無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 エララの答えに、カシアンは静かに微笑んだ。

 それは、嘲りでも、憐れみでもなかった。

 その笑みは、エララの凍てついた心をじんわりと溶かすような、穏やかな温かみを湛えていた。

「遊び、か。もしこれが君の言う『遊び』なのだとしたら、世の学者たちの探求のほとんどは、子供の砂遊びにも劣るものになるだろうな」

 彼はゆっくりとエララの隣まで歩み寄り、地面に広がる幾何学の宇宙を見下ろした。

 その視線は、エララの思考の軌跡を、敬意を以て辿っているのが見て取れた。

「私には、これがただの図形には見えない。まるで、世界の成り立ちを記述しようとする、複雑で美しい言語のように見える」

「……言語、ですの?」

 思いがけない言葉に、エララは小さく問い返した。

 自分の内なる世界を、誰かに肯定的に語られたのは、初めてのことだった。

 いつも「女らしくない」「気味が悪い」「何の役に立つのか」と、否定され続けてきた思考の断片。

 それが、カシアンの言葉によって、初めて、世界に存在することを許されたかのような、確かな意味を与えられたのだ。

「ああ」

 カシアンは頷いた。

「星の運行、植物の葉脈、雪の結晶……」

「この世界を形作る、あらゆる存在の根源には、揺るぎない摂理がある」

「君の描く線は、その根源にある法則を掴み出そうとしているように見える」

「私には到底理解の及ばない領域だが、その知的な営為の美しさだけはわかる」

 カシアンはエララに向き直った。

 月の光が彼の黒髪を縁取り、その瞳は夜の湖のように深く、静かにエララを映していた。

「エララ嬢。もしよければ、君のその『遊び』を、私よりも深く理解できるかもしれない人物に会ってみないか?」

 彼の提案は、エララの心に小さな波紋を広げた。

 自分を理解してくれるかもしれない、もう一人の人間。

 それは、怖ろしくもあり、同時に抗いがたいほど魅力的な響きを持っていた。

「……どのような、方なのでしょうか」

「名はギデオン。森の奥で気ままな隠遁生活を送っている賢者……」

 カシアンは言葉を切った。

「いや、ただの変わり者の爺さんだ」

 悪戯っぽく口元を緩める。

「王都のしがらみを嫌って、もう二十年も前に宮廷を飛び出してきた変わり者ですよ」

「領民からは『森の偏屈爺』と呼ばれているが、その知識は、紛れもない本物だ」

「おそらく、この王国で最も多くの数式を知る男だろう」

「君となら、きっと良い話し相手になれる」

 エララは、ごくりと唾を飲んだ。

 自分と同じ言語を話すかもしれない人間。

 その存在は、暗闇に閉ざされていたエララの心に、一筋の光を差し込んだように思えた。

「……お会い、してみたいです」

 絞り出すように答えると、カシアンは満足そうに頷いた。

 ◇

 翌日の午後、エララはカシアンに連れられて、フェイランの森の奥深くへと足を踏み入れていた。

 木漏れ日がきらきらと地面に模様を描き、鳥のさえずりが心地よく響く。

 王都の整然とした庭園とは違う、生命力に満ちた空気が、肺の奥まで染みわたるようだった。

 やがて、古びた大樹の根元に寄り添うように建てられた、小さな庵が見えてきた。

 煙突からは細く白い煙が立ち上っている。

 カシアンが庵の扉を叩くと、中からくぐもった声が聞こえた。

「誰じゃ」

「わしは今、世界の真理との対話で忙しい」

「つまらん用事なら出直してこい」

「ギデオン、俺だ。カシアンだ。少し話がある」

「辺境伯様か」

 声の主は、不満げに答える。

「あんたの用事も大概つまらんが……」

「まあ入れ。扉は開いておる」

 ぶっきらぼうな許可を得て、カシアンは扉を開けた。

 エララも彼の後ろに続いて、恐る恐る庵の中へと入る。

 中は、雑然としていた。

 壁一面の本棚には分厚い書物が乱雑に詰め込まれ、床には羊皮紙の巻物や、用途のわからない天球儀のような機械、奇妙な多面体の模型などが所狭しと転がっている。

 しかし、不思議と不潔な印象はなかった。

 ただ、一人の人間の尽きせぬ知的好奇心が、物理的な形となって溢れ出たかのような空間だった。

 部屋の奥、揺れる暖炉の光に照らされて、一人の老人が椅子に腰かけていた。

 年の頃は判然としない。

 白髪と深く刻まれた皺は老人であることを示しているが、その瞳は悪戯好きな子供のように鋭く、爛々と輝いていた。

 彼が、ギデオンなのだろう。

 ギデオンはカシアンを一瞥し、その背後にいるエララに視線を移した。

 値踏みするような、探るような視線が、エララの頭のてっぺんから爪先までをゆっくりと、舐めるように動いた。

「ほう」

 老人は、好奇に満ちた声を漏らした。

「辺境伯様がご婦人を連れてくるとは珍しい」

「して、このお嬢さんが何の用じゃ」

「わしは恋の悩み相談は専門外じゃぞ」

「まさか。私が連れてくる女性に、そんな浮ついた話は似合いませんよ」

 カシアンは苦笑した。

「彼女はエララ嬢」

「王都から訳あって滞在している」

「……ギデオン、君に見てほしいものがあるんだ」

 そう言うと、カシアンはエララを促した。

「エララ嬢、昨夜のように」

 エララは緊張にこわばる指先を一度握りしめ、覚悟を決めた。

 彼女は床に散らばる羊皮紙の合間を縫って、暖炉の前に置かれていた燃えさしの炭を一本手に取った。

 そして、わずかに残された床の空間に、静かに線を引いていく。

 最初は、単純な円と三角形。

 そこから補助線を無数に引き、黄金比を導き出す。

 次に、その比率を元にした螺旋を描き、さらに複雑なフラクタル図形へと展開させていく。

 無心だった。

 頭の中にある数式と法則が、指先を通じて世界に現出していく。

 それはエララにとって、呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。

 からん、と炭が手から滑り落ちた時、エララは自分が息をするのも忘れていたことに気づいた。

 顔を上げると、ギデオンが身を乗り出すようにして、床の図形を凝視していた。

 先ほどの飄々とした態度は消え失せ、その瞳には畏怖と興奮が入り混じり、強烈な光を宿していた。

「……遊び、だと?」

 ギデオンが、かすれた声で呟いた。

 ギデオンの瞳が、床の図形からゆっくりとカシアンへと向けられた。

 その双眸には、深い畏怖と、抑えきれない興奮が入り混じっていた。

「カシアン、お主……まさか、これを本当に『遊び』と、そう、言ったのか!?」

「馬鹿を言え。これは遊びなどという生易しいものではない」

「これは……祈りだ」

「世界の根源に触れようとする、求道者の、祈りそのものではないか!」

 彼はゆっくりと立ち上がると、エララの前に膝をついた。

 その皺だらけの指で、床に描かれた線を、聖遺物に触れるかのようにそっと撫でた。

「この淀みのない線……」

「無駄なき論理の飛翔……」

「お嬢さん、あんた、一体何者だ?」

 ギデオンの真剣な問いかけに、エララは戸惑うばかりだった。

「わたくしは……ただ、これが好きなだけで……」

「好き、か」

 ギデオンは、ふ、と息を吐いた。

「そうだろうな」

「真理というものは、いつだって人を魅了してやまない美しさを持っている」

 ギデオンは立ち上がると、エララの肩を掴んだ。

 その力は、老人のものとは思えないほど強かった。

「お嬢さん、あんたの頭の中にある世界は、ただ紙の上に描いて終わりにするにはあまりにもったいない」

「それは、この現実の世界に、物理的な力として干渉できる『理(ことわり)』そのものなのだ」

 その言葉に、エララははっとした。

 追いはぎに襲われた時の記憶が、鮮やかに蘇る。

 男たちの動きを、重心と力の方向――ベクトルとして認識したこと。

 最小限の動きでその力を受け流し、相手の均衡を崩した、あの動き。

 あれは、偶然ではなかった。

 自分の頭の中にある論理が、無意識のうちに身体を動かし、現実さえも捻じ曲げていたのだ。

 エララの表情の変化を見て取ったギデオンは、にやりと口の端を吊り上げた。

「どうやら、心当たりがあるようじゃな」

「良いか、お嬢さん」

「飛ぶ鳥も、落ちる木の葉も、そして振り下ろされる剣の切っ先でさえも、すべては数式で記述できる」

「未来を予測し、結果を導くことができるのだ」

 ギデオンは部屋の隅に立てかけてあった、一本の古い剣を手に取った。

 それは装飾のない、実用一点張りのロングソードだった。

 しかし、長年使い込まれ、丁寧に手入れされてきたであろう鋼の輝きは、鈍くも力強い光を放っている。

 彼はその剣を、ゆっくりとエララの前に差し出した。

 鞘に収まったままの剣は、ずしりと重い。

 それは、エララが今まで生きてきた世界には存在しなかった、確かな質量を持った『力』の象徴だった。

「お嬢さん、世界は数式でできている」

「人の動きも、星の軌道も、剣の切っ先でさえもな」

 ギデオンの瞳が、熱を帯びた光でエララを射抜く。

「お前の頭の中にある宝を、形にしてみる気はないかね?」

 その問いは、雷鳴のようにエララの心に響き渡った。

 蔑まれ、否定され、追放された理由そのものであった、自分の思考。

 それが、世界と渡り合うための『力』になるかもしれない。

 冷たい方程式の羅列でしかなかったはずの世界に、初めて、確かな熱が灯るのを感じた。

 エララは、差し出された剣を見つめた。

「……はい、喜んで」

 意志を込めて小さく、しかし確かな声で答えた。

 その柄を握れば、もう二度と、か弱く物静かなだけの公爵令嬢には戻れないだろう。

 だが、それでよかった。

 彼女が解くべき方程式は、もう、そこにあったのだから。
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