7 / 20
07
しおりを挟む
カシアンはエララを見据え、静かだが確固たる声で告げた。
「このフェイラン領には、王国一の腕を持つ頑固な鍛冶師がいる。そして、彼の領地でしか採れない、幻の金属も」
エララの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
それは、自身の思考を現実へと具現化するための、まさに「器」そのものだった。
彼女の知性が、この物理世界で真の力を得るための。最後にして最大の鍵。
傾き始めた日の光が、木々の間からこぼれ落ち、地面に美しい幾何学模様を描いていた。
エララは、自身の人生という複雑な方程式に、新たな未知の項が加えられたのを感じていた。
「……参りましょう」
エララは、自分でも驚くほど、はっきりと答えた。その声には、微塵の震えもなかった。
ただ、未知の解を求める探求者だけが持ち得る、静かな熱意が宿っていた。
彼女の返事を聞いたカシアンは、満足そうに頷いた。
「ギデオン殿、我々は一度、領都に戻ります」
「うむ。わしはここで少し考え事だ。お嬢さん、良い『器』が見つかるといいな」
老賢者はにやりと笑った。その瞳の奥に、何か深淵な輝きを宿して。
そして、影が溶けるように森の奥へと再び姿を消した。
カシアンに促され、エララは森の入り口に待たせてあった馬車へと乗り込んだ。
車輪がゆるやかに回り始める。
馬車は森を抜け、陽の光を浴びて輝く田園地帯を横切った。
やがて、舗装された街道へと入る。
木漏れ日が揺れる森の中とは違い、開けた空の下では、午後の日差しがまだ高く、柔らかな光を投げかけていた。
カシアンは、窓の外を眺めるエララに、静かに語りかけた。
「これから向かうのは、ボルグという名の鍛冶師の工房だ。領都のはずれで、頑固一徹に鉄を打ち続けている男だよ」
「ボルグ……」
エララの声に、思わず確認するような響きが混じった。
「ああ。腕は王国でも五指に入ると、私は確信している。だが、気難しい。自分の気に入らない仕事は、たとえ私の命令でも受け付けないだろう。彼を納得させられるかどうかは……君次第だ」
その言葉は、試すようでありながら、その奥にはエララへの絶対的な信頼が滲んでいた。
あなたはできるはずだ、と。
彼の静かな眼差しが、そう語りかけてくる。
王都では、誰も彼女にそんな目を向けたことはなかった。
厳格な父でさえも、決して。
エララは小さく頷いた。窓の外へと視線を移す。
遠ざかる風景が、過去の自分と決別するように流れていった。
日が傾き始め、空が茜色に染まる頃だった。
馬車は領都に差し掛かり、徐々にその喧騒が大きくなっていく。
やがて辿り着いたのは、領都の中でもひときわ騒がしい一角。
耳を劈くような金属音が絶え間なく響き渡り、もうもうと立ち上る黒煙が空を覆い尽くしていた。
汗と鉄が混じり合った、むせ返るような匂いが鼻をつく。
カシアンが案内したのは、その喧騒の中心に位置する、一際大きな工房だった。
開け放たれた入り口からは、炉の赤い光が明滅し、工房の奥に揺れる影を浮き上がらせる。
まるで、巨大な生き物の内臓が脈打つようだった。
「ボルグ! いるか!」
カシアンが声を張り上げた。
すると、工房の奥から熊のような大男が姿を現した。
歳は四十代半ばだろうか。丸太のように太い腕。
煤で汚れた顔には無精髭が生え、長年の酷使で変色した革のエプロンを身に着けている。
その双眸だけが、炉の火を映して鋭く光っていた。
「……辺境伯様。このような場所に、何の御用で」
男――ボルグは、カシアンの姿を認めると、ぶっきらぼうに頭を下げた。
敬意を示す仕草だが、その声には何の抑揚もない。
だが、その視線はすぐにカシアンの後ろに立つエララへと注がれた。
値踏みするような、無遠慮な視線。
貴族の、それも見るからに華奢な令嬢がなぜこんな場所にいるのか。彼の顔にはありありと書かれていた。
「ボルグ、紹介しよう。エララ嬢だ。彼女のために、一本、剣を打ってもらいたい」
カシアンの言葉に、ボルグはあからさまに眉をひそめた。
「剣、ですかい? このお嬢様のために? 冗談でしょう」
彼はエララの細い腕を一瞥し、鼻で笑った。
まるで、子猫に剣を打てと言われたかのような、露骨な嘲りだ。
「壁に飾るための、宝石でもちりばめたおもちゃなら他を当たってくだせえ。俺は実戦で使う『道具』しか打たねえんで」
その態度は、無礼を通り越して侮蔑的ですらあった。
王都であれば、公爵令嬢にこのような口を利いただけで打ち首になってもおかしくないだろう。
しかし、エララの心は不思議なほど凪いでいた。
アラリック王子に投げつけられた「狂人」という言葉に比べれば、この男の態度は、ただの率直な感想に過ぎない。
むしろ、その純粋さに、わずかな心地よさすら感じていた。
カシアンが何か言おうと口を開きかけた。
それを、エララはそっと手で制する。
これは、自分が乗り越えるべき問題だ。彼に頼るべきではない。
彼女はボルグの前に一歩進み出ると、懐から丁寧に折りたたまれた羊皮紙を取り出した。
「お飾りを作るつもりはございません。わたくしが必要としているのは、わたくしの思考を寸分の狂いもなく体現する……精密な測定機器にも似た『器』です」
静かだが、凛とした声だった。その言葉には、一切の臆病さも揺らぎもない。
ボルグは怪訝な顔をしながらも、エララが広げた羊皮紙に目を落とした。
次の瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。
そこに描かれていたのは、単なる剣の絵ではなかった。
刀身の長さ、幅、反りの角度。切っ先から柄頭に至るまでの、重心の完璧な一点。
刃の厚みがミクロン単位でどのように変化していくかを示す断面図。
柄の内部構造。握った際の指の圧力分散までが、無数の線と数字、そして幾何学的な数式によって、狂気的なまでに緻密に記述されていた。
それは、もはや設計図というより、一つの世界の法則を記した論文のようだった。
「……なんだ、こりゃあ」
ボルグの喉から、かすれた声が漏れた。
彼は無意識に羊皮紙を受け取ると、その表面をざらついた指先で、まるで聖なる遺物にでも触れるかのように、そっと撫でた。
彼の眉間に刻まれた皺が、どんどん深くなっていく。
最初は侮蔑の色を浮かべていたその瞳が、徐々に信じられないものを見る驚愕へと変わっていった。
やがて、職人だけが持つ探求の輝きを宿し始めた。
カシアンは、その劇的な変化を黙って見守っている。
「この刃の構造……馬鹿な。こんな薄さで強度を保てるはずが……いや、待て」
「この内部の芯の通し方、力の流れをこうやって逃がすのか……?」
ボルグの口から、専門用語がぶつぶつとこぼれ落ちる。
「柄の重心……切っ先を振った際のモーメントを、この一点で相殺する……? まさか、こんな芸当が……」
設計図に完全に没入したボルグの世界には、羊皮紙に描かれた線の宇宙と、自分自身しか存在しないようだった。
工房の熱気も、槌の音も、傍らに立つ辺境伯の存在すらも、彼の意識から消え去っていた。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、ボルグはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでとは全く異なる、強烈な光を宿している。
彼はエララを、初めて一人の人間として、いや、畏敬すべき何かを見るような目で見つめた。
「……あんた、何者だ?」
問いかけには、もはや侮蔑の色はない。
ただ純粋な好奇心と、わずかな畏れが混じっていた。
「エララ・フォン・ヘムロックと申します」
「公爵家の……そうか、あの追放された……」
ボルグはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
だが、もはやエララの出自など、彼にとっては些末なことだった。
重要なのは、目の前にいるこの令嬢が、前人未到の領域に踏み込んだ、とんでもない思考の持ち主であるという事実だけだ。
「……くっくっく……」
不意に、ボルグの喉から乾いた笑いが漏れた。
それはやがて、腹の底から湧き上がるような、豪快な笑い声へと変わっていく。
「ははははは! 面白い! ああ、面白い! こんな剣、打ったことがねえ!」
「いや、そもそもこんな剣を考えつく人間がいること自体が信じられん!」
彼はエララに向き直ると、その目に挑戦的な光を宿して言った。
「いいだろう、お嬢様。いや……エララ様。このボルグ、生涯最高の仕事をしてやる。ただし、並の鉄じゃあ、この設計図の要求には応えられねえ」
そう言うと、ボルグは工房の奥へとずかずかと歩いていった。
そして、厳重に鍵をかけられた木箱の中から、一つの金属塊を恭しく取り出してくる。
それは、鈍い銀色の輝きを放つ、一見すると変哲もない石ころのような塊だった。
だが、その内側には、まるで星の光を閉じ込めたかのような、計り知れない力が秘められているように見えた。
「フェイラン鋼だ」
ボルグの声には、深い誇りと、まごうことなき愛情がこもっていた。
「この領地の、特定の鉱脈からしか採れねえ幻の金属だ。どんな金属よりも軽く、どんな鋼よりも硬い」
「だが、あまりに気難しくてな。並の鍛冶師じゃ、まともに打つことすらできやしねえ」
彼はそのフェイラン鋼を、まるで愛しい我が子でも見るように、慈しむような目で見つめた。
「こいつを使うに足る図面は、後にも先にも、この世にこれだけだろうよ」
ボルグは燃え盛る炉の前に立つと、深く、深く息を吸い込んだ。
工房の空気が、一瞬にして張り詰める。
彼はその幻の金属を、祈るように両手で掲げた。
そして、真っ赤に燃え盛る炎の中へと、静かにくべた。
ゴウッ、と地を這うような重低音を立てて、炉の炎が一際高く燃え上がる。
エララの思考が、フェイランの魂と出会い、今、現実の世界で形になろうとしていた。
それは、後に「数律剣術」と呼ばれることになる。
静かなる知性のための剣が、今、産声を上げる、最初の瞬間だった。
「このフェイラン領には、王国一の腕を持つ頑固な鍛冶師がいる。そして、彼の領地でしか採れない、幻の金属も」
エララの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
それは、自身の思考を現実へと具現化するための、まさに「器」そのものだった。
彼女の知性が、この物理世界で真の力を得るための。最後にして最大の鍵。
傾き始めた日の光が、木々の間からこぼれ落ち、地面に美しい幾何学模様を描いていた。
エララは、自身の人生という複雑な方程式に、新たな未知の項が加えられたのを感じていた。
「……参りましょう」
エララは、自分でも驚くほど、はっきりと答えた。その声には、微塵の震えもなかった。
ただ、未知の解を求める探求者だけが持ち得る、静かな熱意が宿っていた。
彼女の返事を聞いたカシアンは、満足そうに頷いた。
「ギデオン殿、我々は一度、領都に戻ります」
「うむ。わしはここで少し考え事だ。お嬢さん、良い『器』が見つかるといいな」
老賢者はにやりと笑った。その瞳の奥に、何か深淵な輝きを宿して。
そして、影が溶けるように森の奥へと再び姿を消した。
カシアンに促され、エララは森の入り口に待たせてあった馬車へと乗り込んだ。
車輪がゆるやかに回り始める。
馬車は森を抜け、陽の光を浴びて輝く田園地帯を横切った。
やがて、舗装された街道へと入る。
木漏れ日が揺れる森の中とは違い、開けた空の下では、午後の日差しがまだ高く、柔らかな光を投げかけていた。
カシアンは、窓の外を眺めるエララに、静かに語りかけた。
「これから向かうのは、ボルグという名の鍛冶師の工房だ。領都のはずれで、頑固一徹に鉄を打ち続けている男だよ」
「ボルグ……」
エララの声に、思わず確認するような響きが混じった。
「ああ。腕は王国でも五指に入ると、私は確信している。だが、気難しい。自分の気に入らない仕事は、たとえ私の命令でも受け付けないだろう。彼を納得させられるかどうかは……君次第だ」
その言葉は、試すようでありながら、その奥にはエララへの絶対的な信頼が滲んでいた。
あなたはできるはずだ、と。
彼の静かな眼差しが、そう語りかけてくる。
王都では、誰も彼女にそんな目を向けたことはなかった。
厳格な父でさえも、決して。
エララは小さく頷いた。窓の外へと視線を移す。
遠ざかる風景が、過去の自分と決別するように流れていった。
日が傾き始め、空が茜色に染まる頃だった。
馬車は領都に差し掛かり、徐々にその喧騒が大きくなっていく。
やがて辿り着いたのは、領都の中でもひときわ騒がしい一角。
耳を劈くような金属音が絶え間なく響き渡り、もうもうと立ち上る黒煙が空を覆い尽くしていた。
汗と鉄が混じり合った、むせ返るような匂いが鼻をつく。
カシアンが案内したのは、その喧騒の中心に位置する、一際大きな工房だった。
開け放たれた入り口からは、炉の赤い光が明滅し、工房の奥に揺れる影を浮き上がらせる。
まるで、巨大な生き物の内臓が脈打つようだった。
「ボルグ! いるか!」
カシアンが声を張り上げた。
すると、工房の奥から熊のような大男が姿を現した。
歳は四十代半ばだろうか。丸太のように太い腕。
煤で汚れた顔には無精髭が生え、長年の酷使で変色した革のエプロンを身に着けている。
その双眸だけが、炉の火を映して鋭く光っていた。
「……辺境伯様。このような場所に、何の御用で」
男――ボルグは、カシアンの姿を認めると、ぶっきらぼうに頭を下げた。
敬意を示す仕草だが、その声には何の抑揚もない。
だが、その視線はすぐにカシアンの後ろに立つエララへと注がれた。
値踏みするような、無遠慮な視線。
貴族の、それも見るからに華奢な令嬢がなぜこんな場所にいるのか。彼の顔にはありありと書かれていた。
「ボルグ、紹介しよう。エララ嬢だ。彼女のために、一本、剣を打ってもらいたい」
カシアンの言葉に、ボルグはあからさまに眉をひそめた。
「剣、ですかい? このお嬢様のために? 冗談でしょう」
彼はエララの細い腕を一瞥し、鼻で笑った。
まるで、子猫に剣を打てと言われたかのような、露骨な嘲りだ。
「壁に飾るための、宝石でもちりばめたおもちゃなら他を当たってくだせえ。俺は実戦で使う『道具』しか打たねえんで」
その態度は、無礼を通り越して侮蔑的ですらあった。
王都であれば、公爵令嬢にこのような口を利いただけで打ち首になってもおかしくないだろう。
しかし、エララの心は不思議なほど凪いでいた。
アラリック王子に投げつけられた「狂人」という言葉に比べれば、この男の態度は、ただの率直な感想に過ぎない。
むしろ、その純粋さに、わずかな心地よさすら感じていた。
カシアンが何か言おうと口を開きかけた。
それを、エララはそっと手で制する。
これは、自分が乗り越えるべき問題だ。彼に頼るべきではない。
彼女はボルグの前に一歩進み出ると、懐から丁寧に折りたたまれた羊皮紙を取り出した。
「お飾りを作るつもりはございません。わたくしが必要としているのは、わたくしの思考を寸分の狂いもなく体現する……精密な測定機器にも似た『器』です」
静かだが、凛とした声だった。その言葉には、一切の臆病さも揺らぎもない。
ボルグは怪訝な顔をしながらも、エララが広げた羊皮紙に目を落とした。
次の瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。
そこに描かれていたのは、単なる剣の絵ではなかった。
刀身の長さ、幅、反りの角度。切っ先から柄頭に至るまでの、重心の完璧な一点。
刃の厚みがミクロン単位でどのように変化していくかを示す断面図。
柄の内部構造。握った際の指の圧力分散までが、無数の線と数字、そして幾何学的な数式によって、狂気的なまでに緻密に記述されていた。
それは、もはや設計図というより、一つの世界の法則を記した論文のようだった。
「……なんだ、こりゃあ」
ボルグの喉から、かすれた声が漏れた。
彼は無意識に羊皮紙を受け取ると、その表面をざらついた指先で、まるで聖なる遺物にでも触れるかのように、そっと撫でた。
彼の眉間に刻まれた皺が、どんどん深くなっていく。
最初は侮蔑の色を浮かべていたその瞳が、徐々に信じられないものを見る驚愕へと変わっていった。
やがて、職人だけが持つ探求の輝きを宿し始めた。
カシアンは、その劇的な変化を黙って見守っている。
「この刃の構造……馬鹿な。こんな薄さで強度を保てるはずが……いや、待て」
「この内部の芯の通し方、力の流れをこうやって逃がすのか……?」
ボルグの口から、専門用語がぶつぶつとこぼれ落ちる。
「柄の重心……切っ先を振った際のモーメントを、この一点で相殺する……? まさか、こんな芸当が……」
設計図に完全に没入したボルグの世界には、羊皮紙に描かれた線の宇宙と、自分自身しか存在しないようだった。
工房の熱気も、槌の音も、傍らに立つ辺境伯の存在すらも、彼の意識から消え去っていた。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、ボルグはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでとは全く異なる、強烈な光を宿している。
彼はエララを、初めて一人の人間として、いや、畏敬すべき何かを見るような目で見つめた。
「……あんた、何者だ?」
問いかけには、もはや侮蔑の色はない。
ただ純粋な好奇心と、わずかな畏れが混じっていた。
「エララ・フォン・ヘムロックと申します」
「公爵家の……そうか、あの追放された……」
ボルグはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
だが、もはやエララの出自など、彼にとっては些末なことだった。
重要なのは、目の前にいるこの令嬢が、前人未到の領域に踏み込んだ、とんでもない思考の持ち主であるという事実だけだ。
「……くっくっく……」
不意に、ボルグの喉から乾いた笑いが漏れた。
それはやがて、腹の底から湧き上がるような、豪快な笑い声へと変わっていく。
「ははははは! 面白い! ああ、面白い! こんな剣、打ったことがねえ!」
「いや、そもそもこんな剣を考えつく人間がいること自体が信じられん!」
彼はエララに向き直ると、その目に挑戦的な光を宿して言った。
「いいだろう、お嬢様。いや……エララ様。このボルグ、生涯最高の仕事をしてやる。ただし、並の鉄じゃあ、この設計図の要求には応えられねえ」
そう言うと、ボルグは工房の奥へとずかずかと歩いていった。
そして、厳重に鍵をかけられた木箱の中から、一つの金属塊を恭しく取り出してくる。
それは、鈍い銀色の輝きを放つ、一見すると変哲もない石ころのような塊だった。
だが、その内側には、まるで星の光を閉じ込めたかのような、計り知れない力が秘められているように見えた。
「フェイラン鋼だ」
ボルグの声には、深い誇りと、まごうことなき愛情がこもっていた。
「この領地の、特定の鉱脈からしか採れねえ幻の金属だ。どんな金属よりも軽く、どんな鋼よりも硬い」
「だが、あまりに気難しくてな。並の鍛冶師じゃ、まともに打つことすらできやしねえ」
彼はそのフェイラン鋼を、まるで愛しい我が子でも見るように、慈しむような目で見つめた。
「こいつを使うに足る図面は、後にも先にも、この世にこれだけだろうよ」
ボルグは燃え盛る炉の前に立つと、深く、深く息を吸い込んだ。
工房の空気が、一瞬にして張り詰める。
彼はその幻の金属を、祈るように両手で掲げた。
そして、真っ赤に燃え盛る炎の中へと、静かにくべた。
ゴウッ、と地を這うような重低音を立てて、炉の炎が一際高く燃え上がる。
エララの思考が、フェイランの魂と出会い、今、現実の世界で形になろうとしていた。
それは、後に「数律剣術」と呼ばれることになる。
静かなる知性のための剣が、今、産声を上げる、最初の瞬間だった。
18
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された堅物令嬢ですが、鬼の騎士団長の娘として宮廷の陰謀を暴くのに忙しいので、美貌のカストラート(実は王子)に溺愛される暇はありません
綾森れん
恋愛
「お前のような真面目くさった女はいらない。婚約は破棄させてもらう!」
婚約者だった公爵令息に冷酷に言い放たれたリラ・プリマヴェーラ。
だが、彼女の心にあったのは悲しみではなく―― 十年前の王族暗殺事件を調査したいという情熱だった。
伯爵令嬢であるリラは、鉄の掟を守る『鬼の騎士団長』の娘。
彼女には恋よりも何よりも優先すべき使命があった。それは、十年前に幼い王子が暗殺された事件の真相を暴き、父を、そして王国を陰謀から救うこと。
婚約破棄直後、彼女の前に現れたのは、天使の歌声を持つ美貌のカストラート(去勢歌手)、アルカンジェロだった。
彼が十年前の事件について密かに調べていることを、リラは知ってしまう。
真相を探るため、リラは彼を自分の音楽教師として迎え入れ、距離を縮めていく。
事件解決の協力者として彼と接するうち、リラは謎めいたアルカンジェロに危機を救われることになる。
しかし、リラは知らない。
アルカンジェロの正体が、十年前に暗殺されたはずの第三王子であることを。
そして彼にとってリラこそが、初恋の女性であることを。
彼は十年間、密かにリラを想い続けていたのだ。
王位を狙う者たちから身を隠すため、声楽の技術を駆使して、教会歌手として大聖堂で生き延びてきたアルカンジェロだったが、王家を巡る不穏な陰謀が静かに動き始めていた。
捜査に猪突猛進な堅物令嬢と、彼女を影から支え執着を見せる、カストラート歌手のふりをした王子。
宮廷の闇を切り裂く二人の恋と事件の行方は――?
※本作は、過去に投稿していた『真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています』の設定・キャラクター・構成を大幅に改稿し、新作として再構成したものです。
物語の結末やキャラクターの掘り下げを強化しておりますので、初めての方も、以前お読みいただいた方もお楽しみいただけます。
完 独身貴族を謳歌したい男爵令嬢は、女嫌い公爵さまと結婚する。
水鳥楓椛
恋愛
男爵令嬢オードリー・アイリーンはある日父が負った借金により、大好きな宝石だけでは食べていけなくなってしまった。そんな時、オードリーの前に現れたのは女嫌いと有名な公爵エドワード・アーデルハイトだった。愛する家族を借金苦から逃すため、オードリーは悪魔に嫁ぐ。結婚の先に待ち受けるのは不幸か幸せか。少なくとも、オードリーは自己中心的なエドワードが大嫌いだった………。
イラストは友人のしーなさんに描いていただきました!!
婚約破棄されましたが、辺境で最強の旦那様に溺愛されています
鷹 綾
恋愛
婚約者である王太子ユリウスに、
「完璧すぎて可愛げがない」という理不尽な理由で婚約破棄を告げられた
公爵令嬢アイシス・フローレス。
――しかし本人は、内心大喜びしていた。
「これで、自由な生活ができますわ!」
ところが王都を離れた彼女を待っていたのは、
“冷酷”と噂される辺境伯ライナルトとの 契約結婚 だった。
ところがこの旦那様、噂とは真逆で——
誰より不器用で、誰よりまっすぐ、そして圧倒的に強い男で……?
静かな辺境で始まったふたりの共同生活は、
やがて互いの心を少しずつ近づけていく。
そんな中、王太子が突然辺境へ乱入。
「君こそ私の真実の愛だ!」と勝手な宣言をし、
平民少女エミーラまで巻き込み、事態は大混乱に。
しかしアイシスは毅然と言い放つ。
「殿下、わたくしはもう“あなたの舞台装置”ではございません」
――婚約破棄のざまぁはここからが本番。
王都から逃げる王太子、
彼を裁く新王、
そして辺境で絆を深めるアイシスとライナルト。
契約から始まった関係は、
やがて“本物の夫婦”へと変わっていく――。
婚約破棄から始まる、
辺境スローライフ×最強旦那様の溺愛ラブストーリー!
【完結済】冷血公爵様の家で働くことになりまして~婚約破棄された侯爵令嬢ですが公爵様の侍女として働いています。なぜか溺愛され離してくれません~
北城らんまる
恋愛
**HOTランキング11位入り! ありがとうございます!**
「薄気味悪い魔女め。おまえの悪行をここにて読み上げ、断罪する」
侯爵令嬢であるレティシア・ランドハルスは、ある日、婚約者の男から魔女と断罪され、婚約破棄を言い渡される。父に勘当されたレティシアだったが、それは娘の幸せを考えて、あえてしたことだった。父の手紙に書かれていた住所に向かうと、そこはなんと冷血と知られるルヴォンヒルテ次期公爵のジルクスが一人で住んでいる別荘だった。
「あなたの侍女になります」
「本気か?」
匿ってもらうだけの女になりたくない。
レティシアはルヴォンヒルテ次期公爵の見習い侍女として、第二の人生を歩み始めた。
一方その頃、レティシアを魔女と断罪した元婚約者には、不穏な影が忍び寄っていた。
レティシアが作っていたお守りが、実は元婚約者の身を魔物から守っていたのだ。そんなことも知らない元婚約者には、どんどん不幸なことが起こり始め……。
※ざまぁ要素あり(主人公が何かをするわけではありません)
※設定はゆるふわ。
※3万文字で終わります
※全話投稿済です
追放された令嬢ですが、隣国公爵と白い結婚したら溺愛が止まりませんでした ~元婚約者? 今さら返り咲きは無理ですわ~
ふわふわ
恋愛
婚約破棄――そして追放。
完璧すぎると嘲られ、役立たず呼ばわりされた令嬢エテルナは、
家族にも見放され、王国を追われるように国境へと辿り着く。
そこで彼女を救ったのは、隣国の若き公爵アイオン。
「君を保護する名目が必要だ。干渉しない“白い結婚”をしよう」
契約だけの夫婦のはずだった。
お互いに心を乱さず、ただ穏やかに日々を過ごす――はずだったのに。
静かで優しさを隠した公爵。
無能と決めつけられていたエテルナに眠る、古代聖女の力。
二人の距離は、ゆっくり、けれど確実に近づき始める。
しかしその噂は王国へ戻り、
「エテルナを取り戻せ」という王太子の暴走が始まった。
「彼女はもうこちらの人間だ。二度と渡さない」
契約結婚は終わりを告げ、
守りたい想いはやがて恋に変わる──。
追放令嬢×隣国公爵×白い結婚から溺愛へ。
そして元婚約者ざまぁまで爽快に描く、
“追い出された令嬢が真の幸せを掴む物語”が、いま始まる。
---
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
婚約破棄された侯爵令嬢ですが、帝国の次席秘書官になりました ――王の隣ではなく、判断を誤らせない場所へ
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として王宮に仕える侯爵令嬢ゼクレテァ。
彼女は華やかな場に立つことはなく、ただ静かに、しかし確実に政務と外交を支えていた。
――その役割が、突然奪われるまでは。
公の場で告げられた一方的な婚約破棄。
理由はただひとつ、「愛している相手がいるから」。
ゼクレテァは感情を見せることなく、その決定を受け入れる。
だが彼女が王宮を去った後、王国には小さな歪みが生じ始めた。
些細な行き違い、遅れる判断、噛み合わない政策。
それらはやがて、国家全体を揺るがす事態へと発展していく。
一方、行き場を失ったゼクレテァの前に、思いもよらぬ「選択肢」が差し出される。
求められたのは、身分でも立場でもない。
彼女自身の能力だった。
婚約破棄から始まる、
静かで冷静な逆転劇。
王の隣に立つことを拒んだ令嬢は、
やがて「世界を動かす場所」へと歩み出す――。
-
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる