また、猫になれたなら

秋長 豊

文字の大きさ
8 / 60

7、親指の約束

しおりを挟む
「例えどんな物を差し出されようと、その子の代わりにはなりません。ですが、あなたの大切なものを信頼の担保として受け取ります」

 母と流太は目を合わせた。この沈黙が数分続いた後、流太が先に視線をそらした。彼はなぜか台所に歩いていくと包丁を取り出した。今度は庭に向かう彼の袖を、空雄は引っ張った。「待ってください!」

 流太は立ち止まり、わずかに視線を向けただけで、あとは振り返らず外に出た。流太は家の屋根に飛び乗ると、懐からひもを取り出し口に詰め込んだ。

「母さん!」流太は言った。「早く止めないと! あの人、また自分を切るつもりだ!」

 空雄は急いで部屋に戻り階段を駆け上がった。流太がいた屋根の上に一番近いのは妹の部屋。空雄はベッドの上で眠る小春の横を駆け抜け窓を開け放った。

「やめろ!」
 叫んだ。

 制止の声はむなしく夜の静寂に響き、真っすぐ振り下ろされた包丁が流太の左手にある親指を切り落とした。屋根の上に転がる小さな親指と、滴り落ちる血。わずかに照らされた彼の横顔は、痛みをこらえていた。空雄は屋根の上に飛び出すと流太の胸倉をつかんでいた。

「なんで切った」

 その声で起きたのか、様子を見に来た両親の隣には、状況の理解がさっぱり追いついていない小春の姿があった。流太はボトリと口からひもを落とした。

「なんで!」

 鬼のような形相で迫る空雄に流太は目を見開いたまま静止した。誰もが、空雄の怒り狂った声に動くのをやめていた。

「……母さんは信頼を預けると言った。あんたが預けようとしたのは何だ? 何を! 預けようとした!」

 小さく下を向き、流太はこんな状況にもかかわらず笑んだ。人をあざ笑うような態度が癪に触り、空雄はさらに顔を近づけた。「親指と、自分の苦しみか」

「俺たちは、24時間後には再生する。刺しても、切っても、ちぎってもだ。体の一部。それが俺の誠意だ」

「ふざけるな!」
 空雄は声を荒げた。

「再生するからって、簡単に自分を傷つけていいのか」
 どんどん声に力が入らなくなっていく。どうしてこんなに胸が苦しい。初めて会った、生い立ちなんてまるで知らない青年に対して。空雄はずるずると力なく膝をついた。流太は最初「分からない」と言いたげな顔をしていた。空雄が流太の行動に理解できないのと同じで、彼もまた、空雄が激怒する理由が分からないのだ。だが、自分のことのように苦しむ空雄を見ているうちに、流太は目から徐々に驚きを消していった。

 空雄はもう一度、流太の目を見た。

「そりゃあ……俺もあんたも、どんなに傷ついたって、1日たてば再生する。そうなんだろ? だからだ。体が元に戻ると知っているから、こんなことができる。もう二度と戻らないものだと知っていたら、あんたは切ったのか」

 流太はこれまで見せなかった顔をした。図星を言われむっとする少年みたいに、その表情はあどけなく映った。空雄の脳裏には、痛みに耐える流太の顔が映っていた。例え、けががなかったことになっても、記憶はリセットされない。傷つければ、傷つけた分だけ、痛みの記憶は積み重ねられていく。 

 空雄はひもを奪い、血が止まらない流太の指に巻き付けた。見たところ、けがの度合いは普通の人間と変わらない。実際に指を切断した場面に出くわしたことはなかったが、とにかく止血しなくてはと思い、結び目をきつくしばった。流太を引っ張り、空雄は家の中に入れると傷の処置をスマホで調べ、最善を尽くした。父も母も、突然のことに驚く小春でさえも、流太の手当てに奔走していた。

「これでひとまず応急処置はできたが、本当に……病院に行かなくていいのか」

 血に染まったティッシュをごみ袋に入れながら父が言った。流太は居間のソファに寝かされ、おとなしくされるがままになっていた。

「平気だ」

 流太は言った。そこへ、お盆に水の入ったコップを載せた小春がやってきた。

「あの、よかったら、これ、どうぞ」

 妙にたどたどしく、小春は緊張して言った。だいたいの話はさっき母に説明されていたが、やはり見知らぬ男、しかも猫戦士を前にして緊張しないはずがない。流太は「ありがとう」と言って受け取り小さく笑んだ。敵意はないのだと分かり、小春は安心して空雄の隣に身を寄せた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! 仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。 カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ

シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。  だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。 かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。 だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。 「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。 国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。 そして、勇者は 死んだ。 ──はずだった。 十年後。 王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。 しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。 「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」 これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。 彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。

処理中です...