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暖炉の火がぱちりと音を立てた。燃え尽きた手紙の最後の欠片は、静かに灰へと変わる。
過去を燃やし尽くした静寂の中で、エララとカシアンはしばらくの間、ただ揺れる炎を見つめていた。
「これで、良かったのです」
エララは振り返らずに言った。その声は、水面のように静かだった。
「過去を記述していた方程式は、解き終えました。残った剰余項に、心を悩ませる必要はもうありませんわ」
一片の後悔もない。過去のしがらみが、彼女から完全に消え去った、確かな証だった。
彼女はゆっくりと振り返る。そして、隣に座るカシアンを見上げた。
その灰色の瞳には、暖炉の炎が力強く映り込み、揺るぎない意志の光を宿していた。
「さあ、カシアン様。王都での証明は終わりました」
エララは唇の端に微かな笑みを浮かべる。
「これからは、このフェイランで解くべき、新しい問題に取り掛かりましょう。この地には、まだ解かれていない、美しい問いがたくさんありますわ。きっと、素晴らしい発見があるはずです」
その言葉に、カシアンは深く、そして優しい笑みを返した。
「ああ、もちろんだ。君の知恵を、この地のために貸してほしい」
彼の眼差しは、エララの内に秘められた輝きを、誰よりも深く理解し、尊敬していた。
ざまぁ、などという言葉は、彼女の辞書にはない。
ただ、世界が本来あるべき姿へと収束していく、必然の理が働いただけのこと。
過去の残滓は燃え尽きた。
彼女の前には、未来という名の、どこまでも広がる白紙の設計図が待っている。
その隣には、彼女の描く線を、世界で最も美しいと信じてくれる人がいる。
それだけで、もう十分だった。
◇
翌朝、エララがカシアンの執務室を訪ねると、彼はすでに山のような書類と格闘していた。
王都での騒動から帰還したばかりだというのに、辺境伯の仕事に休みはないらしい。
「おはようございます、カシアン様。昨夜はよく眠れましたか?」
カシアンは書類から顔を上げた。その目元にわずかな疲れの色は見えるものの、表情は清々しく晴れやかだ。
「ああ、エララ嬢。君のおかげで、ここ数年で一番の寝覚めだったかもしれない」
彼は穏やかに微笑み、その深い眼差しはエララの揺るぎない知性へと向けられた。
「それで……早速で申し訳ないのだが、君が言っていた『新しい問題』に、心当たりはあるだろうか」
彼の言葉に、エララはこくりと頷いた。
「はい。昨日、館に戻る道すがら、いくつか気になる点がありました」
エララは話し出す。
「馬車の車輪が妙に泥濘に取られる場所が……確か、東の小麦畑へ続く道でしたわね」
そう言うと、カシアンが広げていた領地の地図を覗き込んだ。彼の視線は、地図を指し示すエララの細く白い指に、一瞬だけ留まる。
彼女の指が、地図の上を滑り、一点を正確に指し示す。
「この辺りです。地形図を見る限り、小さな丘と小川に挟まれた窪地になっている。雨が降れば、水が溜まるのは必然の理。しかし、問題はそこではありませんわ」
エララは続けた。
「水の流れが淀んでいるのです。おそらく、上流のどこかに非効率な……『流れを阻害する変数』が存在しているはずです」
カシアンは驚きに目を見張った。彼はその問題について、長年頭を悩ませてきたのだ。
雨季になるたびに道はぬかるみ、農作物の運搬に深刻な支障をきたす。何度も土を盛って補修したが、根本的な解決には至らなかった。
「……馬車に揺られながら、そこまで見ていたのか」
カシアンの問いに、エララはこともなげに答える。
「馬車の揺れは、一種の周期関数ですわ。その周期が乱れる場所は、外的な要因……つまり、地面の状態に変化があった証拠。あとは、その変化を引き起こす原因を特定するだけです」
その言葉に、カシアンは感嘆のため息を漏らした。
常人にはただの不快な揺れでしかないものを、彼女は解くべき方程式の始まりとして捉えている。その洞察力は、まさに規格外だった。
「すぐに調査させよう。何か必要なものはあるか?」
「測量用の杭と縄、それから角度を測る簡単な道具があれば。あとは……そうですね、この土地の過去十年分の降雨量の記録があれば、さらに効率的ですわ」
カシアンはすぐさま部下に指示を出し、エララが必要とするものを全て揃えさせた。その手際よさもまた、彼がエララをいかに信頼しているかの証だった。彼の視線には、常にエララへの絶対的な敬意が宿っていた。
数日後、エララはカシアンと数人の作業員と共に、問題の場所を訪れた。
彼女は貴族令嬢のドレスではなく、動きやすい乗馬服に着替え、長い髪を後ろで一つに束ねている。その姿は、まるで現場を指揮する若き学者のようだった。
「やはり、ここの湾曲が問題ですわね」
エララはぬかるんだ川岸に立ち、淀んだ水面を眺めながら呟いた。
彼女は作業員に指示を出し、川の両岸に等間隔で杭を打たせていく。そして、縄を張って角度を測り、手にした羊皮紙に次々と数式と図形を書き込んでいった。
その姿を、作業員たちは戸惑いの表情で遠巻きに見ている。彼らの目には、エララの行動は奇妙な儀式にしか映らなかった。
「おい、あのお嬢様は何をやってるんだ?」
「さあな……。王都から来た美人さんらしいが、こんなことやって、何の役に立つんだか……」
彼らにとって、エララは王都から来た美しいが謎めいた客人であり、先日の剣術大会で王子を打ち負かしたという、にわかには信じがたい噂の主だった。
そんな囁きも意に介さず、エララは計算に没頭していた。
彼女の頭の中では、川の流れは無数の運動エネルギーを持つ粒子の集合体として描かれていた。水の粘性、川底の摩擦係数、地形の勾配……。それら全ての変数を考慮に入れ、流れが最も淀むことなく、効率的に排水されるための最適な流路を導き出していく。
やがて、彼女は顔を上げた。その瞳には、すでに解が宿っていた。
「カシアン様。解が出ましたわ」
エララが示した設計図は、あまりにも単純なものだった。
川の湾曲部に、ほんの数メートルほどの短い水路を一本、まっすぐに掘る。ただそれだけだ。
「これだけで……本当に?」
作業員の棟梁が、疑わしげに眉をひそめた。長年、彼らは川底を深く掘ったり、土嚢を積んだり、あらゆることを試してきたのだ。たったこれだけの工事で解決できるとは、にわかには信じがたかった。
「ええ。問題は水量ではありません。流速です」
エララは説明した。
「この湾曲部で流れのベクトルが分散し、エネルギーを失っているのです。この場所にバイパス水路を設け、主流の一部をショートカットさせることで、全体の流速は維持されます」
彼女は続けた。
「流体力学における、最小作用の原理の応用ですわ」
専門用語を並べられても、棟梁には何のことかさっぱりわからない。理解を超えた言葉に、彼はただ口をあんぐり開けるばかりだった。
しかし、カシアンはエララの灰色の瞳に宿る絶対的な確信を見て、静かに頷いた。彼の目には、疑いの影は微塵もなかった。
「彼女の言う通りに。すぐに工事を始めてくれ」
辺境伯の絶対的な信頼に、棟梁は渋々ながらも頷き、男たちに指示を飛ばした。彼らはまだ半信半疑だったが、辺境伯の命令は絶対だった。
工事は半日もかからずに終わった。
新しい水路に川の水が流れ込み始めると、信じられない光景が広がった。
今までどんよりと淀んでいた川の流れが、目に見えて速さを増していく。そして、ぬかるんでいた周囲の地面から、水が引いていくのがはっきりと分かったのだ。
「お……おお……!」
「すげえ……! 水が、流れていく……!」
作業員たちから、驚嘆の声が上がる。長年、彼らを悩ませてきた問題が、まるで手品のように解決してしまったのだ。
棟梁は呆然とエララの方を見た。その表情には、疑念と困惑、そして畏敬の念が入り混じっていた。
エララはただ、自分の計算結果が正しかったことを確認するように、静かに水面の変化を見つめているだけだった。
「ありがとう、エララ嬢。君は、我々が十年かけても解けなかった問題を、半日で解いてくれた」
カシアンが、心からの感謝を込めて言った。その声には、深い感動が滲んでいた。
「いいえ。問題は常にそこにあり、解もまた、常に存在していました。ただ、誰もそれに気づかなかっただけのことですわ」
その謙虚な言葉に、棟梁はたまらず駆け寄ってきた。
「お嬢様! いや、姫様! あんたはすげえ! 一体どんな魔法を使ったんだ!?」
興奮して詰め寄る棟梁に、エララは少し驚いたように瞬きをした。
「魔法……では、ありません。ただの、計算ですわ」
その答えに、男たちは顔を見合わせ、やがて一人が畏敬の念を込めて呟いた。
「計算だけで、こんなことができるなんて……。まるで賢者様じゃねえか」
その日から、領民たちのエララを見る目は変わった。
王都から来たか弱き令嬢。王子に勝ったという謎多き剣士。そんな曖昧なイメージは消え去り、彼女は領地に恵みをもたらす、非凡な知恵を持つ存在として認識され始めた。
エララの「問題解決」は、治水だけにとどまらなかった。
老朽化した橋の補修では、力学計算に基づいたトラス構造を提案し、最小限の資材で以前の数倍の強度を持つ橋を架けさせた。
風車の羽の角度を微調整し、風を受ける効率を二割以上も向上させた。
鍛冶師のボルグの工房では、炉の熱効率を上げるための空気の流れを設計し、燃料の消費を大幅に抑えることに成功した。
彼女の提案は、常に最小限の労力で、最大の結果を生み出す。それは彼女の剣術、「数律剣術」の根底にある思想と全く同じものだった。
いつしか領民たちは、親しみと尊敬を込めて、彼女をこう呼ぶようになっていた。
「賢姫(けんき)様」と。
自分の知識が、誰かの役に立ち、感謝される。
王都では「女らしくない」「役立たず」と蔑まれた思考の軌跡が、ここでは人々の笑顔を生み出していく。
その事実は、エララの心に、静かで温かい充足感を満たしていった。
彼女は、自分が自分でいることを、初めて心から肯定できるようになったのだ。
そんなある日の午後、カシアンがエララを再び執務室へと招いた。
「エララ嬢、君に見てほしいものがある」
部屋の中央に置かれた大きなテーブルには、フェイラン領全域を示す、巨大な羊皮紙の地図が広げられていた。
それは、エララがこれまで見てきたどの地図よりも精密で、詳細なものだった。
しかし、その上にはまだ、ほとんど何も描かれていない。ただ、いくつかの重要な拠点と、未来の可能性を示す淡い線が引かれているだけだ。
「これは……?」
「フェイラン領の、新しい都市計画の設計図だ。まだ、構想段階に過ぎないが」
カシアンは、地図のそばに立ち、真剣な眼差しでエララを見つめた。
「君のおかげで、領内の小さな問題は、次々と解決に向かっている。だが、私はもっと大きな絵を描きたい」
彼の声に、強い決意と、底知れない情熱が込められる。
「この痩せた辺境の地を、王国で最も豊かで、民が安心して暮らせる場所にしたいんだ」
それは領主としての強い決意と、壮大な夢だった。
カシアンは、一歩だけエララに近づき、その瞳をまっすぐに見つめた。彼の声は、わずかに震えているように聞こえた。
「君の知性は、この地の未来そのものだ。君が描く線は、どんな魔法よりも確かな奇跡を起こす力を持っている」
カシアンは、広大な白紙の設計図を指し示した。その視線は、エララの顔と地図の間を、何度も行き来する。
「だから、頼みがある。私と共に、この設計図を完成させてはくれないか」
彼の声は、これまでになく、穏やかで、しかし確固たる響きを持っていた。
カシアンは、エララの瞳をまっすぐに見据えた。その灰色の瞳には、未来への希望と、エララへの揺るぎない信頼が満ちていた。
「二人で、この地を王国一豊かな場所に変えていかないか」
その言葉は、単なる協力の要請ではなかった。それは、人生を共に歩む伴侶に語りかけるような、何よりも誠実で、深く温かい響きを持っていた。
エララは、目の前に広がる無限の可能性を秘めた白紙の設計図と、カシアンの揺るぎない信頼に満ちた瞳を交互に見つめる。
やがて、彼女の心に、これまで感じたことのない温かい光が灯った。
そして、静かに、しかし力強く、頷いた。
彼女の新しい人生という名の設計図に、最も重要な線が引かれた瞬間だった。
過去を燃やし尽くした静寂の中で、エララとカシアンはしばらくの間、ただ揺れる炎を見つめていた。
「これで、良かったのです」
エララは振り返らずに言った。その声は、水面のように静かだった。
「過去を記述していた方程式は、解き終えました。残った剰余項に、心を悩ませる必要はもうありませんわ」
一片の後悔もない。過去のしがらみが、彼女から完全に消え去った、確かな証だった。
彼女はゆっくりと振り返る。そして、隣に座るカシアンを見上げた。
その灰色の瞳には、暖炉の炎が力強く映り込み、揺るぎない意志の光を宿していた。
「さあ、カシアン様。王都での証明は終わりました」
エララは唇の端に微かな笑みを浮かべる。
「これからは、このフェイランで解くべき、新しい問題に取り掛かりましょう。この地には、まだ解かれていない、美しい問いがたくさんありますわ。きっと、素晴らしい発見があるはずです」
その言葉に、カシアンは深く、そして優しい笑みを返した。
「ああ、もちろんだ。君の知恵を、この地のために貸してほしい」
彼の眼差しは、エララの内に秘められた輝きを、誰よりも深く理解し、尊敬していた。
ざまぁ、などという言葉は、彼女の辞書にはない。
ただ、世界が本来あるべき姿へと収束していく、必然の理が働いただけのこと。
過去の残滓は燃え尽きた。
彼女の前には、未来という名の、どこまでも広がる白紙の設計図が待っている。
その隣には、彼女の描く線を、世界で最も美しいと信じてくれる人がいる。
それだけで、もう十分だった。
◇
翌朝、エララがカシアンの執務室を訪ねると、彼はすでに山のような書類と格闘していた。
王都での騒動から帰還したばかりだというのに、辺境伯の仕事に休みはないらしい。
「おはようございます、カシアン様。昨夜はよく眠れましたか?」
カシアンは書類から顔を上げた。その目元にわずかな疲れの色は見えるものの、表情は清々しく晴れやかだ。
「ああ、エララ嬢。君のおかげで、ここ数年で一番の寝覚めだったかもしれない」
彼は穏やかに微笑み、その深い眼差しはエララの揺るぎない知性へと向けられた。
「それで……早速で申し訳ないのだが、君が言っていた『新しい問題』に、心当たりはあるだろうか」
彼の言葉に、エララはこくりと頷いた。
「はい。昨日、館に戻る道すがら、いくつか気になる点がありました」
エララは話し出す。
「馬車の車輪が妙に泥濘に取られる場所が……確か、東の小麦畑へ続く道でしたわね」
そう言うと、カシアンが広げていた領地の地図を覗き込んだ。彼の視線は、地図を指し示すエララの細く白い指に、一瞬だけ留まる。
彼女の指が、地図の上を滑り、一点を正確に指し示す。
「この辺りです。地形図を見る限り、小さな丘と小川に挟まれた窪地になっている。雨が降れば、水が溜まるのは必然の理。しかし、問題はそこではありませんわ」
エララは続けた。
「水の流れが淀んでいるのです。おそらく、上流のどこかに非効率な……『流れを阻害する変数』が存在しているはずです」
カシアンは驚きに目を見張った。彼はその問題について、長年頭を悩ませてきたのだ。
雨季になるたびに道はぬかるみ、農作物の運搬に深刻な支障をきたす。何度も土を盛って補修したが、根本的な解決には至らなかった。
「……馬車に揺られながら、そこまで見ていたのか」
カシアンの問いに、エララはこともなげに答える。
「馬車の揺れは、一種の周期関数ですわ。その周期が乱れる場所は、外的な要因……つまり、地面の状態に変化があった証拠。あとは、その変化を引き起こす原因を特定するだけです」
その言葉に、カシアンは感嘆のため息を漏らした。
常人にはただの不快な揺れでしかないものを、彼女は解くべき方程式の始まりとして捉えている。その洞察力は、まさに規格外だった。
「すぐに調査させよう。何か必要なものはあるか?」
「測量用の杭と縄、それから角度を測る簡単な道具があれば。あとは……そうですね、この土地の過去十年分の降雨量の記録があれば、さらに効率的ですわ」
カシアンはすぐさま部下に指示を出し、エララが必要とするものを全て揃えさせた。その手際よさもまた、彼がエララをいかに信頼しているかの証だった。彼の視線には、常にエララへの絶対的な敬意が宿っていた。
数日後、エララはカシアンと数人の作業員と共に、問題の場所を訪れた。
彼女は貴族令嬢のドレスではなく、動きやすい乗馬服に着替え、長い髪を後ろで一つに束ねている。その姿は、まるで現場を指揮する若き学者のようだった。
「やはり、ここの湾曲が問題ですわね」
エララはぬかるんだ川岸に立ち、淀んだ水面を眺めながら呟いた。
彼女は作業員に指示を出し、川の両岸に等間隔で杭を打たせていく。そして、縄を張って角度を測り、手にした羊皮紙に次々と数式と図形を書き込んでいった。
その姿を、作業員たちは戸惑いの表情で遠巻きに見ている。彼らの目には、エララの行動は奇妙な儀式にしか映らなかった。
「おい、あのお嬢様は何をやってるんだ?」
「さあな……。王都から来た美人さんらしいが、こんなことやって、何の役に立つんだか……」
彼らにとって、エララは王都から来た美しいが謎めいた客人であり、先日の剣術大会で王子を打ち負かしたという、にわかには信じがたい噂の主だった。
そんな囁きも意に介さず、エララは計算に没頭していた。
彼女の頭の中では、川の流れは無数の運動エネルギーを持つ粒子の集合体として描かれていた。水の粘性、川底の摩擦係数、地形の勾配……。それら全ての変数を考慮に入れ、流れが最も淀むことなく、効率的に排水されるための最適な流路を導き出していく。
やがて、彼女は顔を上げた。その瞳には、すでに解が宿っていた。
「カシアン様。解が出ましたわ」
エララが示した設計図は、あまりにも単純なものだった。
川の湾曲部に、ほんの数メートルほどの短い水路を一本、まっすぐに掘る。ただそれだけだ。
「これだけで……本当に?」
作業員の棟梁が、疑わしげに眉をひそめた。長年、彼らは川底を深く掘ったり、土嚢を積んだり、あらゆることを試してきたのだ。たったこれだけの工事で解決できるとは、にわかには信じがたかった。
「ええ。問題は水量ではありません。流速です」
エララは説明した。
「この湾曲部で流れのベクトルが分散し、エネルギーを失っているのです。この場所にバイパス水路を設け、主流の一部をショートカットさせることで、全体の流速は維持されます」
彼女は続けた。
「流体力学における、最小作用の原理の応用ですわ」
専門用語を並べられても、棟梁には何のことかさっぱりわからない。理解を超えた言葉に、彼はただ口をあんぐり開けるばかりだった。
しかし、カシアンはエララの灰色の瞳に宿る絶対的な確信を見て、静かに頷いた。彼の目には、疑いの影は微塵もなかった。
「彼女の言う通りに。すぐに工事を始めてくれ」
辺境伯の絶対的な信頼に、棟梁は渋々ながらも頷き、男たちに指示を飛ばした。彼らはまだ半信半疑だったが、辺境伯の命令は絶対だった。
工事は半日もかからずに終わった。
新しい水路に川の水が流れ込み始めると、信じられない光景が広がった。
今までどんよりと淀んでいた川の流れが、目に見えて速さを増していく。そして、ぬかるんでいた周囲の地面から、水が引いていくのがはっきりと分かったのだ。
「お……おお……!」
「すげえ……! 水が、流れていく……!」
作業員たちから、驚嘆の声が上がる。長年、彼らを悩ませてきた問題が、まるで手品のように解決してしまったのだ。
棟梁は呆然とエララの方を見た。その表情には、疑念と困惑、そして畏敬の念が入り混じっていた。
エララはただ、自分の計算結果が正しかったことを確認するように、静かに水面の変化を見つめているだけだった。
「ありがとう、エララ嬢。君は、我々が十年かけても解けなかった問題を、半日で解いてくれた」
カシアンが、心からの感謝を込めて言った。その声には、深い感動が滲んでいた。
「いいえ。問題は常にそこにあり、解もまた、常に存在していました。ただ、誰もそれに気づかなかっただけのことですわ」
その謙虚な言葉に、棟梁はたまらず駆け寄ってきた。
「お嬢様! いや、姫様! あんたはすげえ! 一体どんな魔法を使ったんだ!?」
興奮して詰め寄る棟梁に、エララは少し驚いたように瞬きをした。
「魔法……では、ありません。ただの、計算ですわ」
その答えに、男たちは顔を見合わせ、やがて一人が畏敬の念を込めて呟いた。
「計算だけで、こんなことができるなんて……。まるで賢者様じゃねえか」
その日から、領民たちのエララを見る目は変わった。
王都から来たか弱き令嬢。王子に勝ったという謎多き剣士。そんな曖昧なイメージは消え去り、彼女は領地に恵みをもたらす、非凡な知恵を持つ存在として認識され始めた。
エララの「問題解決」は、治水だけにとどまらなかった。
老朽化した橋の補修では、力学計算に基づいたトラス構造を提案し、最小限の資材で以前の数倍の強度を持つ橋を架けさせた。
風車の羽の角度を微調整し、風を受ける効率を二割以上も向上させた。
鍛冶師のボルグの工房では、炉の熱効率を上げるための空気の流れを設計し、燃料の消費を大幅に抑えることに成功した。
彼女の提案は、常に最小限の労力で、最大の結果を生み出す。それは彼女の剣術、「数律剣術」の根底にある思想と全く同じものだった。
いつしか領民たちは、親しみと尊敬を込めて、彼女をこう呼ぶようになっていた。
「賢姫(けんき)様」と。
自分の知識が、誰かの役に立ち、感謝される。
王都では「女らしくない」「役立たず」と蔑まれた思考の軌跡が、ここでは人々の笑顔を生み出していく。
その事実は、エララの心に、静かで温かい充足感を満たしていった。
彼女は、自分が自分でいることを、初めて心から肯定できるようになったのだ。
そんなある日の午後、カシアンがエララを再び執務室へと招いた。
「エララ嬢、君に見てほしいものがある」
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それは、エララがこれまで見てきたどの地図よりも精密で、詳細なものだった。
しかし、その上にはまだ、ほとんど何も描かれていない。ただ、いくつかの重要な拠点と、未来の可能性を示す淡い線が引かれているだけだ。
「これは……?」
「フェイラン領の、新しい都市計画の設計図だ。まだ、構想段階に過ぎないが」
カシアンは、地図のそばに立ち、真剣な眼差しでエララを見つめた。
「君のおかげで、領内の小さな問題は、次々と解決に向かっている。だが、私はもっと大きな絵を描きたい」
彼の声に、強い決意と、底知れない情熱が込められる。
「この痩せた辺境の地を、王国で最も豊かで、民が安心して暮らせる場所にしたいんだ」
それは領主としての強い決意と、壮大な夢だった。
カシアンは、一歩だけエララに近づき、その瞳をまっすぐに見つめた。彼の声は、わずかに震えているように聞こえた。
「君の知性は、この地の未来そのものだ。君が描く線は、どんな魔法よりも確かな奇跡を起こす力を持っている」
カシアンは、広大な白紙の設計図を指し示した。その視線は、エララの顔と地図の間を、何度も行き来する。
「だから、頼みがある。私と共に、この設計図を完成させてはくれないか」
彼の声は、これまでになく、穏やかで、しかし確固たる響きを持っていた。
カシアンは、エララの瞳をまっすぐに見据えた。その灰色の瞳には、未来への希望と、エララへの揺るぎない信頼が満ちていた。
「二人で、この地を王国一豊かな場所に変えていかないか」
その言葉は、単なる協力の要請ではなかった。それは、人生を共に歩む伴侶に語りかけるような、何よりも誠実で、深く温かい響きを持っていた。
エララは、目の前に広がる無限の可能性を秘めた白紙の設計図と、カシアンの揺るぎない信頼に満ちた瞳を交互に見つめる。
やがて、彼女の心に、これまで感じたことのない温かい光が灯った。
そして、静かに、しかし力強く、頷いた。
彼女の新しい人生という名の設計図に、最も重要な線が引かれた瞬間だった。
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「君を保護する名目が必要だ。干渉しない“白い結婚”をしよう」
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お互いに心を乱さず、ただ穏やかに日々を過ごす――はずだったのに。
静かで優しさを隠した公爵。
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二人の距離は、ゆっくり、けれど確実に近づき始める。
しかしその噂は王国へ戻り、
「エテルナを取り戻せ」という王太子の暴走が始まった。
「彼女はもうこちらの人間だ。二度と渡さない」
契約結婚は終わりを告げ、
守りたい想いはやがて恋に変わる──。
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そして元婚約者ざまぁまで爽快に描く、
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