無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 アラリック王子の涼やかな声が、静まり返ったホールに響き渡った。シャンデリアの光を浴びたその声は、研ぎ澄まされた水晶の刃のようにも感じられる。

「皆に、重要な発表がある」

 その言葉は、これから下される判決の開始を告げる鐘の音だった。

 集まった貴族たちは息をのみ、誰もが舞台の中央に立つ三人に視線を注いだ。

 冷酷な王子。

 勝ち誇った令嬢。

 そして、無表情な公爵令嬢。

 好奇、憐憫、あるいは密かな愉悦。無数の感情が渦巻く視線の中、エララはただ静かに立っていた。

 彼女の頭の中では、この異常な状況が、まるで他人事のように解析されていく。

 非論理的な変数アラリック、自己中心的変数イゾルデ。

 そして、この方程式における定数である自分。

 この歪んだ方程式が導き出す解は、おそらく一つしかないだろうと、エララは静かに結論付けた。

 アラリックはエララの灰色の瞳を射抜くように見据え、芝居がかった声で言葉を続けた。

「本日をもって、私、アラリック・フォン・エーテルガルドは、エララ・フォン・ヘムロック公爵令嬢との婚約を破棄する!」

 宣言は雷鳴のようにホールを揺るがした。

 どよめきが、波のように広がる。

 アラリックは満足げにその反応を見渡すと、さらに声を張り上げた。

「その理由は明白だ! エララ、お前は次期王妃として、あまりにも不適格だ!」

 彼はエララの目の前で、侮辱の言葉を一つひとつ投げつけ始めた。

「お前のその冷淡な性質! いつも何を考えているか分からぬ陰気な態度! 舞踏会の隅で、訳の分からない図形ばかり描いているような女に、どうして民がついてくるというのだ!」

 それは、これまでエララが陰で囁かれてきた言葉の集大成だった。

 だが、婚約者である王子の口から、これほど多くの人々の前で放たれると、言葉は単なる悪意ではなく、鋭い刃となって彼女の存在そのものを切り刻む。

「極めつけは、その不毛さだ! 王家を継ぐ世継ぎを産むという、最も重要な役目を果たせるとは到底思えん! お前のような氷の女が、この国の未来を繋げるとは思えないのだ!」

「不毛」という言葉は、確かにエララの心の深部にまで届いた。

 舞踏会の片隅で耳にした、あの残酷な囁き。それが今、王子の口から公式の断罪として下されたのだ。

 しかし、彼女の表情は凪いだ湖面のように静かなままだ。悲しみは、彼女の論理回路にとっては無意味なノイズに過ぎない。

 だが、その無数のノイズの奥底で、たしかに何か微かな傷が刻まれていくのを、エララは感じ取っていた。それはまるで、完璧な数式に予期せぬ誤差が生じたかのような、微細な歪み。

 彼女の頭の中では、アラリックの愚かな言葉が、まるで故障した計算機の吐き出す無意味な文字列のように解析されていく。

「この男は、感情という極めて不安定な変数のみを用いて、国家間の契約を破棄しようとしている。世継ぎを産めるかどうかなど、誰にも証明できない未来の事象を断罪の根拠とするのは、あまりにも稚拙な論理の飛躍。私には理解できない愚かさだ」

 頭の中で言葉が淡々と組み立てられていく。

 だが、その声が外に出ることはない。

 この場において、論理的な正しさは何の意味も持たないことを、彼女は知っていた。

 アラリックは勝ち誇ったように、隣に立つイゾルデの手を高く掲げた。

「ここにいるイゾルデこそ、我が妃にふさわしい! 太陽のように明るく、情熱的で、誰からも愛される! 彼女こそが、このエーテルガルド王国に豊穣と繁栄をもたらす真の国母となるだろう! よって、私はエララとの婚約を破棄し、新たにイゾルデ・フォン・ラングローブ伯爵令嬢を、私の婚約者とすることをここに宣言する!」

 イゾルデはうっとりとした表情でアラリックを見上げ、頬を赤らめている。

 その瞳には、エララに対する明確な勝利の輝きがあった。

 会場の空気は一変した。

 先ほどまでの戸惑いは消え、新たな婚約者を祝福する声が上がり始める。強い者に媚び、時流に乗ることこそが、社交界の生存術なのだ。

 エララは視線をさまよわせ、ホールの一角に立つ両親の姿を探した。

 父であるヘムロック公爵は、血の気の引いた顔で立ち尽くしている。

 母は扇で口元を隠し、震えていた。

 その父が、アラリックの視線に気づくと、びくりと肩を震わせた。そして、まるで王の威光にひれ伏すように、深く頭を下げる。

「は、ははっ、王子殿下のご決断、まことに賢明なるご判断にございます! すべては我が娘の不徳、この父の監督不行き届きゆえ! 王家にご迷惑をおかけしたこと、深く、深く、お詫び申し上げます!」

 裏切りだった。

 エララは、父が自分を守る可能性など万に一つもないと理解はしていた。公爵家の安泰と、王家の不興。天秤にかければ、どちらが重いかは自明の理。

 それでも、実の父親から突き放された事実は、まるで冷たい水が心に染み込んでくるように、じわりと彼女の体温を奪っていった。

 アラリックは、ヘムロック公爵の卑屈な態度に満足げに頷くと、最後の宣告を下した。

「ヘムロック公爵の忠誠心に免じ、お家取り潰しは猶予しよう。だが、王家を欺き、その名を汚した罪は重い。エララ・フォン・ヘムロックは、これより全ての爵位と権利を剥奪する!」

 彼は冷酷な笑みを浮かべ、エララを見下ろした。

「お前のような女が王都にいること自体が、国の恥だ。よって、北の辺境、フェイラン領への追放を命じる。そこで静かに、己の罪を悔いて余生を送るがよい!」

 フェイラン領。その名を聞いて、貴族たちの間に再びさざ波が立った。

 忘れられた土地。

 冬は厳しい寒さと雪に閉ざされ、魔物がうろつくとも噂される痩せた土地だ。そこへ貴族の令嬢をたった一人で送るなど、それは死ねと言っているに等しい。

 誰もが、エララの未来が完全に閉ざされたことを悟った。

 もう、ここに彼女の居場所はない。

 エララは、誰に言われるでもなく、静かに背を向けた。

 アラリックにも、イゾルデにも、両親にも、一瞥もくれることなく。ただ、優雅なカーテシーを一つだけ残し、まっすぐに背筋を伸ばして、ホールの出口へと歩き始めた。

 その小さな背中には、嘲笑と憐憫が、まるで無数の矢のように突き刺さる。

 しかし彼女は振り返らなかった。この非論理的で、感情に支配された世界に、もはや未練など一片もなかったのだ。

 大理石の廊下は、真冬のように冷え切っていた。

 エララは、屋敷に一度戻ることすら許されなかった。

 王宮の裏口には、すでに一台の粗末な、屋根もない荷馬車が用意されていた。まるで罪人を運ぶかのような、あまりにも惨めな旅立ちだった。

 侍女も、護衛もいない。

 ただ、無骨な御者が一人、手綱を握って待っているだけだ。

 エララが馬車の荷台に足をかけようとした、その時だった。

「エララ」

 背後から、押し殺したような声がした。

 振り返ると、そこに父であるヘムロック公爵が立っていた。

 ホールで見た時よりもさらに顔色は悪く、その目には苦悩と……そして恐怖の色が浮かんでいた。

 エララは何も言わず、ただ父を見つめた。

 一瞬、父の唇が何かを言おうと動いた。謝罪か、あるいは弁解か。だが、結局、言葉にはならなかった。

 彼は周囲を気にするように視線を泳がせると、懐からずしりと重い金袋を取り出し、それをエララに押し付けた。

 革袋の冷たい感触が、手袋越しに伝わる。

「……これだ。当座の金は入っている」

 金袋の重みは、冷徹な方程式の解として、彼女の存在が「負の変数」として処理されたことを告げていた。

 父の言葉には、娘を案じる響きは一片もなく、ただ厄介なものを手早く処理しようとする事務的な響きが混じっていた。

 エララは頭の中で考える。

「私の存在価値は、この金袋一つに圧縮されたのか。それはあまりにも安すぎる対価だ。いや、彼にとっては、私の存在そのものが負の資産だった、という結論か」

 父は、決してエララの目を見ようとはしなかった。ただ、足元の石畳を見つめながら、吐き捨てるように言った。

「いいか、よく聞け。フェイラン領に着いたら、二度とヘムロックの名を名乗るな。王都のことも、我々のことも忘れろ。……二度と、我々の前に姿を現すな。これ以上、恥をかかされるのはごめんだ」

 彼はようやく顔を上げた。

 その瞳に宿っていたのは、親子の情愛ではなかった。凍てつくような、冷え冷えとした軽蔑の色。

 それは、エララという「異質な存在」が、家門にとっての「論理的な不利益」であるという、父自身の結論だった。

 その言葉は、エララの存在が、家族という論理的枠組みからも完全に排除されたことを告げる、最後の「証明」だった。

 彼女は、父からも、家族からも、完全に切り捨てられたのだ。

 エララは、金袋を握りしめた。その重さが、自分の失ったすべてのものの重さのように感じられた。爵位、婚約者、家族、未来。そのすべてが、この革袋一つに変わってしまった。

 エララは、もはや何も言う気にはなれなかった。

 彼女はもう一度、父に背を向けた。そして、よろめくことなく、毅然とした足取りで馬車の荷台へと登る。

 御者が無言で手綱を引くと、車輪が軋む音を立てて、馬車はゆっくりと動き出した。

 ギィ、という重い音を立てて、王宮の裏門が閉ざされていく。

 その隙間から見えた父の姿は、どんどん小さくなっていった。

 彼は、最後まで娘を見送ることなく、早々に背を向けて闇の中へと消えていった。

 馬車は、石畳の道をガタガタと揺れながら進んでいく。

 エララは、華やかな王都の灯りを背に、深い闇へと呑み込まれていった。

 彼女の灰色の瞳には、涙は一滴も浮かんでいなかった。

 ただ、そこには、この非論理的で歪んだ世界が提示した「解」を、自らの知性で覆し、新たな「真理」を導き出すため、未知の変数に満ちた方程式を解き明かそうとする、静かで、そして底知れないほどに冷徹な、しかし確固たる「決意の光」が宿っているだけだった。
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