透きとおる泉

小貝川リン子

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第五話:結

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「っ……だからっ! 好きなんだよっ!!」
 
 透の力強い告白は、真っ直ぐに泉の胸を貫いた。しかし、どう応えればいいのか分からずに、泉は家へ逃げ帰った。
 透が泉を好き? そんなこと、あるはずがない。天地が引っくり返ってもあり得ない。絶対に何かの間違いだ。
 だって、男同士だぞ。血は繋がっていなくとも、二人は確かに兄弟で、長いこと家族として暮らしてきた。それに何より、透は泉を恨んでいるはずだ。
 中学一年の冬、初めてできた彼女と別れた腹いせに、泉は透を一方的に責めた。透に悪意があったわけではないことは、よく分かっていたはずなのに。あの時、私か弟か選べと彼女に迫られた時、泉は即答できなかった。だって、透は大切な弟で、天秤にかけるような対象ではなかったから。
 透が泉を守ろうとしてくれていたこと、実際に何度も守ってくれたこと、泉はよく分かっている。そして、透がそうなったのには、キャンプでの遭難事故が関係していることも分かっている。
 あの時のことは、泉は自分に責任があると思っているが、透もまた責任を感じているのだ。透は五体満足で帰還したのに、泉だけが左目を失ったことで、透は罪悪感を抱いているのだろう。泉に対して過保護になったのは、その贖罪のためだ。
 しかし、それももう終わったことだ。中一の冬、泉が感情を爆発させ、酷い言葉で罵って、一方的に突き放したことで、兄としての泉は死んだ。透にとって、泉はもはや守る対象ではなく、ましてや尊敬の対象でもなくなっただろう。
 だが、これでいい。これが正しい在り方なのだ。弟に要らぬ罪悪感を抱かせ、守られてばかりいる兄なんて、価値がない。だから、これでいいのだ。兄弟なんて、いずれは離れゆく運命なのだから。
 でも、だけど、一縷の望みを抱いてもいいのだろうか。いや、許されることではない。だけど、もしかしたら。そんなこと、あるはずないのに。それでも、いや、だからってまさか、そんなわけが……
 コンコン、と誰かが部屋のドアをノックする。泉が答える前に、ドアが開いた。
 
「透……」
「……」
 
 透は思い詰めた表情でドアを閉め、鍵を掛けた。
 
「透……?」
「……その……ごめん、さっきの……」
 
 透の言葉に、胸がズキリと痛む。まるで針に刺されたようだ。それを悟られたくなくて、泉は透に背を向けた。
 
「いいんだ。分かってる」
 
 あれは何かの間違いだ。何かしらの気の迷いだ。あるいは、泉の願望が生み出した幻聴だったかもしれない。いずれにしても、儚い希望など抱くものではない。呆気なく打ち砕かれるのが常なのだから。
 
「心配しなくても、全部、ちゃんと分かってるから……」
「泉……」
「だから、もう、いいだろ。向こう行けよ」
「泉……!」
「何だよ。これ以上おれにどうしろって──」
 
 振り向きざまに顔を上げた。その途端、視界が反転する。一瞬天井が映ったかと思えば、それを遮るようにして透が覆い被さってくる。ベッドに押し倒されたのだと、泉は時間差で理解したが、突然のことに戸惑いを隠せず、目を瞬かせるばかりだ。
 
「全ッ然分かってない!」
「と、透……?」
「泉は全然分かってない!」
 
 自棄を起こしたように、透は声を荒げる。
 
「好きっつったら好きなの! それ以外の何でもねぇから! なんで変な解釈すんだよ? 泉のことが好きだっつってんの!」
「っ、でも、お前……」
「でももだってもねぇよ! こんなの、ホントは言うつもりなかったのに、でももう、こうなったからには言ってやる。俺はお前が好き。そんだけ。急にこんなこと言って困らせてごめんって、言いたかっただけなのに。でも好き。お前が。泉だけが好きだから……!」
「っ……」
 
 興奮からか、透の顔が紅潮している。目元が僅かに赤くなって、瞳が潤んでいる。ひた隠しにしていた気持ちが溢れ出す。
 
「女と付き合ってたのは、お前のこと忘れたかったからだ。でも無理だった! 誰も泉には敵わなかった。泉よりも好きになれそうな相手なんて、どこにも見つけられなかった。金谷ユキと付き合ったのは、あの子がお前に気があったからだ。誰にもお前を取られたくなかった。俺のものにならないなら、誰のものにもなってほしくなかった!」
「透……」
 
 なんて酷い男だ。独占欲のために、無関係の女を巻き込むなんて。しかも、彼女が泉に気があることも知っていて。最低な男だ。本当に、最低。
 それなのに、どうしてだろう。泉は、心のどこかでほっとしていた。それどころか、寒々としていた心が満たされていく。こんな風に感じるのは良くないことだと分かっているのに、溢れる気持ちを抑え切れない。
 泉は透に手を伸ばす。透の首に手を回す。透は泉を抱きしめる。二人の体が密着する。
 
「泉……」
「ああ……」
 
 この行為は、過ちだろうか。ゆっくりと、二人の唇が重なった。
 
「んっ…………」
 
 泉はぎゅっと目を瞑る。緊張して唇も固くなる。透の唇が確かに触れていることを感じて、腰の辺りがぞくぞくした。
 
「んん…………」
 
 まるで、時の流れが止まったようだった。それでいて、唇の感覚だけは鋭敏で、透の唇のカサつきや、僅かに湿った感触や、擦れて引っ張られるような感覚を、全て敏感に拾い上げる。
 
「ん、っ…………」
 
 しかし、いつまでこうしていればいいのだろう。そろそろ息も限界だ。泉が訴えようとした時、唇が離れた。泉は大きく息をする。そんな泉を見て、透は笑った。
 
「顔真っ赤。別に息止めなくてもいいんだぜ」
「っ、わかっ、てる……」
 
 泉は唇をなぞって俯いた。キスの味を噛みしめる。これがキスか。初めてのキスを弟としてしまった。胸がぽかぽか暖かくて、幸せな喜びに満ち溢れて、舞い上がりそう。こんなのって初めてだ。これがキスなのか。
 
「なぁ、泉」
「ん……」
「もっかい、いい?」
「……?」
 
 その言葉の意味を泉が理解するより早く、再び唇が重なった。
 どうしよう。やっぱり緊張してしまう。キス程度でガチガチに緊張しているなんてみっともないとも思うけれど、唇が触れる位置に透の顔があるのだと思うと、それだけで息をすることさえできなくて、胸が苦しいのに嬉しくて、おかしくなりそうだ。
 
「ね、舌入れていい?」
「っ……?」
 
 泉は自分の耳を疑った。舌を入れる? 透は今そう言ったのか。そんなことをしてもいいのか。キスというのは唇と唇を合わせることではないのか。まさかこの先があったなんて。でも、これ以上深く交わってしまったら、頭が沸騰してしまいそうだ。
 
「っ……!」
 
 何か柔らかく湿ったものが、泉の唇をなぞる。それが透の舌だと理解して、ますます頭が茹だっていく。
 
「っ……んっ……!?」
 
 固く閉じた唇をノックして、舌が入り込んでくる。これが、透の舌。とにかく熱い。ふわふわと柔らかいのに、明確な意志を持って自由に動き、泉の口内を順番になぞっていく。
 
「んん……っ!」
 
 いつの間にか、両手をベッドに押さえ付けられていた。透の舌先は喉の手前まで入り込み、泉の口内を埋め尽くす。滴る唾液は透そのもの。鼻に抜ける香りも、頭に響く水音も、全てが透そのものだ。キスに溺れる。目が回る。
 
「もっ……やめ……!」
 
 泉が身を捩ると、唇は簡単に離れた。
 
「悪い……」
 
 透が心配そうな顔で覗き込んでくる。泉は濡れた唇を拭った。自分は今どんな表情をしているのだろう。きっと情けない顔を晒しているに違いない。透に見られたくなくて、泉は俯き加減に視線を逸らした。
 
「いい。ただちょっと……息ができなくて……」
「泉……」
「……」
 
 刺さるような透の視線を肌で感じる。視線の集中している頬と耳が特に熱い。きっと目で見て分かるくらい赤くなっているだろう。そう思うと余計に恥ずかしく、居た堪れない気持ちになってくる。どうにかこの状況から抜け出そうと、泉は僅かに身を捩った。
 その時だ。太腿に硬いものが当たった。透が息を呑む。泉もまた、驚いて息を呑んだ。
 
「……これって……」
 
 泉は恐る恐る手を伸ばし、そっと指先を触れた。想像通り、硬くて太い、棒状のものだ。ズボンを窮屈そうに押し上げている。
 
「これって……」
「ちょっ、そんな触んないで……」
「だって、お前、これ……」
「しょうがねぇだろ! 好きなんだから……!」
「っ……」
「待って。今がんばって萎えさせるから」
「……」
 
 透は瞑想するように目を閉じた。しかし、そんなことで収まるなら苦労はない。瞑想などをする前に、ベッドの上で抱き合うというこの体勢こそどうにかするべきなのだが、透はそこまで気が回らないらしかった。
 泉は、透のズボンのウエストに手をかける。そして、こっそりと手を滑り込ませた。透は驚いて腰を引く。
 
「ちょっ、泉!?」
「いいから……」
 
 慎重に下生えを掻き分けて、恐る恐る指を這わせる。直に触れたそれは、想像以上に硬く張り詰めていた。濡れているのに、握りしめると温かくて、変な感じだ。
 
「泉ぃ……」
 
 透は情けない声を漏らす。
 
「やばいって、こんな……」
「……いいのか?」
 
 泉が言うと、透は強く頷いた。
 
「けどっ、やばい……泉の手、よすぎる……っ」
「っ……どうしたら、もっと気持ちいい?」
「もっと……? うう……先っぽ、とか……」
「先っぽ……」
 
 熱を持った先端を、掌で包むようにして撫でる。透は微かに呻き声を漏らし、耐えるように眉を寄せた。
 
「やばっ、もう……っ、気持ちいい、泉……!」
 
 切羽詰まった声で囁かれ、泉は唾を飲み込んだ。キスだけでここをこんなに腫らして、泉の手でこんなにも乱れて、真っ赤な顔で素直に快感を訴えてくる弟が、愛おしくて仕方がない。透に触れているだけなのに、泉の体も火照ってくる。体の奥の芯の部分が疼いている。
 
「も、やば……出ちまうって……!」
「っ……」
「なぁ、泉、もうっ……!」
 
 もう我慢できないとばかりに、透は腰を前後に動かした。泉の掌に、熱く滾った切っ先を、一度、二度、三度と、擦り付けて果てた。
 
「はぁっ……、はっ、はぁ……っ」
 
 透は、ぶるりと身を震わせた。乱れた呼吸を整えるように、大きく息を吸っては吐く。掌に放たれたものの熱さに、泉もまた身震いをした。
 
「ごめっ……手、汚しちまった」
「……ああ……」
 
 手が汚れたことなんて、どうでもいい。頭がぼーっとして、今は何も考えられない。胸の鼓動ばかりが、ドキドキとうるさかった。
 
「とりあえず、これで手拭いて」
 
 透は泉の手をティッシュで拭いてくれる。放たれたものが拭い去られても、掌に残った温もりは消えなくて、泉はなぜだか安堵した。
 
「泉? 大丈夫か?」
「ん……ああ……」
「泉……」
 
 ふと、透は視線を下へと滑らせた。そして、何か合点が行ったような顔をすると、泉のズボンに手をかけて、下着諸共引きずり下ろす。泉はぎょっとして脚を閉じるが、後の祭りだ。
 
「ばかっ、何して……!」
「だってほら、泉も勃ってるし」
「は……?」
 
 泉は全くの無自覚だったが、蛍光灯に照らされて所在なさげに震えているそれは、真っ直ぐに天井を指していた。
 炎に巻かれたように、全身がかっと熱を持った。体が熱い。顔が熱い。頭も熱い。泉は必死に服を手繰り寄せようとするが、ことごとく透に阻止されてしまう。
 
「やめ、はなせって」
「なんでだよ。泉だって俺のしてくれたじゃん。今度は俺がしてやるから」
「いいっ、しなくていいからっ」
「でもさ、俺も泉の気持ちよくなってるとこ見たいし。俺に見せてよ、泉」
「やっ……んんんっ……!」
 
 泉が透にしたように、透も泉のそこを掌に包むようにして扱いた。それだけで腰が抜けるほど気持ちいいのに、透はさらに、濡れた先端に唇を寄せる。玉のように溢れる透明の液体をチュッと吸われて、泉はビクビクと肢体を跳ねた。
 
「ばかっ、んなとこ、なめんな……! きたないだろ……っ」
「大丈夫だろ。風呂入ったし」
「そういう問題じゃ……」
「それに、口でされんのってすげぇ気持ちいいらしいし? 経験してみたくない?」
「口で……?」
「うそだろ、知らねぇ? 奇跡だな」
「なに、言って……透……?」
「まぁまぁまぁ、大丈夫だから。俺に任せて。リラックスして」
 
 透は、泉を安心させるようなことを言いつつ、妖しく舌舐めずりをした。そして、あろうことか、口内へとそれを招き入れたのだ。
 
「っっ!??」
 
 驚いたなんてものではない。いや、先端にキスをされた時点で怪しいとは思っていたが、まさか食べられてしまうなんて。泉は透を引き剥がそうと、その髪に指を絡めて引っ張ったが、透は楽しそうに目を細めるばかりだ。
 
「大丈夫大丈夫。気持ちいいだけだから。ほら、こことか」
 
 透は、泉に見せつけるように口を開いて、濡れた先端に舌を這わせた。泉の視界に星が飛び交う。
 
「やっっ……あぁっ……!!」
 
 なんだ、これ。なんだこれは。舌を入れるキスの比ではない。熱く濡れた舌が右へ左へと動く度、柔らかな粘膜に包まれて擦られる度、鋭い電撃が脳天を貫く。体の中心から手足の先までびりびり痺れる。腰が勝手にガクガク震える。
 
「ああっ、あっ! だめ、だめっ……!!」
 
 泉が自分でも聞いたことのない、上擦った甘ったるい声が勝手に漏れる。透に聞かれたくなくて必死に噛み殺そうとするが、それでも、口の端から勝手に零れてしまう。どうにかしたくて口を覆おうとすると、またもや透に阻止された。
 
「もっと声聞かせてよ」
「やっ……ぅぅ、いやだ……!」
「なんで。かわいいし。好きだよ、俺は」
「っっ……!!」
 
 嫌なのに。みっともない姿も声も、透には知られたくないのに。好きだなんて言われたら、変に舞い上がってしまう。
 
「ほら、泉。イッていいんだぜ」
「うっ、んんッ……!」
 
 そう言われても、人前でイクなんて無理だ。できない。既にあられもない姿を晒しているというのに、これ以上恥ずかしい目に遭うなんて。透に見られていると思うと緊張して、とても普段通りになんてできない。
 
「ね、泉。大丈夫だって」
 
 泉は涙を散らしてかぶりを振る。透に絡め取られた手を握りしめて爪を立てる。
 
「だめっ、も……おかしく、なるっ……!」
「いいんだって。おかしくなれよ」
「やッ──あぁあッ……!!」
 
 淫らな水音を立てて吸い付かれる。透の唾液か、泉自身が濡らしているのか、腰から下がどろどろに溶けて、消えてなくなってしまいそうな感覚に陥る。
 何でもいいから何かに縋り付いていたくて、そうしていないと宇宙の果てまで弾け飛んでしまうような気さえして、泉は夢中で透にしがみついた。太腿を擦り合わせて透の顔を挟み込み、その髪に指を絡めて握りしめても、欲深く震える腰の動きを抑えることができない。
 
「だめっ、もう……っ、いくッ────っっ!!」
 
 視界が真っ白に弾け飛んだ。体がふわりと浮き上がるような感覚。これが無重力ってやつなのか。何もかもが朧気に霞んでいく中、はっきりと分かるのは透の体温だけ。あいつの手も、指も、口の中も、こんなに熱かったなんて。ずっと一緒に育ってきたのに、全然知らなかった。
 遠のく意識の中、透の声が聞こえて、泉ははっと目を醒ました。ここは、温かいベッドの上だ。宇宙の果てから帰ってきた。すぐ目の前に透の顔が見えて、嬉しくて笑ってしまった。
 
「泉……」
「うん……」
 
 泉はうっとりと目を瞑る。このまま、砂浜で波に揺蕩うように、甘い快楽の余韻に浸って眠りたい。
 ふと、目元に影が落ち、泉は再び目を開けた。至近距離で透と目が合い、キスの予感に唇を尖らせる。
 その予感は当たらずも遠からず。泉の想像以上の刺激が、達したばかりで敏感になっている体を襲う。透が馬乗りになって、いきり立つそれを泉のそこへ擦り付けてきたのだ。
 
「ひッッ……!? やめっ、なにかんがえてっ──!!」
「ごめ、すぐ終わらすから……!」
「やッ、もうむりっ! むりだって──!!」
 
 泉は掠れた悲鳴を上げて、大きく腰を仰け反った。ビクッ、ビクンと痙攣し、白く薄まった精液を散らす。と同時に、透も小さく喉を鳴らし、泉の腹へと精液を飛ばした。
 全力疾走直後のように、二人とも激しく胸を喘がせる。泉はぐったりと布団に沈み、その上へ覆い被さるように、透もぐったりと倒れ込んだ。二人分の精液が擦れて、粘着いた音を立てた。
 
「……ばか……」
「……言葉もないです……」
「お前、おれは、こんなの……」
「初めてだった?」
「っ……なのに、いきなりこんなの……!」
「泉の初めてになれて、俺嬉しいよ」
「ばか……」
 
 透はふと体を起こし、泉の頬を両手で包んだ。今度こそ予感は当たり、優しく唇を奪われる。泉も目を瞑ってキスを受け入れた。
 最初にしたものよりも、さらに深く濃厚なキスだ。透が舌を吸ってくるので、少し余裕の出てきた泉も負けじと舌を絡め、透の口内を探検する。
 仄かな甘酸っぱさを感じた。甘くて、酸っぱくて、優しい風味。懐かしい。泉はこの味を知っている。ずっと以前から知っている。
 あれは、そうだ。キャンプでの遭難事故の時。後で食べようと思って取っておいたキャンディを、透と一緒に分け合って舐めた。あの時と同じ味がする。
 あの時、泉はファーストキスを経験したのだ。もちろん透も同じだ。いちごミルクキャンディのキスが、二人にとってのファーストキスだった。あのキスが、結果的に二人を生かした。
 すっかり忘れていた。いや、忌まわしい記憶を消し去りたくて、意識的に忘れようとしていたのかもしれない。
 空腹に喘ぎ、一粒の飴に大喜びし、暗闇に怯え、満天の星に大はしゃぎし、血を流す泉を前に泣きじゃくり、病室でずっと手を握ってくれていた透の姿が、今鮮明に思い出せる。こんなにも大切な記憶を、どうして忘れていられたのだろう。
 
「泉……泣いてる?」
「……泣いてねぇよ」
「えっ、うそ、ごめん。やっぱやりすぎたよな、俺。泣くほど嫌だった?」
「だから、泣いてねぇって、言って……」
 
 透はおろおろしながら、泉の涙を指先で拭う。眼帯と耳の間に指を入れて、そっと眼帯を外される。瞼を切り裂く生々しい傷痕に怯みもせずに、透は涙を拭いてくれる。
 
「痛い?」
 
 泉は首を振ることで答える。左目はもう見えないし、瞼が引き攣れてうまく開かない。でも、最後に、あの騒がしい日差しの中で、虫を捕って喜ぶ透の姿が見られたから。血に染まりゆく視界に、透の涙を収めることができたから。だから、悔いはない。
 
「おれも、ずっと、お前のことが……」
「……うん」
「情けねぇ面を見せたくなかったんだ。おれはお前の兄貴で……母ちゃんになるって約束したのに……」
「泉はちゃんと俺の兄ちゃんだったろ」
「おれはお前に、事故のことを思い出してほしくなかった。おれがどれだけ弱い人間か、お前に全部、知られちまうような気がして……」
 
 兄として正しいことを為せない己を知られてしまうのが怖かった。だから家でも眼帯を外さず、素顔で過ごすのは浴室か自室だけだった。透に直視されるのが怖かった。
 
「……泉は、強いよ」
 
 透はおもむろに口を開く。
 
「強いし、優しい。ずっとそうだろ? 俺が一番よく知ってる。あの時だって、泉も腹減ってたはずなのに、一つしかない飴を俺に譲ってくれて、俺が心細くて泣いてたら、星の話をしてくれただろ。あんなに酷い怪我して、痛くなかったわけないのに、泉の方こそ泣きたかったはずなのに、俺が怖がると思って我慢して、俺を元気付けることばっか考えてたんだろ」
「……そんなに大したことじゃねぇ。おれはお前の兄貴だし……」
「そういうとこが、強くて優しいっつってんの。だから俺もそんな風になりたいって思って……まぁ、あんまうまく行かなかったけどな。泉のこと怒らせてばっかで」
「そんなことは……おれだって、お前に色々助けられて……」
「そうなの?」
「……ああ。悔しいけど」
「なんで悔しいんだよ」
「だって、おれが兄貴なのに……」
「そういうとこ、泉の悪い癖だと思うな。無理して全部一人で抱え込もうとしてさ。俺達、兄弟だけど同い年だし、もっと俺を頼ってくれてもいいんじゃねぇの? 俺だって、泉の力になりたいって、いつも思ってるんだから」
「別に無理してるわけじゃ」
「だとしてもよ。俺がこんな風に思うようになったの、泉に憧れたからなんだからな。責任取れよ」
「……」
 
 すれ違っていたのは、互いに遠慮があったからなのか。誤解に誤解を重ね、責任感や罪悪感ばかりを抱え込んで、立場や信念のために雁字搦めになって、動けなくなっていただけなのか。泉もそうだし、透もきっとそうだった。
 
「お前、おれが他の誰かのものになるのは許せねぇっつったけど、」
 
 泉は、透の首に手を回して抱き寄せた。こつん、と額がぶつかる。
 
「おれだって、お前が知らねぇ女とベタベタしてんのを見る度、同じこと思ってたよ」
「……もうしねぇよ」
「浮気したら許さねぇから」
 
 透の唇に軽く触れた。初めて自分からキスをした。
 
「言われなくても」
 
 透は泉の左瞼にキスを落とす。くすぐったさに、泉は笑みを零した。涙はもう止まっていた。
 
 *
 
 今年もまた春を迎える。透と出会って何度目の春になるだろう。一年前よりも少しくたびれた制服に身を包み、泉は玄関を開ける。
 
「いってきます」
 
 麗らかな春の日差し。満開の桜と花吹雪。泉は思わず目を細める。
 
「待てよ泉! 俺も行くから!」
 
 ドタバタと廊下を駆ける音がする。透が転びそうになりながらスニーカーを突っかけた。
 
「待っててやるから、ちゃんと履け」
「やべっ、弁当」
「早く取ってこい」
 
 騒々しい朝だ。「いってきます」と声を揃え、二人は揃って家を出る。
 
 
 
 ──完──
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