透きとおる泉

小貝川リン子

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第一話:起

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 キィン、とホームランを打つ爽快な音が放課後の校庭に響く。四階隅の図書室で書架整理をしていた一ノ瀬泉は、窓からグラウンドを見下ろした。
 
「すごい活躍だね、透くん」
 
 泉と共に図書委員を務める金谷ユキが言った。
 
「部活、入らないのかな」
「……あいつには、そういうの向いてないだろ」
「そう? どの部活に入っても大活躍間違いなしのに」
 
 泉は本を抱え直し、再び本棚に視線を戻した。
 
「部活やらないなら、委員会に入ってくれたらいいのにね。泉くんが誘ったら、来てくれるんじゃない? 兄弟なんだから」
「……それこそ、絶対にあり得ない。おれがいる限り、あいつは……」
 
 泉がいる限り、透が図書室を訪れることはない。一ノ瀬泉は、血の繋がらない同い年の弟に、嫌われている。
 
 *
 
 出会いは至って単純だった。父のいない泉と、母のいない透。互いの親が再婚したことで、二人は兄弟になった。
 
「今日からここが新しいお家よ。新しいお父さんと、透くん。泉、ご挨拶して」
 
 母に連れられて訪れた、新しい大きな家。泉は人見知りをして、母の背中に隠れた。よく晴れた春の日のことだ。満開の桜と花吹雪が視界を霞ませた。
 
「俺、透。お前は?」
 
 母の後ろでもじもじする泉に、透は屈託なく笑いかけた。
 
「同い年って聞いたけど、誕生日は?」
 
 泉が夏生まれで、透が冬生まれだったことから、自然と兄弟の順番が決まった。
 
「じゃあ、泉が兄ちゃんだ。よろしくな、泉兄ちゃん! 俺の部屋でゲームしよ!」
 
 転校、引っ越し、新しい家、新しい家族。己を取り巻く環境の全てが変わりナーバスになっていた泉の心を、透は一瞬のうちに解かしてみせた。
 最初の数年間、二人は実の兄弟以上に仲の良い兄弟として過ごした。かなり理想的な関係を築けていたと、泉は今でも思っている。
 透のおかげで、泉は新しい学校にすぐ馴染み、友達もたくさんできて、楽しい学校生活を送った。兄弟がいるから家でも退屈せず、広い子供部屋を二人で使い、ゲームをしたり漫画を読んだり、顔を突き合わせて宿題をした。喧嘩だって何度もしたが、その日のうちには仲直りをして、次の日にはまた元通り。
 ある晩、空を見上げて透が言った。
 
「俺さ、今でも時々、母ちゃんが生きてたらよかったのにって思うんだ」
 
 透の母は、透がランドセルを背負った姿を見ることなく亡くなった。泉の父は、泉の誕生を待たずに亡くなった。泉は父の顔を知らず、実の父を恋しいと思う感覚も分からない。透の父親を、本当の父親のように思っている。でも、透は違うのだ。朧気ながらも、実の母の顔や声を覚えていて、それを懐かしみ、愛おしいと思うことができる。
 
「……だったら、おれがお前の母ちゃんになってやる」
 
 泉が言うと、透は目を丸くして吹き出した。
 
「どーいうこと? 泉は俺の兄ちゃんじゃないの?」
「兄ちゃんと母ちゃん兼任だ。お前がこれ以上寂しくないように」
「ふふっ、なにそれ。泉ってば、ホント真面目だよな」
 
 透は一頻り笑った後、涙を拭って微笑んだ。
 
「でもさ、俺、父ちゃんの再婚で兄弟ができるって聞いて、すごく嬉しかったんだ」
 
 透はにっこり笑って泉を見つめる。
 
「泉が俺の兄ちゃんになってくれて、俺、すごく嬉しい」
「……おれも、お前がおれの弟でよかったって思う」
「ありがとな。うちに来てくれて」
 
 二人いつもそばにいて、支え合い、笑い合う。こんな日々が、ずっと続くと思っていた。
 
 *
 
「それじゃ、また明日。次の日曜、絶対空けておいてね」
 
 委員会活動を終え、泉は校門前で金谷と別れた。たまたま同じ委員会に所属しているというだけで、金谷は泉をよく気にかけてくれる。良い友を持ったものだと、泉は純粋に金谷のことを好ましく思っていた。
 その時だ。どん、と肩がぶつかった。思わずよろめいた泉の腕を、体当たりしてきた張本人である透が掴んだ。
 
「悪りぃ。見えなかった」
「……」
 
 今やすっかり偉丈夫に成長した弟を見上げ、泉は透の腕をどかした。
 
「気を付けろよ」
 
 そのまま視線すら交わさずに、泉は足早に駅へと向かった。どうせ同じ家へ帰るというのに、泉は一人。透の周りには、野球部の面々が群がっている。
 
「今のが透の兄ちゃん? あんま似てねーな」
「まぁな。血繋がってないし」
「マジで!? 初耳!」
「学年中で噂の種になってるだろーが。逆になんで知らねーの?」
「うっせ。オレは部活一筋なの!」
 
 脳天気な会話を背中で聞きながら、泉は家路を急いだ。
 
 *
 
 あれは小学五年の夏休み。家族で山へキャンプに行った。泉と透は虫捕りに夢中になり、両親の言い付けを破ってキャンプエリアを離れ、山奥へと入った。泉が大丈夫だと言って、透を連れ出したのだ。
 深い森の奥まで来ると、それだけ多くの昆虫が見つかった。その中でも最も少年の心を惹き付けるのはカブトムシだ。透が高い木の上にカブトムシを見つけて、それを捕まえるために泉は木によじ登った。
 
「捕れた!」
「やった!」
 
 喜びも束の間、足場にしていた枝から足を滑らせて、泉は木から落下した。その時、運悪く、折れた枝の先端が泉の左目に突き刺さった。
 左目から血を流す泉を支えて、透は必死に帰り道を急いだ。しかし、どれだけ歩いても元いた場所に戻れない。いつしか日が暮れて、幼い足ではこれ以上歩けず、二人は寄り添って暖を取りつつ夜を明かした。
 明け方、無事救助隊に保護されて、二人は病院へ搬送されたが、泉の左目は二度と光を見ることはなかった。
 それからというもの、透は泉に対して異様なまでに過保護になった。四六時中べったりと付き纏い、二人で歩く時は泉の左側を確保して、車が来たら車道側へ移動して泉を庇い、烏が鳴けば追い払い、鳩や雀も追い払い、果ては、のんびり屋の猫や首輪のついた犬までをも警戒するようになった。
 泉が眼帯のことでクラスメイトに揶揄われようものなら、透はムキになって怒る。泉が迷子の女の子を交番へ連れていこうとしたのを勘違いされ、その子の母親に犯人扱いされた時も、透は烈火のごとく憤った。その母親と言い争いになり、透の手が出そうになったところで、泉が慌てて止めに入ったのだ。
 二人の距離感を決定付ける事件が起きたのは、中学一年の冬のことだ。その頃、泉には付き合っている彼女がいた。付き合っているといっても、所詮は中学生のまま事のような恋愛だ。放課後わざわざ待ち合わせて一緒に帰ったり、手紙をやり取りしたり、身体的接触といえば手を繋ぐ程度のものだったが、それでも、泉にとっては大切にしたい彼女だった。
 
「ごめん。別れたいの」
 
 冬休みの終わり、突然呼び出されたかと思えば、別れ話を切り出された。
 
「もうムリなの。私が付き合ってるのは泉くんなのに、なんでいつも透くんがくっついてくるの?」
「でも、あいつは弟で……」
「弟だから、何? そういうとこ、ホントおかしいよ。私が書いた手紙、透くんに見せてるでしょ? なんでそんなことするの? 意味分かんない。私のこと好きじゃないの?」
「す、好きだよ、好き……」
「ウソばっかり! どこか遊びに行くのだって、私が誘わないとどこにも行ってくれないじゃん。泉くんからは何も言ってくれないし、やっと遊べたと思ったら、透くんがくっついてくるし! なんでなの? 泉くん、私より透くんの方が大事なんでしょ!」
「そんなこと……」
「そんなことある! 私、知ってるんだから。泉くん、私が告白したからしょうがなく付き合ってくれてるだけなんでしょ? 恋愛とか、正直面倒くさいんでしょ? だからキスもしてくれないし、手繋ぐのだって私からだし、本当は私に興味なんかないんでしょ。好きかどうかもよく分からないくせに、簡単に好きとか言わないでよ!」
「そ、それは……でも、今は……」
「言い訳しないで! 透くんには何でも話せるのに、どうして私にはホントのこと言ってくれないの? 彼女と弟、どっちが大事なの? 透くんと絶交するか、私と別れるか選んでよ!」
「っ、そんなの……」
 
 彼女の言ったことは、おおよそ正しい。泉は彼女にもらった手紙を透に見せていたし、自分の書いた手紙も透に見せていた。透が読みたがるから、軽い気持ちで読んでもらっていた。
 デートに透が同伴していたというのもその通りだ。近所の本屋で買い物するとか、ハンバーガーを食べに行くとか、その程度のデートだったが、透が一緒に行きたいというから、泉は特に悪いこととも思わず了承していた。
 告白されたから試しに付き合ってみたのも本当だ。恋愛とか面倒くさそうだし、好きだの何だのもよく分からないし、女の子のことも全然分からないけど、勇気を出して告白してくれた彼女の気持ちに応えたいから、試しに付き合ってみる。そんな内容のことを、泉は確かに誰かに喋った。
 
「透! お前だろ!」
 
 北風の吹き付ける中、泉は白い息を切らして帰った。開口一番に、透を怒鳴り付ける。炬燵で呑気にアイスを食べていた透は、不思議そうに首を傾げた。
 
「何の話?」
「お前が邪魔したせいで、彼女と別れることになったんだ! デートにまでついてきて、彼女にあることないこと吹き込みやがって! 彼女のこと、好きかどうかまだよく分からないって、確かにおれ言ったけど、だからってなんでそれを直接本人に言うんだよ!」
「邪魔したって……俺別にそんなつもりじゃ……」
「なんでいつもいつもおれの邪魔ばっかするんだよ。友達にイジられるのなんて別に何とも思ってねぇし、誘拐犯に間違われた時だって、あんなのおれ一人でも切り抜けられたし、烏なんか怖くも何ともねぇし、車はそうそう突っ込んでこねぇし、お前に守ってもらわなくたって、おれは一人で歩けるんだよ!」
「俺はただ、泉のことが心配で……」
「言い訳すんな。お前、おれがお前より先に彼女できたのが悔しかったんだろ! 目が悪くて、体が弱くて、運動もてんでダメなおれが、お前の先を行くのが許せなかったんだろ! 大体、中学生にもなって兄弟でベタベタしてんのがおかしかったんだ。おれもお前も、おかしいんだ。気持ち悪りぃことなんだよ! 自覚しろよ!」
「でも、俺……」
「もういい。おれは、お前に守ってもらわなきゃならねぇほど弱い人間じゃない。お前がいなくたって、おれは一人でもやっていけるんだ。もうおれに構うな。ほっといてくれ。いい加減、うんざりなんだよ」
「…………ごめん……」
 
 炬燵の上でアイスは溶けて、二度と元には戻らない。
 この時の喧嘩が元で──厳密には喧嘩とすら呼べない、泉の一方的な八つ当たりに近かったが──ここ二年ほど、泉は透に避けられている。
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