と影がより濃密に混じり合い、混沌の純度を増していく。
ギルバートの工房の奥、セラフィナは油とインクの匂いが染みついた作業台の上で、一枚の羊皮紙を睨みつけていた。
そこには、彼女が創り出した光のドレスを現実の布と糸で再現するための、複雑な設計図が描かれている。
「……だめね、何度計算し直してもこの一点に収束する。これだけは、絶対に妥協できないわ」
ぽつりと呟いたセラフィナの指先が示したのは、設計図の心臓部。エーテル・プロジェクターの小型化と安定稼働を両立させるための、魔力集光レンズの項目だった。
「ええ、ただの水晶じゃ話にならない。放射したエーテル粒子を完璧に制御して、あの光のドレスをこの世に編み上げるには……一点の曇りもない、天然の集光結晶が不可欠なの」
傍らで心配そうに覗き込んでいたクロエが、こくりと喉を鳴らした。
「集光結晶、ですか……。お嬢様、それは確か、とても高価な……」
「ええ。市場地区のどこを探しても、手に入る代物じゃないわ」
工房の隅で、パイプの手入れをしていたギルバートが、重々しく口を開いた。
「そんな代物、このガラクタの街で手に入るか。欲しけりゃ行くしかねえだろ、あの鼻持ちならねえ連中の巣……エーテルポート地区によ」
その名を聞いただけで、空気が変わった気がした。
エーテルポート地区。ガラスと鋼鉄で築かれた、魔導技術(マギテック)の聖地。伝統と格式を重んじる旧市街や市場地区とは、まるで別の国のように切り離された、革新の最前線。
没落した貴族令嬢であるセラフィナにとって、そこは縁遠いどころか、足を踏み入れることすら想像したことのない世界だった。
「……行くしかないのね」
セラフィナの静かな決意に、クロエは不安げな表情を浮かべた。
「ですがお嬢様……エーテルポート地区といえば、羽振りのいい新興貴族や魔導技術者の方ばかりが集まる場所と……。今の私たちが、その……場違いな気がして、胸が苦しいです」
「大丈夫なもんか」
ギルバートが吐き捨てるように言った。
「だが、腹は括るしかねえんだろ、お嬢。お前が選んだ道だ」
彼は立ち上がると、埃っぽい棚から古びたメモ帳を取り出し、何かを書きつけた。
「エーテルポート地区の三番街に、『アルケミック・プリズム』という店がある。王都一の魔導具部品の専門店だ。品揃えは確かだが、店主は偏屈で、客を選ぶ。下手に舐められた態度を取るなよ。これは俺からの紹介状だ。気休め程度にはなるだろう」
差し出された羊皮紙の切れ端を受け取り、セラフィナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、師匠」
「ふん。さっさと行って、さっさと帰ってこい。あんな無機質な街は、魂が乾く」
ぶっきらぼうな言葉の中に、師の不器用な優しさが滲んでいた。
翌日、セラフィナとクロエは、なけなしの銅貨をはたいて、市場地区の端から出ている乗り合いの魔導馬車に乗り込んだ。
古びた車体はガタガタと音を立て、瘴気(ミアズマ)の混じった魔力の名残を微かに漂わせながら、ゆっくりと進んでいく。
馬車が旧市街の石畳を抜け、エーテルポート地区へと続く大橋を渡り始めると、車窓の風景は劇的にその姿を変えた。
「……まあ……」
クロエが息を呑む。無理もなかった。
そこは、セラフィナが知る王都アストラリスのどの景色とも異なっていた。
天を突くようにそびえ立つのは、石や煉瓦ではなく、ガラスと磨き上げられた鋼鉄でできた摩天楼。建物の壁面を、色とりどりの光の広告が滝のように流れ落ちていく。あれこそが、エーテル・プロジェクションの商業利用だ。
道行く人々が乗るのは、馬が引く馬車ではない。クリーン・エーテル転換炉を搭載し、金属の車輪で静かに滑るように走る、個人用の小型魔導車両。
空には、荷物を運ぶための自律型ゴーレムが、決められた軌道上を規則正しく飛行している。
市場地区の猥雑な活気とは違う。静かで、効率的で、それでいて圧倒的なエネルギーに満ちた、未来の街。
セラフィナは、窓の外を食い入るように見つめていた。
自分が工房の片隅で、夢中で研究している技術の数々が、ここでは当たり前の日常として息づいていた。
胸を締め付けるような焦燥感と、血が沸き立つような高揚感が、同時に彼女の心を支配した。
「お嬢様……なんだか、空気が違うような気がします」
クロエが不安そうに呟いた。
「ええ。瘴気の匂いがしないわ。空気が澄んでいて……冷たいくらいに」
セラフィナは、自分が今、過去の世界から未来の世界へと足を踏み入れたのだと、肌で感じていた。
目的の「アルケミック・プリズム」は、大通りから少し入った、ひときわ洗練された建物の一階にあった。
分厚いガラスの扉を開けると、澄んだ鈴の音が鳴った。
店内は、まるで静謐な博物館のようだった。
壁一面に作り付けられた黒檀の棚には、様々な大きさのガラスケースが並び、その中に希少な魔術素材や最先端の魔導具部品が、まるで宝石のように鎮座していた。
客はまばらだったが、誰もが裕福な研究者か、新興貴族といった風体で、静かに品定めをしていた。
セラフィナとクロエの、着古して少し色褪せたドレスは、この空間では明らかに浮いていた。
クロエは居心地が悪そうに身を縮こませたが、セラフィナの目はすでに、ガラスケースの中の輝きに釘付けになっていた。
「すごい……ミスリル銀の極細線……純度九十九・九パーセント以上のオリハルコンの基盤……」
一つ一つが、彼女の研究を飛躍的に進歩させる可能性を秘めた、夢のような素材ばかりだった。
彼女は心を落ち着け、本来の目的である集光結晶を探し始めた。
そして、店の最も奥まった一角にある、特別な防護結界が張られたショーケースの中に、それを見つけた。
「……あったわ。星涙石(スターティア・クリスタル)の集光結晶……」
それは、夜空の星々をそのまま封じ込めたかのような、深く、そしてどこまでも透明な輝きを放つ、親指の先ほどの大きさの結晶だった。
エーテル光を寸分の狂いもなく収束させるという、完璧な多面体カットが施されていた。
これさえあれば、彼女のプロジェクターは完成する。
セラフィナは胸を高鳴らせながら、その下に添えられた小さな値札に目を落とし──そして、全身の血が凍りつくのを感じた。
『金貨五十枚』
五十枚。コンペの優勝賞金の、半分。
今の彼女たちにとって、それは天文学的な数字だった。ギルバートの工房の家賃の、五年分以上に相当した。
「……そんな……」
目の前が真っ暗になった。希望の光が見えたと思った瞬間、その光が決して手の届かない場所にあるのだと突きつけられた絶望。
セラフィナは、ただ呆然とガラスケースを見つめることしかできなかった。
「……星涙石(スターティア・クリスタル)か。確かに、それ以外に選択肢はないだろうな」
不意に、背後から静かで理知的な声がした。
「その結晶は、高周波のエーテル励起に対して極めて高い透過率を誇る。特に、第三世代以降の空間投影式の魔導具には不可欠な部品だ」
セラフィナは、はっとして振り返った。
そこに立っていたのは、長身の青年だった。
仕立ての良い、しかし華美ではないチャコールグレーのジャケットを纏い、その姿はエーテルポートの洗練された風景に完璧に溶け込んでいた。
切れ長の瞳は氷のように冷静で、それでいて奥には知性の炎が揺らめいていた。
セラフィナはその顔に見覚えがあった。遠目に、一度だけ。あの忌まわしい、王宮の舞踏会で。
セバスチャン・モラン公爵。
革新派の若き旗手。このエーテルポート地区を治める、謎めいた辺境領主。
なぜ、彼がここに? そしてなぜ、自分に声を?
セバスチャンは、セラフィナの動揺には気づかないふりをして、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「失礼。ヴァレンシア嬢とお見受けする。……いや、今はその問いは野暮か。一つ、純粋に技術的な好奇心から伺いたいのだが」
周囲にいた数人の客が、何事かと遠巻きに視線を向けた。クロエが息を呑む気配がした。
セラフィナは、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
S・ヴァレン。
それは、彼女が密かに論文を発表する際に使っていた、男性名のペンネーム。知るはずはなかった。誰にも明かしたことのない、彼女だけの秘密だった。
セバスチャンは、彼女の返事を待たずに、静かに、しかし明瞭に言葉を続けた。その声は、この静かな店内にいる全員の耳に届くほど、はっきりと響いた。
「論文では、多重エーテル織の重ね合わせにおける位相干渉の抑制について、画期的な理論が提示されていた。しかし、実用レベルでの安定性、特に外部環境からの魔力ノイズに対する脆弱性については、どうお考えか? 例えば、ベルフォート公爵家が得意とするような、瘴気(ミアズマ)濃度の高い環境下で、あなたの理論は共振崩壊(レゾナンス・コラプス)のリスクをどう克服する?」
それは、ただの学術的な興味からくる質問ではなかった。
彼女の論文を隅から隅まで読み込み、その革新性を理解し、さらにその先にある実用化の壁までをも完全に見抜いた者でなければ、決して発することのできない、恐ろしく鋭利な問いだった。
一瞬の沈黙。
セラフィナの脳裏を、恐怖と、それを瞬時に凌駕するほどの強烈な知的好奇心が駆け巡った。
初めてだった。
婚約破棄されて以来、向けられるのは侮蔑か、憐れみか、あるいは無関心だけだった。
自らの研究について、これほど深く、対等なレベルで語り合える相手に出会ったのは。
彼女は、いつの間にか握りしめていた拳を、そっと開いた。顔を上げ、モラン公爵の目をまっすぐに見返した。
「共振崩壊は、静的な安定性のみを追求するからこその脆弱性。私の理論の核心は、そこにはありません。……動的な適応性、それこそが真髄です」
凛とした声が、静寂を破った。
「外部ノイズを常時監視するマイクロ・ルーンをエーテル織の構造そのものに織り込み、検知したノイズの周波数に合わせて、コアとなるエーテル織の基本振動数をリアルタイムで変調させるのです。いわば、嵐の中で硬直した帆を張るのではなく、風向きに合わせて絶えず帆の角度を変え続ける船のように。瘴気濃度のような持続的かつ広範囲な環境汚染に対しては、フィルターとなる逆位相の防御フィールドを動的に生成することで、コアへの干渉を理論上、九十八・七パーセント以上遮断可能です」
淀みない、完璧な回答。それは論文に書かれた以上の、実践を見据えた具体的な解決策だった。
セバスチャンの氷のように冷静だった瞳に、驚きと、それを上回るほどの熱を帯びた歓喜の光が宿った。
「……見事だ」
彼は、ほとんど感嘆のため息に近い声で呟いた。そして、確信を込めて言い切った。
「君こそが、『S・ヴァレン』本人なのだな」
その言葉は、もはや問いかけではなかった。
セバスチャンは一歩前に出ると、セラフィナに向かって手を差し伸べた。その仕草には、貴族的な儀礼ではなく、対等な相手への敬意が込められていた。
「セラフィナ・ド・ヴァレンシア女史。単刀直入に言おう。私は君の才能に、この国の未来を賭けたい」
あまりに唐突で、あまりにスケールの大きな申し出に、セラフィナは息を呑んだ。
「その頭脳は、市場地区の工房の片隅で埃を被っているべきではない。アトリエを、研究室を、そしてその星涙石も。君の研究に必要なもの全てを、私が提供しよう。君のビジョンを、私と共に現実のものにしないか?」
セラフィナは、彼の真意を測りかねて、警戒心を解かなかった。
なぜ、公爵である彼が、没落し、後ろ盾も何もない自分に? ベルフォート家への当てつけか、それとも何か裏があるのか。
「……なぜ、私に?」
かろうじて絞り出した問いに、セバスチャンは揺るぎない眼差しで答えた。
「なぜなら、君のその技術が、このリリア王国の未来そのものだからだ」
彼の声には、確固たる信念が宿っていた。
「旧弊なギルド、瘴気をまき散らす旧式のエネルギー。それらに依存した経済と社会は、いずれ必ず破綻する。この国には新しい血と、世界を変える新しい力が必要だ。君の力は、その変革をもたらす、最初の火花になる」
セラフィナは、彼の言葉を一つ一つ、心の中で吟味した。
これは、屈辱的な同情ではない。気まぐれな施しでもない。
一人の革新者が、もう一人の革新者の才能に、王国の未来を賭けるほどの価値を見出して差し伸べた、対等なパートナーシップの提案だった。
他に道はない。このコンペに勝ったとしても、その賞金だけでは、いずれ研究は行き詰まる。
しかし、この男の手を取れば──。
彼女の脳裏に、ジュリアンの侮蔑に満ちた顔が、ヴィヴィアンの嘲笑が、そして手のひらを返した実家の冷たい視線が浮かんで、消えた。
もう、誰かに価値を決められるのは終わりだ。自分の価値は、自分で創り出す。
セラフィナは深く、一度だけ息を吸い、そして決意を固めた。
「……わかりました。そのお話、謹んでお受けいたします。モラン公爵。……あなたの力を、私にお貸しください」
彼女の返答に、セバスチャンの唇の端が、わずかに持ち上がった。
それは、探し求めていた最後のピースを見つけた者の、満足に満ちた微笑みだった。
ガラスと鋼鉄の街で、堕ちた星屑は、天穹を創るための最初の盟友を得た。
二人の運命が交差したこの瞬間から、王国の歴史は、まだ誰も知らない未来へと、大きく舵を切り始めることになる。
酒場の陽気な音楽、路地裏で交わされるひそひそ話、そして時折響く怒声。
光と影がより濃密に混じり合い、混沌の純度を増していく。
ギルバートの工房の奥、セラフィナは油とインクの匂いが染みついた作業台の上で、一枚の羊皮紙を睨みつけていた。
そこには、彼女が創り出した光のドレスを現実の布と糸で再現するための、複雑な設計図が描かれている。
「……だめね、何度計算し直してもこの一点に収束する。これだけは、絶対に妥協できないわ」
ぽつりと呟いたセラフィナの指先が示したのは、設計図の心臓部。エーテル・プロジェクターの小型化と安定稼働を両立させるための、魔力集光レンズの項目だった。
「ええ、ただの水晶じゃ話にならない。放射したエーテル粒子を完璧に制御して、あの光のドレスをこの世に編み上げるには……一点の曇りもない、天然の集光結晶が不可欠なの」
傍らで心配そうに覗き込んでいたクロエが、こくりと喉を鳴らした。
「集光結晶、ですか……。お嬢様、それは確か、とても高価な……」
「ええ。市場地区のどこを探しても、手に入る代物じゃないわ」
工房の隅で、パイプの手入れをしていたギルバートが、重々しく口を開いた。
「そんな代物、このガラクタの街で手に入るか。欲しけりゃ行くしかねえだろ、あの鼻持ちならねえ連中の巣……エーテルポート地区によ」
その名を聞いただけで、空気が変わった気がした。
エーテルポート地区。ガラスと鋼鉄で築かれた、魔導技術(マギテック)の聖地。伝統と格式を重んじる旧市街や市場地区とは、まるで別の国のように切り離された、革新の最前線。
没落した貴族令嬢であるセラフィナにとって、そこは縁遠いどころか、足を踏み入れることすら想像したことのない世界だった。
「……行くしかないのね」
セラフィナの静かな決意に、クロエは不安げな表情を浮かべた。
「ですがお嬢様……エーテルポート地区といえば、羽振りのいい新興貴族や魔導技術者の方ばかりが集まる場所と……。今の私たちが、その……場違いな気がして、胸が苦しいです」
「大丈夫なもんか」
ギルバートが吐き捨てるように言った。
「だが、腹は括るしかねえんだろ、お嬢。お前が選んだ道だ」
彼は立ち上がると、埃っぽい棚から古びたメモ帳を取り出し、何かを書きつけた。
「エーテルポート地区の三番街に、『アルケミック・プリズム』という店がある。王都一の魔導具部品の専門店だ。品揃えは確かだが、店主は偏屈で、客を選ぶ。下手に舐められた態度を取るなよ。これは俺からの紹介状だ。気休め程度にはなるだろう」
差し出された羊皮紙の切れ端を受け取り、セラフィナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、師匠」
「ふん。さっさと行って、さっさと帰ってこい。あんな無機質な街は、魂が乾く」
ぶっきらぼうな言葉の中に、師の不器用な優しさが滲んでいた。
翌日、セラフィナとクロエは、なけなしの銅貨をはたいて、市場地区の端から出ている乗り合いの魔導馬車に乗り込んだ。
古びた車体はガタガタと音を立て、瘴気(ミアズマ)の混じった魔力の名残を微かに漂わせながら、ゆっくりと進んでいく。
馬車が旧市街の石畳を抜け、エーテルポート地区へと続く大橋を渡り始めると、車窓の風景は劇的にその姿を変えた。
「……まあ……」
クロエが息を呑む。無理もなかった。
そこは、セラフィナが知る王都アストラリスのどの景色とも異なっていた。
天を突くようにそびえ立つのは、石や煉瓦ではなく、ガラスと磨き上げられた鋼鉄でできた摩天楼。建物の壁面を、色とりどりの光の広告が滝のように流れ落ちていく。あれこそが、エーテル・プロジェクションの商業利用だ。
道行く人々が乗るのは、馬が引く馬車ではない。クリーン・エーテル転換炉を搭載し、金属の車輪で静かに滑るように走る、個人用の小型魔導車両。
空には、荷物を運ぶための自律型ゴーレムが、決められた軌道上を規則正しく飛行している。
市場地区の猥雑な活気とは違う。静かで、効率的で、それでいて圧倒的なエネルギーに満ちた、未来の街。
セラフィナは、窓の外を食い入るように見つめていた。
自分が工房の片隅で、夢中で研究している技術の数々が、ここでは当たり前の日常として息づいていた。
胸を締め付けるような焦燥感と、血が沸き立つような高揚感が、同時に彼女の心を支配した。
「お嬢様……なんだか、空気が違うような気がします」
クロエが不安そうに呟いた。
「ええ。瘴気の匂いがしないわ。空気が澄んでいて……冷たいくらいに」
セラフィナは、自分が今、過去の世界から未来の世界へと足を踏み入れたのだと、肌で感じていた。
目的の「アルケミック・プリズム」は、大通りから少し入った、ひときわ洗練された建物の一階にあった。
分厚いガラスの扉を開けると、澄んだ鈴の音が鳴った。
店内は、まるで静謐な博物館のようだった。
壁一面に作り付けられた黒檀の棚には、様々な大きさのガラスケースが並び、その中に希少な魔術素材や最先端の魔導具部品が、まるで宝石のように鎮座していた。
客はまばらだったが、誰もが裕福な研究者か、新興貴族といった風体で、静かに品定めをしていた。
セラフィナとクロエの、着古して少し色褪せたドレスは、この空間では明らかに浮いていた。
クロエは居心地が悪そうに身を縮こませたが、セラフィナの目はすでに、ガラスケースの中の輝きに釘付けになっていた。
「すごい……ミスリル銀の極細線……純度九十九・九パーセント以上のオリハルコンの基盤……」
一つ一つが、彼女の研究を飛躍的に進歩させる可能性を秘めた、夢のような素材ばかりだった。
彼女は心を落ち着け、本来の目的である集光結晶を探し始めた。
そして、店の最も奥まった一角にある、特別な防護結界が張られたショーケースの中に、それを見つけた。
「……あったわ。星涙石(スターティア・クリスタル)の集光結晶……」
それは、夜空の星々をそのまま封じ込めたかのような、深く、そしてどこまでも透明な輝きを放つ、親指の先ほどの大きさの結晶だった。
エーテル光を寸分の狂いもなく収束させるという、完璧な多面体カットが施されていた。
これさえあれば、彼女のプロジェクターは完成する。
セラフィナは胸を高鳴らせながら、その下に添えられた小さな値札に目を落とし──そして、全身の血が凍りつくのを感じた。
『金貨五十枚』
五十枚。コンペの優勝賞金の、半分。
今の彼女たちにとって、それは天文学的な数字だった。ギルバートの工房の家賃の、五年分以上に相当した。
「……そんな……」
目の前が真っ暗になった。希望の光が見えたと思った瞬間、その光が決して手の届かない場所にあるのだと突きつけられた絶望。
セラフィナは、ただ呆然とガラスケースを見つめることしかできなかった。
「……星涙石(スターティア・クリスタル)か。確かに、それ以外に選択肢はないだろうな」
不意に、背後から静かで理知的な声がした。
「その結晶は、高周波のエーテル励起に対して極めて高い透過率を誇る。特に、第三世代以降の空間投影式の魔導具には不可欠な部品だ」
セラフィナは、はっとして振り返った。
そこに立っていたのは、長身の青年だった。
仕立ての良い、しかし華美ではないチャコールグレーのジャケットを纏い、その姿はエーテルポートの洗練された風景に完璧に溶け込んでいた。
切れ長の瞳は氷のように冷静で、それでいて奥には知性の炎が揺らめいていた。
セラフィナはその顔に見覚えがあった。遠目に、一度だけ。あの忌まわしい、王宮の舞踏会で。
セバスチャン・モラン公爵。
革新派の若き旗手。このエーテルポート地区を治める、謎めいた辺境領主。
なぜ、彼がここに? そしてなぜ、自分に声を?
セバスチャンは、セラフィナの動揺には気づかないふりをして、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「失礼。ヴァレンシア嬢とお見受けする。……いや、今はその問いは野暮か。一つ、純粋に技術的な好奇心から伺いたいのだが」
周囲にいた数人の客が、何事かと遠巻きに視線を向けた。クロエが息を呑む気配がした。
セラフィナは、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
S・ヴァレン。
それは、彼女が密かに論文を発表する際に使っていた、男性名のペンネーム。知るはずはなかった。誰にも明かしたことのない、彼女だけの秘密だった。
セバスチャンは、彼女の返事を待たずに、静かに、しかし明瞭に言葉を続けた。その声は、この静かな店内にいる全員の耳に届くほど、はっきりと響いた。
「論文では、多重エーテル織の重ね合わせにおける位相干渉の抑制について、画期的な理論が提示されていた。しかし、実用レベルでの安定性、特に外部環境からの魔力ノイズに対する脆弱性については、どうお考えか? 例えば、ベルフォート公爵家が得意とするような、瘴気(ミアズマ)濃度の高い環境下で、あなたの理論は共振崩壊(レゾナンス・コラプス)のリスクをどう克服する?」
それは、ただの学術的な興味からくる質問ではなかった。
彼女の論文を隅から隅まで読み込み、その革新性を理解し、さらにその先にある実用化の壁までをも完全に見抜いた者でなければ、決して発することのできない、恐ろしく鋭利な問いだった。
一瞬の沈黙。
セラフィナの脳裏を、恐怖と、それを瞬時に凌駕するほどの強烈な知的好奇心が駆け巡った。
初めてだった。
婚約破棄されて以来、向けられるのは侮蔑か、憐れみか、あるいは無関心だけだった。
自らの研究について、これほど深く、対等なレベルで語り合える相手に出会ったのは。
彼女は、いつの間にか握りしめていた拳を、そっと開いた。顔を上げ、モラン公爵の目をまっすぐに見返した。
「共振崩壊は、静的な安定性のみを追求するからこその脆弱性。私の理論の核心は、そこにはありません。……動的な適応性、それこそが真髄です」
凛とした声が、静寂を破った。
「外部ノイズを常時監視するマイクロ・ルーンをエーテル織の構造そのものに織り込み、検知したノイズの周波数に合わせて、コアとなるエーテル織の基本振動数をリアルタイムで変調させるのです。いわば、嵐の中で硬直した帆を張るのではなく、風向きに合わせて絶えず帆の角度を変え続ける船のように。瘴気濃度のような持続的かつ広範囲な環境汚染に対しては、フィルターとなる逆位相の防御フィールドを動的に生成することで、コアへの干渉を理論上、九十八・七パーセント以上遮断可能です」
淀みない、完璧な回答。それは論文に書かれた以上の、実践を見据えた具体的な解決策だった。
セバスチャンの氷のように冷静だった瞳に、驚きと、それを上回るほどの熱を帯びた歓喜の光が宿った。
「……見事だ」
彼は、ほとんど感嘆のため息に近い声で呟いた。そして、確信を込めて言い切った。
「君こそが、『S・ヴァレン』本人なのだな」
その言葉は、もはや問いかけではなかった。
セバスチャンは一歩前に出ると、セラフィナに向かって手を差し伸べた。その仕草には、貴族的な儀礼ではなく、対等な相手への敬意が込められていた。
「セラフィナ・ド・ヴァレンシア女史。単刀直入に言おう。私は君の才能に、この国の未来を賭けたい」
あまりに唐突で、あまりにスケールの大きな申し出に、セラフィナは息を呑んだ。
「その頭脳は、市場地区の工房の片隅で埃を被っているべきではない。アトリエを、研究室を、そしてその星涙石も。君の研究に必要なもの全てを、私が提供しよう。君のビジョンを、私と共に現実のものにしないか?」
セラフィナは、彼の真意を測りかねて、警戒心を解かなかった。
なぜ、公爵である彼が、没落し、後ろ盾も何もない自分に? ベルフォート家への当てつけか、それとも何か裏があるのか。
「……なぜ、私に?」
かろうじて絞り出した問いに、セバスチャンは揺るぎない眼差しで答えた。
「なぜなら、君のその技術が、このリリア王国の未来そのものだからだ」
彼の声には、確固たる信念が宿っていた。
「旧弊なギルド、瘴気をまき散らす旧式のエネルギー。それらに依存した経済と社会は、いずれ必ず破綻する。この国には新しい血と、世界を変える新しい力が必要だ。君の力は、その変革をもたらす、最初の火花になる」
セラフィナは、彼の言葉を一つ一つ、心の中で吟味した。
これは、屈辱的な同情ではない。気まぐれな施しでもない。
一人の革新者が、もう一人の革新者の才能に、王国の未来を賭けるほどの価値を見出して差し伸べた、対等なパートナーシップの提案だった。
他に道はない。このコンペに勝ったとしても、その賞金だけでは、いずれ研究は行き詰まる。
しかし、この男の手を取れば──。
彼女の脳裏に、ジュリアンの侮蔑に満ちた顔が、ヴィヴィアンの嘲笑が、そして手のひらを返した実家の冷たい視線が浮かんで、消えた。
もう、誰かに価値を決められるのは終わりだ。自分の価値は、自分で創り出す。
セラフィナは深く、一度だけ息を吸い、そして決意を固めた。
「……わかりました。そのお話、謹んでお受けいたします。モラン公爵。……あなたの力を、私にお貸しください」
彼女の返答に、セバスチャンの唇の端が、わずかに持ち上がった。
それは、探し求めていた最後のピースを見つけた者の、満足に満ちた微笑みだった。
ガラスと鋼鉄の街で、堕ちた星屑は、天穹を創るための最初の盟友を得た。
二人の運命が交差したこの瞬間から、王国の歴史は、まだ誰も知らない未来へと、大きく舵を切り始めることになる。
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