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差し出されたカシアンの手に、エララは自分の汚れた手をそっと重ねた。
その手は、ごつごつと節くれ立ち、厚く、硬い。長年、剣を握り、厳しい風雪の中、馬の手綱を引いてきた者の手だった。
多くのものを守り抜いてきた、確かな重みがそこにあった。
だが、その手がエララの冷え切った手を包み込んだ瞬間――。
まるで凍てついた身体の芯に、小さな熾火が灯ったかのような温もりが、じわりと全身に広がった。
長い旅路と、それよりもずっと長い孤独によって凍結していたエララの心は、その温かさによって、静かに、ゆっくりと溶け始めるようだった。
その力強い手に支えられ、エララはふらつきながらも立ち上がる。
「……っ」
急な動きに、視界がぐらりと揺らぐ。
倒れそうになったエララの身体を、カシアンの腕がさりげなく、しかし確実な動きで支えた。
その動きには一切の無駄がなく、まるで物理法則を熟知しているかのような安定感が感じられた。
エララの身体は、彼の腕に触れた一瞬、深い安心感を覚えた。
「無理はするな。館はすぐそこだ」
カシアンはそう言うと、エララを支えたまま、ゆっくりと歩き出す。
その足取りは、彼女のペースに合わせて慎重だった。
城門を固めていた兵士たちは、驚きと戸惑いをないまぜにした視線を、自分たちの主と、その腕に支えられる見窄らしい少女に向けていた。
彼らにとって、追放されてきた罪人は、牢に繋がれるべき存在のはずだ。領主自らが手を貸すなど、前代未聞の光景に違いない。
だが、誰一人として口を開く者はいなかった。
辺境伯カシアン・ヴァレリウスが下す判断に、疑問を差し挟む余地などないと、その場の誰もが理解しているようだった。
彼らの視線には、領主への絶対的な信頼と、揺るぎない畏敬の念が宿っていたのだ。
エララは、王都とはまるで違う空気を肌で感じた。
凛として張り詰めた、研ぎ澄まされた空気。
そこには、貴族たちの陰湿な囁きも、好奇に満ちた侮蔑の視線もない。
ただ、厳しい自然と共に生きる者たちの、静かで実直な規律だけが存在していた。
それは、彼女が心のどこかでずっと求めていた、透明な世界のように思えた。
案内されたのは、城壁に隣接する石造りの館だった。
王都の公爵邸のような華美な装飾は一切ない。
しかし、磨き上げられた床、手入れの行き届いた調度品、そして壁に掛けられた精密な地図の数々が、この館の主の実直で知的な人柄を物語っていた。
全てが機能的で、余計なものが何一つない空間。
「リリアを呼んでくれ」
カシアンが低い声で供の者に命じると、すぐに白髪をきつく結い上げた初老の侍女が姿を現した。
彼女はカシアンに恭しく一礼する。
そして、その隣に立つエララの姿を見て、わずかに目を見開いた。
驚きを隠せない様子だったが、すぐに表情を引き締め、プロの侍女として主の言葉を待つ。
「この方を客室へ。湯と、温かい食事、それから何か着替えを用意してやってくれ」
「……かしこまりました。辺境伯様」
リリアと呼ばれた侍女は、一瞬の逡巡の後、淀みなく答えた。
その声には、主の命への忠実さと、わずかな戸惑いが混じっていた。
エララは、その侍女に導かれ、館の二階にある一室へと案内された。
案内された部屋は、広くはなかったが、塵一つなく清潔に保たれていた。
簡素ながらも頑丈そうな木のベッドには、厚手の毛布が丁寧に畳まれている。
小さな窓の外には、夕闇に沈みゆく雄大で厳しいフェイランの山々が、まるで水墨画のように広がっていた。
そして、部屋の片隅に置かれた、あるものがエララの心を惹きつけた。
飾り気のない、しかし広々とした木製の机。
彼女は思わず、その滑らかな天板に指先でそっと触れた。
すぐに侍女たちが湯を運び込み、エララは泥と埃にまみれた身体を洗い清めた。
用意された簡素なワンピースは、王都の貴族令嬢が着るような華やかなものではない。
だが、清潔で柔らかく、冷え切った身体には何よりの贅沢に感じられた。
テーブルに並べられたのは、素朴な黒パンと、具沢山の温かいスープ、そして干し肉の燻製。
飾り気はないが、心の底から温まる食事だ。
湯気立つスープの香りが、空っぽの胃に染み渡っていく。
エララは、何日ぶりかもわからないまともな食事を、夢中で口に運んだ。
一口ごとに、強張っていた身体の筋肉がゆっくりと解けていくのを感じる。
それは、飢えを満たすだけでなく、凍えていた魂にまで、温かい血潮を巡らせるようだった。
空になったスープ皿を静かに置いた時、控えめなノックの音が響いた。
「入っても構わないだろうか」
カシアンの声だった。
エララが戸惑いながらも「どうぞ」と答えると、扉が静かに開かれ、彼が姿を現す。
手には、羊皮紙の巻物を一つ持っていた。
「身体は少しは休まったか」
「は、はい……。このようなお心遣い、まことに……恐縮にございます」
エララは立ち上がって礼をしようとしたが、カシアンはそれを手で制した。
「座ったままでいい。君は客人だ」
彼はそう言うと、エララの向かいの椅子に腰を下ろした。
そして、手にしていた羊皮紙をテーブルの上に広げる。
それは、国王の名が記された、エララの追放を正式に命じる通達書だった。
「王都からの知らせには、こう書かれている。『公爵令嬢エララ・フォン・ヘムロックは、その冷淡にして不遜な態度により、王家との婚約を破棄され、辺境フェイラン領へ追放処分とする』……と」
カシアンは淡々とした口調で書面の内容を読み上げた。
それは、エララから全てを奪った、理不尽な宣告の言葉だった。
エララは、黙って俯いたままだった。
何を言っても無駄だ。王都では、誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。
この辺境の地で、見ず知らずの領主が信じてくれるはずもない。
彼女の心には、諦念と絶望の淵が広がっていた。
しかし、カシアンの次の言葉は、エララの予想を完全に裏切るものだった。
「だが、どうにも腑に落ちない」
カシアンは、通達書からエララへと視線を移した。
その黒い瞳は、ただ静かに彼女の本質を探っている。
まるで、目の前の現象の裏にある真理を見抜こうとする学者のように。
「王都の連中が囁く貴女の噂もいくつか耳にした。『陰気で、感情がなく、女らしくない書物ばかりを好む』……。まるで、欠点ばかりを並べ立てたかのようだ」
「…………」
「だが、私の目に映る貴女は違う」
カシアンは、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「確かに口数は少ないのかもしれない」
「だが、その瞳の奥には、そこらの凡百の貴族令嬢には到底及びもつかない、深い思考の色が見える。それは『陰気』なのではなく、『理知的』と呼ぶべきものだ」
――理知的。
その言葉は、エララの心に、静かな波紋を広げた。
王都でその言葉は、常に『だから可愛げがない』『だから女らしくない』『だから王子に捨てられるのだ』という、侮蔑に繋がる枕詞だった。
聡明であることは、彼女の世界では罪とされていたのだ。
なのに、この男は。
この辺境伯は、それをただの事実として、ありのままに評価している。
その言葉は、エララの胸の奥を震わせ、張り詰めていた心の糸を、ゆっくりと解き放つようだった。
「追放された理由を、私に話す必要はない」
カシアンは通達書をくるりと巻き直すと、傍らに置いた。
「王都の論理が、このフェイランで通用すると思うな」
「ここでは、噂や家柄は何の意味もなさない。意味を持つのは、その人間が何を見、何を考え、何を為すか。それだけだ」
彼は立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
外の山々は、すでに深い夜の色に染まっている。
「ここでは、君が君のままでいることを、誰も咎めはしない」
「好きなだけ書物を読み、好きなだけ思考に耽るがいい。君が何者であるかは、君自身の行動で示せばいい」
それは、エララが生まれて初めてかけられた言葉だった。
『ありのままでいい』と。
『あなたの価値は、あなたが決めるのだ』と。
喉の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚がした。
枯れ果てたはずの涙腺が、熱を持つ。
何一つ理解されなかった世界で、ただひたすら抑え込んでいた感情が、今、小さな泉のように湧き上がろうとしていた。
「……ありがとう、ございます。辺境伯様」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
カシアンは振り返らず、ただ窓の外を見つめたまま、小さく頷いた。
「今夜はゆっくり休め。長旅の疲れを癒すことだけを考えろ」
そう言い残し、彼は静かに部屋を退出していった。
一人残されたエララは、しばらくの間、呆然とその場に座り込んでいた。
未知の変数。
フェイラン領に到着した時に感じた予感は、確信に変わりつつあった。
カシアン・ヴァレリウスという男は、彼女がこれまで解いてきた、どの問題にも当てはまらない、全く新しい変数だった。
彼の存在は、エララの世界という方程式そのものを、根底から書き換えてしまう可能性を秘めている。
その夜、エララは久しぶりに深く、穏やかな眠りに落ちた。
それから数日間、エララはカシアンの言葉通り、ただひたすらに身体を休めることに専念した。
侍女のリリアは、最初はどこか警戒した様子だった。
だが、エララが常に物静かで礼儀正しく、決して無理な要求をしないことを知ると、次第に態度を和らげていった。
彼女が淹れてくれるハーブティーは、荒れた神経を優しく鎮めてくれる味がした。
体力が回復してくると、エララの頭脳もまた、本来の働きを取り戻し始める。
部屋の机に向かい、エララは指で空中に図形を描き、思考を巡らせた。
追いはぎに襲われた時の、あの奇妙な感覚。
世界が線と点、ベクトルと座標に変換され、全ての動きが予測可能な数式として立ち現れた、あの瞬間。
あれは、恐怖が見せた幻覚ではなかった。
あれこそが、自分の思考が持つ、本来の力なのではないか。
幾何学も、代数学も、物理学も、この世界を記述するための言語だ。
ならば、その言語を極めれば、世界に直接干渉することも可能になるのではないか。
思考が熱を帯び、エララの灰色の瞳に、探求の光が強く灯り始めていた。
それは、やがて燃え盛る炎となるだろう。
そんなある夜のことだった。
その日は、雲一つない満月だった。
窓から差し込む青白い光が、部屋の中を幻想的に照らしている。
昼間の疲れからか一度は眠りについたものの、高揚した思考がエララを再び覚醒させてしまった。
じっとしていられなくなり、彼女はそっと部屋を抜け出し、館の裏手にある小さな庭へと足を運んだ。
ひんやりとした夜気が肌を撫でる。
見上げれば、王都の空とは比べ物にならないほど無数の星々が、まるで宝石を撒き散らしたかのように、夜空いっぱいに輝いていた。
その一つ一つが、宇宙の広大な法則を語りかけてくるようだった。
エララは、吸い寄せられるように庭の中央へと進み出ると、無意識のうちにしゃがみ込んでいた。
そして、落ちていた小枝を拾い、柔らかな土の上に、線を、描き始めた。
まずは、単純な円。そこから派生する正三角形と正方形。
フィボナッチ数列に基づいた、美しい螺旋。
自己相似性を内包する、複雑なフラクタルの図形。
頭の中にある、世界の法則を記述する美しい数式が、次々と地面の上に可視化されていく。
それは、誰にも理解されなかった、彼女だけの世界。彼女だけの言語。
王都では、部屋の羊皮紙に隠れてこっそりとしか描けなかった、彼女の魂の形そのものだった。
時間を忘れ、エララは夢中で図形を描き続けた。
思考が加速し、世界から自分と地面の図形以外の全てが消えていく。
残るのは、無限に広がる知の探求だけ。
その時だった。
「それは……何か、法則を可視化したものだろうか?」
静かだが、芯のある声が、背後からかけられた。
エララは、びくりと肩を震わせた。心臓が跳ね上がるのを感じる。
我に返り、慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、月光を背負い、静かにこちらを見下ろすカシアン・ヴァレリウスだった。
彼の黒い瞳は、エララが地面に描いた複雑で広大な図形を、驚きでも困惑でもなく、ただ純粋な知的好奇心に満ちた眼差しで見つめていた。
まるで、未知の古代文明が残した碑文を解読しようとする学者のように、その法則性を理解しようとしているかのようだった。
見られた。自分の最も内側にある、誰にも見せてはならないと思っていた世界を。
一瞬、血の気が引くような感覚に襲われる。
しかし、カシアンの視線には、アラリックや王都の人間たちが見せたような侮蔑の色は、ひとかけらもなかった。
それは、ただ、ひたすらに、純粋な探求の光だったのだ。
エララは、言葉を探して、かさついた唇を一度湿らせた。
そして、か細くも、凛とした声で答える。
「……いいえ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、カシアンとまっすぐに向き合った。
「ただの、遊びですわ」
その手は、ごつごつと節くれ立ち、厚く、硬い。長年、剣を握り、厳しい風雪の中、馬の手綱を引いてきた者の手だった。
多くのものを守り抜いてきた、確かな重みがそこにあった。
だが、その手がエララの冷え切った手を包み込んだ瞬間――。
まるで凍てついた身体の芯に、小さな熾火が灯ったかのような温もりが、じわりと全身に広がった。
長い旅路と、それよりもずっと長い孤独によって凍結していたエララの心は、その温かさによって、静かに、ゆっくりと溶け始めるようだった。
その力強い手に支えられ、エララはふらつきながらも立ち上がる。
「……っ」
急な動きに、視界がぐらりと揺らぐ。
倒れそうになったエララの身体を、カシアンの腕がさりげなく、しかし確実な動きで支えた。
その動きには一切の無駄がなく、まるで物理法則を熟知しているかのような安定感が感じられた。
エララの身体は、彼の腕に触れた一瞬、深い安心感を覚えた。
「無理はするな。館はすぐそこだ」
カシアンはそう言うと、エララを支えたまま、ゆっくりと歩き出す。
その足取りは、彼女のペースに合わせて慎重だった。
城門を固めていた兵士たちは、驚きと戸惑いをないまぜにした視線を、自分たちの主と、その腕に支えられる見窄らしい少女に向けていた。
彼らにとって、追放されてきた罪人は、牢に繋がれるべき存在のはずだ。領主自らが手を貸すなど、前代未聞の光景に違いない。
だが、誰一人として口を開く者はいなかった。
辺境伯カシアン・ヴァレリウスが下す判断に、疑問を差し挟む余地などないと、その場の誰もが理解しているようだった。
彼らの視線には、領主への絶対的な信頼と、揺るぎない畏敬の念が宿っていたのだ。
エララは、王都とはまるで違う空気を肌で感じた。
凛として張り詰めた、研ぎ澄まされた空気。
そこには、貴族たちの陰湿な囁きも、好奇に満ちた侮蔑の視線もない。
ただ、厳しい自然と共に生きる者たちの、静かで実直な規律だけが存在していた。
それは、彼女が心のどこかでずっと求めていた、透明な世界のように思えた。
案内されたのは、城壁に隣接する石造りの館だった。
王都の公爵邸のような華美な装飾は一切ない。
しかし、磨き上げられた床、手入れの行き届いた調度品、そして壁に掛けられた精密な地図の数々が、この館の主の実直で知的な人柄を物語っていた。
全てが機能的で、余計なものが何一つない空間。
「リリアを呼んでくれ」
カシアンが低い声で供の者に命じると、すぐに白髪をきつく結い上げた初老の侍女が姿を現した。
彼女はカシアンに恭しく一礼する。
そして、その隣に立つエララの姿を見て、わずかに目を見開いた。
驚きを隠せない様子だったが、すぐに表情を引き締め、プロの侍女として主の言葉を待つ。
「この方を客室へ。湯と、温かい食事、それから何か着替えを用意してやってくれ」
「……かしこまりました。辺境伯様」
リリアと呼ばれた侍女は、一瞬の逡巡の後、淀みなく答えた。
その声には、主の命への忠実さと、わずかな戸惑いが混じっていた。
エララは、その侍女に導かれ、館の二階にある一室へと案内された。
案内された部屋は、広くはなかったが、塵一つなく清潔に保たれていた。
簡素ながらも頑丈そうな木のベッドには、厚手の毛布が丁寧に畳まれている。
小さな窓の外には、夕闇に沈みゆく雄大で厳しいフェイランの山々が、まるで水墨画のように広がっていた。
そして、部屋の片隅に置かれた、あるものがエララの心を惹きつけた。
飾り気のない、しかし広々とした木製の机。
彼女は思わず、その滑らかな天板に指先でそっと触れた。
すぐに侍女たちが湯を運び込み、エララは泥と埃にまみれた身体を洗い清めた。
用意された簡素なワンピースは、王都の貴族令嬢が着るような華やかなものではない。
だが、清潔で柔らかく、冷え切った身体には何よりの贅沢に感じられた。
テーブルに並べられたのは、素朴な黒パンと、具沢山の温かいスープ、そして干し肉の燻製。
飾り気はないが、心の底から温まる食事だ。
湯気立つスープの香りが、空っぽの胃に染み渡っていく。
エララは、何日ぶりかもわからないまともな食事を、夢中で口に運んだ。
一口ごとに、強張っていた身体の筋肉がゆっくりと解けていくのを感じる。
それは、飢えを満たすだけでなく、凍えていた魂にまで、温かい血潮を巡らせるようだった。
空になったスープ皿を静かに置いた時、控えめなノックの音が響いた。
「入っても構わないだろうか」
カシアンの声だった。
エララが戸惑いながらも「どうぞ」と答えると、扉が静かに開かれ、彼が姿を現す。
手には、羊皮紙の巻物を一つ持っていた。
「身体は少しは休まったか」
「は、はい……。このようなお心遣い、まことに……恐縮にございます」
エララは立ち上がって礼をしようとしたが、カシアンはそれを手で制した。
「座ったままでいい。君は客人だ」
彼はそう言うと、エララの向かいの椅子に腰を下ろした。
そして、手にしていた羊皮紙をテーブルの上に広げる。
それは、国王の名が記された、エララの追放を正式に命じる通達書だった。
「王都からの知らせには、こう書かれている。『公爵令嬢エララ・フォン・ヘムロックは、その冷淡にして不遜な態度により、王家との婚約を破棄され、辺境フェイラン領へ追放処分とする』……と」
カシアンは淡々とした口調で書面の内容を読み上げた。
それは、エララから全てを奪った、理不尽な宣告の言葉だった。
エララは、黙って俯いたままだった。
何を言っても無駄だ。王都では、誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。
この辺境の地で、見ず知らずの領主が信じてくれるはずもない。
彼女の心には、諦念と絶望の淵が広がっていた。
しかし、カシアンの次の言葉は、エララの予想を完全に裏切るものだった。
「だが、どうにも腑に落ちない」
カシアンは、通達書からエララへと視線を移した。
その黒い瞳は、ただ静かに彼女の本質を探っている。
まるで、目の前の現象の裏にある真理を見抜こうとする学者のように。
「王都の連中が囁く貴女の噂もいくつか耳にした。『陰気で、感情がなく、女らしくない書物ばかりを好む』……。まるで、欠点ばかりを並べ立てたかのようだ」
「…………」
「だが、私の目に映る貴女は違う」
カシアンは、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「確かに口数は少ないのかもしれない」
「だが、その瞳の奥には、そこらの凡百の貴族令嬢には到底及びもつかない、深い思考の色が見える。それは『陰気』なのではなく、『理知的』と呼ぶべきものだ」
――理知的。
その言葉は、エララの心に、静かな波紋を広げた。
王都でその言葉は、常に『だから可愛げがない』『だから女らしくない』『だから王子に捨てられるのだ』という、侮蔑に繋がる枕詞だった。
聡明であることは、彼女の世界では罪とされていたのだ。
なのに、この男は。
この辺境伯は、それをただの事実として、ありのままに評価している。
その言葉は、エララの胸の奥を震わせ、張り詰めていた心の糸を、ゆっくりと解き放つようだった。
「追放された理由を、私に話す必要はない」
カシアンは通達書をくるりと巻き直すと、傍らに置いた。
「王都の論理が、このフェイランで通用すると思うな」
「ここでは、噂や家柄は何の意味もなさない。意味を持つのは、その人間が何を見、何を考え、何を為すか。それだけだ」
彼は立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
外の山々は、すでに深い夜の色に染まっている。
「ここでは、君が君のままでいることを、誰も咎めはしない」
「好きなだけ書物を読み、好きなだけ思考に耽るがいい。君が何者であるかは、君自身の行動で示せばいい」
それは、エララが生まれて初めてかけられた言葉だった。
『ありのままでいい』と。
『あなたの価値は、あなたが決めるのだ』と。
喉の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚がした。
枯れ果てたはずの涙腺が、熱を持つ。
何一つ理解されなかった世界で、ただひたすら抑え込んでいた感情が、今、小さな泉のように湧き上がろうとしていた。
「……ありがとう、ございます。辺境伯様」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
カシアンは振り返らず、ただ窓の外を見つめたまま、小さく頷いた。
「今夜はゆっくり休め。長旅の疲れを癒すことだけを考えろ」
そう言い残し、彼は静かに部屋を退出していった。
一人残されたエララは、しばらくの間、呆然とその場に座り込んでいた。
未知の変数。
フェイラン領に到着した時に感じた予感は、確信に変わりつつあった。
カシアン・ヴァレリウスという男は、彼女がこれまで解いてきた、どの問題にも当てはまらない、全く新しい変数だった。
彼の存在は、エララの世界という方程式そのものを、根底から書き換えてしまう可能性を秘めている。
その夜、エララは久しぶりに深く、穏やかな眠りに落ちた。
それから数日間、エララはカシアンの言葉通り、ただひたすらに身体を休めることに専念した。
侍女のリリアは、最初はどこか警戒した様子だった。
だが、エララが常に物静かで礼儀正しく、決して無理な要求をしないことを知ると、次第に態度を和らげていった。
彼女が淹れてくれるハーブティーは、荒れた神経を優しく鎮めてくれる味がした。
体力が回復してくると、エララの頭脳もまた、本来の働きを取り戻し始める。
部屋の机に向かい、エララは指で空中に図形を描き、思考を巡らせた。
追いはぎに襲われた時の、あの奇妙な感覚。
世界が線と点、ベクトルと座標に変換され、全ての動きが予測可能な数式として立ち現れた、あの瞬間。
あれは、恐怖が見せた幻覚ではなかった。
あれこそが、自分の思考が持つ、本来の力なのではないか。
幾何学も、代数学も、物理学も、この世界を記述するための言語だ。
ならば、その言語を極めれば、世界に直接干渉することも可能になるのではないか。
思考が熱を帯び、エララの灰色の瞳に、探求の光が強く灯り始めていた。
それは、やがて燃え盛る炎となるだろう。
そんなある夜のことだった。
その日は、雲一つない満月だった。
窓から差し込む青白い光が、部屋の中を幻想的に照らしている。
昼間の疲れからか一度は眠りについたものの、高揚した思考がエララを再び覚醒させてしまった。
じっとしていられなくなり、彼女はそっと部屋を抜け出し、館の裏手にある小さな庭へと足を運んだ。
ひんやりとした夜気が肌を撫でる。
見上げれば、王都の空とは比べ物にならないほど無数の星々が、まるで宝石を撒き散らしたかのように、夜空いっぱいに輝いていた。
その一つ一つが、宇宙の広大な法則を語りかけてくるようだった。
エララは、吸い寄せられるように庭の中央へと進み出ると、無意識のうちにしゃがみ込んでいた。
そして、落ちていた小枝を拾い、柔らかな土の上に、線を、描き始めた。
まずは、単純な円。そこから派生する正三角形と正方形。
フィボナッチ数列に基づいた、美しい螺旋。
自己相似性を内包する、複雑なフラクタルの図形。
頭の中にある、世界の法則を記述する美しい数式が、次々と地面の上に可視化されていく。
それは、誰にも理解されなかった、彼女だけの世界。彼女だけの言語。
王都では、部屋の羊皮紙に隠れてこっそりとしか描けなかった、彼女の魂の形そのものだった。
時間を忘れ、エララは夢中で図形を描き続けた。
思考が加速し、世界から自分と地面の図形以外の全てが消えていく。
残るのは、無限に広がる知の探求だけ。
その時だった。
「それは……何か、法則を可視化したものだろうか?」
静かだが、芯のある声が、背後からかけられた。
エララは、びくりと肩を震わせた。心臓が跳ね上がるのを感じる。
我に返り、慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、月光を背負い、静かにこちらを見下ろすカシアン・ヴァレリウスだった。
彼の黒い瞳は、エララが地面に描いた複雑で広大な図形を、驚きでも困惑でもなく、ただ純粋な知的好奇心に満ちた眼差しで見つめていた。
まるで、未知の古代文明が残した碑文を解読しようとする学者のように、その法則性を理解しようとしているかのようだった。
見られた。自分の最も内側にある、誰にも見せてはならないと思っていた世界を。
一瞬、血の気が引くような感覚に襲われる。
しかし、カシアンの視線には、アラリックや王都の人間たちが見せたような侮蔑の色は、ひとかけらもなかった。
それは、ただ、ひたすらに、純粋な探求の光だったのだ。
エララは、言葉を探して、かさついた唇を一度湿らせた。
そして、か細くも、凛とした声で答える。
「……いいえ」
彼女はゆっくりと立ち上がり、カシアンとまっすぐに向き合った。
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