無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 カシアンはエララを見据え、静かだが確固たる声で告げた。

「このフェイラン領には、王国一の腕を持つ頑固な鍛冶師がいる。そして、彼の領地でしか採れない、幻の金属も」

 エララの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。

 それは、自身の思考を現実へと具現化するための、まさに「器」そのものだった。

 彼女の知性が、この物理世界で真の力を得るための。最後にして最大の鍵。

 傾き始めた日の光が、木々の間からこぼれ落ち、地面に美しい幾何学模様を描いていた。

 エララは、自身の人生という複雑な方程式に、新たな未知の項が加えられたのを感じていた。

「……参りましょう」

 エララは、自分でも驚くほど、はっきりと答えた。その声には、微塵の震えもなかった。

 ただ、未知の解を求める探求者だけが持ち得る、静かな熱意が宿っていた。

 彼女の返事を聞いたカシアンは、満足そうに頷いた。

「ギデオン殿、我々は一度、領都に戻ります」

「うむ。わしはここで少し考え事だ。お嬢さん、良い『器』が見つかるといいな」

 老賢者はにやりと笑った。その瞳の奥に、何か深淵な輝きを宿して。

 そして、影が溶けるように森の奥へと再び姿を消した。

 カシアンに促され、エララは森の入り口に待たせてあった馬車へと乗り込んだ。

 車輪がゆるやかに回り始める。

 馬車は森を抜け、陽の光を浴びて輝く田園地帯を横切った。

 やがて、舗装された街道へと入る。

 木漏れ日が揺れる森の中とは違い、開けた空の下では、午後の日差しがまだ高く、柔らかな光を投げかけていた。

 カシアンは、窓の外を眺めるエララに、静かに語りかけた。

「これから向かうのは、ボルグという名の鍛冶師の工房だ。領都のはずれで、頑固一徹に鉄を打ち続けている男だよ」

「ボルグ……」

 エララの声に、思わず確認するような響きが混じった。

「ああ。腕は王国でも五指に入ると、私は確信している。だが、気難しい。自分の気に入らない仕事は、たとえ私の命令でも受け付けないだろう。彼を納得させられるかどうかは……君次第だ」

 その言葉は、試すようでありながら、その奥にはエララへの絶対的な信頼が滲んでいた。

 あなたはできるはずだ、と。

 彼の静かな眼差しが、そう語りかけてくる。

 王都では、誰も彼女にそんな目を向けたことはなかった。

 厳格な父でさえも、決して。

 エララは小さく頷いた。窓の外へと視線を移す。

 遠ざかる風景が、過去の自分と決別するように流れていった。

 日が傾き始め、空が茜色に染まる頃だった。

 馬車は領都に差し掛かり、徐々にその喧騒が大きくなっていく。

 やがて辿り着いたのは、領都の中でもひときわ騒がしい一角。

 耳を劈くような金属音が絶え間なく響き渡り、もうもうと立ち上る黒煙が空を覆い尽くしていた。

 汗と鉄が混じり合った、むせ返るような匂いが鼻をつく。

 カシアンが案内したのは、その喧騒の中心に位置する、一際大きな工房だった。

 開け放たれた入り口からは、炉の赤い光が明滅し、工房の奥に揺れる影を浮き上がらせる。

 まるで、巨大な生き物の内臓が脈打つようだった。

「ボルグ! いるか!」

 カシアンが声を張り上げた。

 すると、工房の奥から熊のような大男が姿を現した。

 歳は四十代半ばだろうか。丸太のように太い腕。

 煤で汚れた顔には無精髭が生え、長年の酷使で変色した革のエプロンを身に着けている。

 その双眸だけが、炉の火を映して鋭く光っていた。

「……辺境伯様。このような場所に、何の御用で」

 男――ボルグは、カシアンの姿を認めると、ぶっきらぼうに頭を下げた。

 敬意を示す仕草だが、その声には何の抑揚もない。

 だが、その視線はすぐにカシアンの後ろに立つエララへと注がれた。

 値踏みするような、無遠慮な視線。

 貴族の、それも見るからに華奢な令嬢がなぜこんな場所にいるのか。彼の顔にはありありと書かれていた。

「ボルグ、紹介しよう。エララ嬢だ。彼女のために、一本、剣を打ってもらいたい」

 カシアンの言葉に、ボルグはあからさまに眉をひそめた。

「剣、ですかい? このお嬢様のために? 冗談でしょう」

 彼はエララの細い腕を一瞥し、鼻で笑った。

 まるで、子猫に剣を打てと言われたかのような、露骨な嘲りだ。

「壁に飾るための、宝石でもちりばめたおもちゃなら他を当たってくだせえ。俺は実戦で使う『道具』しか打たねえんで」

 その態度は、無礼を通り越して侮蔑的ですらあった。

 王都であれば、公爵令嬢にこのような口を利いただけで打ち首になってもおかしくないだろう。

 しかし、エララの心は不思議なほど凪いでいた。

 アラリック王子に投げつけられた「狂人」という言葉に比べれば、この男の態度は、ただの率直な感想に過ぎない。

 むしろ、その純粋さに、わずかな心地よさすら感じていた。

 カシアンが何か言おうと口を開きかけた。

 それを、エララはそっと手で制する。

 これは、自分が乗り越えるべき問題だ。彼に頼るべきではない。

 彼女はボルグの前に一歩進み出ると、懐から丁寧に折りたたまれた羊皮紙を取り出した。

「お飾りを作るつもりはございません。わたくしが必要としているのは、わたくしの思考を寸分の狂いもなく体現する……精密な測定機器にも似た『器』です」

 静かだが、凛とした声だった。その言葉には、一切の臆病さも揺らぎもない。

 ボルグは怪訝な顔をしながらも、エララが広げた羊皮紙に目を落とした。

 次の瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。

 そこに描かれていたのは、単なる剣の絵ではなかった。

 刀身の長さ、幅、反りの角度。切っ先から柄頭に至るまでの、重心の完璧な一点。

 刃の厚みがミクロン単位でどのように変化していくかを示す断面図。

 柄の内部構造。握った際の指の圧力分散までが、無数の線と数字、そして幾何学的な数式によって、狂気的なまでに緻密に記述されていた。

 それは、もはや設計図というより、一つの世界の法則を記した論文のようだった。

「……なんだ、こりゃあ」

 ボルグの喉から、かすれた声が漏れた。

 彼は無意識に羊皮紙を受け取ると、その表面をざらついた指先で、まるで聖なる遺物にでも触れるかのように、そっと撫でた。

 彼の眉間に刻まれた皺が、どんどん深くなっていく。

 最初は侮蔑の色を浮かべていたその瞳が、徐々に信じられないものを見る驚愕へと変わっていった。

 やがて、職人だけが持つ探求の輝きを宿し始めた。

 カシアンは、その劇的な変化を黙って見守っている。

「この刃の構造……馬鹿な。こんな薄さで強度を保てるはずが……いや、待て」

「この内部の芯の通し方、力の流れをこうやって逃がすのか……?」

 ボルグの口から、専門用語がぶつぶつとこぼれ落ちる。

「柄の重心……切っ先を振った際のモーメントを、この一点で相殺する……? まさか、こんな芸当が……」

 設計図に完全に没入したボルグの世界には、羊皮紙に描かれた線の宇宙と、自分自身しか存在しないようだった。

 工房の熱気も、槌の音も、傍らに立つ辺境伯の存在すらも、彼の意識から消え去っていた。

 長い、長い沈黙が流れた。

 やがて、ボルグはゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、先ほどまでとは全く異なる、強烈な光を宿している。

 彼はエララを、初めて一人の人間として、いや、畏敬すべき何かを見るような目で見つめた。

「……あんた、何者だ?」

 問いかけには、もはや侮蔑の色はない。

 ただ純粋な好奇心と、わずかな畏れが混じっていた。

「エララ・フォン・ヘムロックと申します」

「公爵家の……そうか、あの追放された……」

 ボルグはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。

 だが、もはやエララの出自など、彼にとっては些末なことだった。

 重要なのは、目の前にいるこの令嬢が、前人未到の領域に踏み込んだ、とんでもない思考の持ち主であるという事実だけだ。

「……くっくっく……」

 不意に、ボルグの喉から乾いた笑いが漏れた。

 それはやがて、腹の底から湧き上がるような、豪快な笑い声へと変わっていく。

「ははははは! 面白い! ああ、面白い! こんな剣、打ったことがねえ!」

「いや、そもそもこんな剣を考えつく人間がいること自体が信じられん!」

 彼はエララに向き直ると、その目に挑戦的な光を宿して言った。

「いいだろう、お嬢様。いや……エララ様。このボルグ、生涯最高の仕事をしてやる。ただし、並の鉄じゃあ、この設計図の要求には応えられねえ」

 そう言うと、ボルグは工房の奥へとずかずかと歩いていった。

 そして、厳重に鍵をかけられた木箱の中から、一つの金属塊を恭しく取り出してくる。

 それは、鈍い銀色の輝きを放つ、一見すると変哲もない石ころのような塊だった。

 だが、その内側には、まるで星の光を閉じ込めたかのような、計り知れない力が秘められているように見えた。

「フェイラン鋼だ」

 ボルグの声には、深い誇りと、まごうことなき愛情がこもっていた。

「この領地の、特定の鉱脈からしか採れねえ幻の金属だ。どんな金属よりも軽く、どんな鋼よりも硬い」

「だが、あまりに気難しくてな。並の鍛冶師じゃ、まともに打つことすらできやしねえ」

 彼はそのフェイラン鋼を、まるで愛しい我が子でも見るように、慈しむような目で見つめた。

「こいつを使うに足る図面は、後にも先にも、この世にこれだけだろうよ」

 ボルグは燃え盛る炉の前に立つと、深く、深く息を吸い込んだ。

 工房の空気が、一瞬にして張り詰める。

 彼はその幻の金属を、祈るように両手で掲げた。

 そして、真っ赤に燃え盛る炎の中へと、静かにくべた。

 ゴウッ、と地を這うような重低音を立てて、炉の炎が一際高く燃え上がる。

 エララの思考が、フェイランの魂と出会い、今、現実の世界で形になろうとしていた。

 それは、後に「数律剣術」と呼ばれることになる。

 静かなる知性のための剣が、今、産声を上げる、最初の瞬間だった。
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