無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 重い車輪が石畳を噛み砕く。不快な振動は、荷台に敷かれた薄い藁を透過し、エララの全身を揺さぶった。骨の髄まで響くような震えが、この旅の始まりを告げていた。

 王都の最後の灯りが、茜色の地平線に吸い込まれるように消え去る。世界が完全な闇に包まれた頃、馬車は舗装すらされていない荒れた街道へと、その進路を変えた。

 ガタン、と激しく車体が跳ねるたび、壁に打ち付けられる痩せた肩が鈍い痛みを訴える。護衛も、侍女も、誰もいない。

 温かい毛布も、湯気の立つ紅茶もない。ただ、凍えるような夜風が隙間から吹き込み、着古したドレス一枚のエララの体温を、容赦なく奪い去っていくだけだった。

 膝の上で、ずしりと重い金袋が冷たい現実を告げている。父から押し付けられた、失われたすべてのものの代償。

 それはあまりにも軽く、そしてあまりにも虚しい価値だった。

 ――――数日が過ぎた。

 旅は、エララが想像していた以上に過酷なものだった。

 食事は日に一度。御者が無造作に放り込む、石のように硬い黒パンと、塩辛い干し肉だけ。

 水は革袋に入った生温かいものを、喉の渇きが限界に達した時にだけ許された。

 夜は、街道脇の粗末な馬宿か、時には吹きさらしの野営で済まされた。これまで天蓋付きのベッドでしか眠ったことのない身体は、硬い地面と絶え間ない寒さで悲鳴を上げた。

 しかし、エララの心は不思議なほど静かだった。

 肉体的な苦痛は、まるで自分のものではないかのように、どこか遠い場所で起きている現象として、客観的に観察している自分がいた。思考はむしろ、かつてないほどに冴えわたっていた。

 揺れる馬車の中で、彼女は目に見えないキャンバスに、幾何学的な図形を描き続ける。

 車輪の回転が生み出す完全な円。それが進むことで描かれる螺旋の軌跡。飛び石の描く放物線。風に揺れる木々の枝が示す、不規則に見えても法則に則った角度。

 世界は、変わらず美しい数式と、揺るぎない物理法則で満ち溢れていた。

 アラリック王子の顔も、彼が吐き出した侮蔑の言葉も、父の冷たい背中も。今では遠い過去の、解の導き出せない数式のように思えた。

 前提が間違っていたのだ。愛や信頼といった、定義の曖昧な変数を組み込んだ時点で、その方程式は破綻する運命にあった。

 もっと確かなもの。裏切られることのない、絶対的な真理。それだけが、今のエララを支える唯一の柱だった。

 旅が始まって一週間ほど経った日のことだった。

 馬車は鬱蒼とした森を抜ける道を進んでいた。陽はすでに西の山に沈み、急速に濃くなる夕闇が、不気味な影を道端に落としている。森のざわめきが、まるで誰かの囁きのように聞こえた。

 無口な御者が、不意に下品な悪態をついて手綱を引いた。馬がいななき、馬車が急停止する。

「……どうしたのですか?」

 荷台の幌から顔を出し、エララが問いかける。だが、御者は恐怖に青ざめた顔で、震える指を前方に向けただけだった。

 道の真ん中に、粗末な丸太が横たえられ、行く手を完全に塞いでいる。そしてその脇の茂みから、錆びた剣や棍棒を手に持った三人の男たちが、下卑た笑みを浮かべて姿を現した。

 追いはぎ。旅人が最も恐れる、野盗の類だ。

「へへへ、こんな寂しい道を走ってるとは、運の悪いお貴族様だ」

 男の一人が、唾を吐きながら言った。

「女も乗ってやがる。こいつは上玉だぜ、おい」

 もう一人の男の濁った目が、値踏みするようにエララを舐め回す。御者は情けない悲鳴を上げながら、一目散に森の奥へと走り去った。

「待って……!」

 エララの制止の声も、彼の耳には届かない。

 男の一人が、馬の手綱を掴んで動きを封じる。残りの二人が、ゆっくりと、しかし確実に荷台へと近づいてきた。

 心臓が、まるで氷の塊になったかのように冷え切っていく。恐怖。それは、身体の自由を奪い、思考を停止させる原始的な感情だった。

 だが、その恐怖が極点に達した、まさにその瞬間。カチリ、と、頭の中で何かが音を立てて切り替わった。

 世界から、音が消えた。

 男たちの下品な笑い声も、風のざわめきも、自分の心臓の鼓動さえも、一切聞こえなくなる。

 視界に映るすべてのものが、線と点、そしてベクトルへと、世界のすべてが分解されていく。

 正面の男。身長は約六尺。体重は……二十貫ほどか。重心はやや右足寄り。右手に握られた棍棒。そのリーチと、振りかぶった際の肩の関節の可動域から予測される攻撃範囲は、半径約四尺の扇形。

 左の男。小柄だが、動きが素早い。ナイフを逆手に持っている。狙いは金品よりも、こちらの動きを封じること。踏み込みの初速と、腕の長さから算出される到達時間は、約コンマ七秒。

 ――――解ける。

 エララの脳が、膨大な計算を瞬時に完了させた。

「金目のものを全部出しやがれえ!」

 正面の男が棍棒を振りかぶり、威嚇するように叫ぶ。その声が、彼女にとっての、計算開始の合図だった。

 エララは荷台からしなやかに地面に降り立った。その動きは、恐怖に駆られた逃走ではない。定められた座標へと、盤上の駒を一つ進めるかのように、静かで、そして正確だった。

「生意気な女だ!」

 左の男が、予測通り最短距離で踏み込んできた。きらりと光るナイフの切っ先が、エララの喉元を狙う。それはただの直線運動。最も単純で、最も予測しやすい軌道だった。

 エララは、右足を軸に身体を四十五度回転させた。

 最小限の動き。それは、相手の突き出す腕の運動エネルギーを、攻撃として利用するための座標変換。

 男の腕はエララの身体を掠め、空を切る。勢いを殺せなかった男は、前のめりによろめいた。

 同時に、背後から風を切る音が迫る。正面にいた男が、すでに棍棒を振り下ろしていた。

 エララは、よろめいた男の背中を、ごく軽く押した。

 それは力を加えるというより、ベクトルをわずかにずらすだけの行為。

 前のめりになった男は、そのわずかな軌道修正によって、棍棒を振り下ろしてきた仲間の懐へと、完璧なタイミングで転がり込んだ。

「ぐっ!?」

「うわっ!?」

 鈍い衝突音。二人の男は無様に絡み合い、地面に倒れ込む。

 一連の動作は、わずか数秒の出来事だった。

 まるで、流れる水が岩を避けていくかのように、自然で、無駄がなかった。

 残った一人が、何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くしている。

「……な、なんだ、今の……」

 エララは、静かにその男に向き直った。

 彼女の灰色の瞳には、もはや恐怖の色はなかった。そこにあるのは、目の前の問題を解き明かす数学者のような、冷徹なまでの静けさだけ。

 その人間離れした静謐さに、男は本能的な恐怖を感じた。目の前にいるのは、か弱い貴族の令嬢などではない。得体の知れない、何か別の存在だ。

「……ば、化け物……!」

 男はそう叫ぶと、仲間を見捨てて森の闇へと逃げ去っていった。

 地面に転がっていた二人の男も、慌てて起き上がると、這うようにその後を追っていく。

 あっという間に、静寂が戻ってきた。

 エララは、その場に立ち尽くしていた。自分の両手を見つめる。

 今、自分は何をしたのだろう。

 頭の中で描いた図形。計算した軌道。その通りに身体が動いた。相手の力を利用し、最小の作用で、望む結果を導き出した。

 それは、まるで美しい証明が完成した時のような、ぞくりとするほどの快感だった。

 私の思考は、ただの空想ではなかった。この物理世界に、直接干渉できる力だった……?

 新たな変数。未知の可能性。

 エララの心に、決意とはまた違う、熱を帯びた光が灯り始めた。

 ◇

 逃げ出した御者は、結局戻ってこなかった。

 幸い、馬は残されていた。公爵令嬢であったエララにとっては、考えられない所業だったが、見よう見まねで手綱を取り、自分で馬車を操ることを覚えた。

 そこからの旅は、さらに孤独で過酷なものとなった。しかし、エララの心は不思議と満たされていた。自分の内に芽生えた新たな力と、それによって切り拓かれる可能性への期待が、彼女を支えていた。

 そして、追いはぎに襲われた日からさらに数日後。

 果てしなく続いていた荒野の向こうに、ようやく石造りの質素な門が姿を現した。門の上には、狼の紋章が刻まれた旗が、凍てつく風にはためいている。

 北の辺境、フェイラン領。

 彼女の追放先であり、新たな人生が始まる場所だ。

 疲労は限界に達していた。ドレスは泥と埃で汚れ、銀色がかった金髪は乱れ、顔にはいくつもの擦り傷ができていた。公爵令嬢の面影はどこにもない。ただ、過酷な旅路を生き抜いてきた一人の女性が、そこに立っていた。

 馬車が門の前で力なく止まると、中から数人の兵士と、一人の男が出てきた。

 男は、兵士たちとは明らかに違う、洗練された空気をまとっていた。歳は二十代後半だろうか。無駄なく引き締まった身体を、実用的な黒い詰襟の服が包んでいる。夜の闇を溶かし込んだような黒髪と、同じ色をした鋭く知的な瞳が印象的だった。

 彼が、この地の領主、辺境伯カシアン・ヴァレリウスなのだろう。

 カシアンは、よろよろと荷台から降りてきたエララの姿を認めると、その黒い瞳をわずかに見開いた。驚きと、そして……深い憐憫の色が滲んでいた。

 王都の貴族たちが見せた、侮蔑や嘲笑とはまったく違う眼差しだった。

 彼はゆっくりとエララに歩み寄ると、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「エララ・フォン・ヘムロック嬢でお間違いないか?」

 追放され、爵位も名誉も剥奪された罪人。それが今の自分のはずだ。なのに彼は、まるで王都の舞踏会で出会ったかのように、丁寧な言葉で、彼女の本来の名前を口にした。

 エララは、ただこくりと頷くことしかできなかった。長旅で枯れた喉からは、声が出なかったのだ。

 カシアンは、エララのあまりに痛々しい姿に眉をひそめながらも、穏やかな口調を崩さなかった。

 彼はエララの前に立つと、すっと右手を差し伸べる。その手は、剣を握る者の、硬く節くれだった手だった。しかし、不思議なほどに温かいものに感じられた。

「長旅、さぞお辛かったことだろう」

 その声には、飾り気はないが、不思議な安心感があった。

「さあ、中へ。心ゆくまで身体を休めるといい」

 エララは、差し出された手と、カシアンの顔を交互に見つめた。

 彼の黒い瞳の奥に、王都の誰にも見つけられなかった種類の光を見た気がした。それは、好奇心でも同情でもない。ただ静かに、目の前の存在の本質を見極めようとする、深く澄んだ知性の光だった。

 エララは、おそるおそる、自分の汚れた手を、その大きな手に重ねた。

 未知の変数に満ちた、新しい方程式が、今、静かに幕を開けようとしていた。
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