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【悪の守護者編】叛逆のカウントダウン
晩春の静寂と影
しおりを挟む五月の陽光は、残酷なほどに透き通っていた。
アルカディア神聖帝国中心部に位置する、王立ラプラス魔導アカデミー。
かつてアルカディア帝国が周辺諸国を併呑し、巨大な版図を築く以前の王国時代から、この地には変わらぬ魔導の静寂が流れている。
帝都の喧騒を拒絶するように屹立する白亜の校舎は、今や帝国の威信を体現する学び舎であり、同時に、次期宰相候補たるセオドリック・フォン・ランカスターを頂点とした、美しくも歪な階級社会の苗床でもあった。
放課後の生徒会執務室。
窓から差し込む斜陽が、壁に掛けられた歴代会長の肖像画を赤く染めている。その中で、一際豪奢な椅子に身を預けたセオドリックは、退屈そうに金色の髪を指で弄んでいた。
「――レイ。君、また僕の書類を勝手に片付けたね? どこにやったんだい、先週の魔導石の輸入許可証は。あれは僕が、後でじっくりと鑑賞しようと思っていたのに」
セオドリックの碧い瞳が、不満を装った愉悦と共に、奥のデスクで黙々とペンを走らせる青年――レイモンド・アシュクロフトを捉える。
「右から三番目の引き出し、一番下だ。……鑑賞だと? お前が書類の上に揚げ菓子の食べかすを零して、羊皮紙を油塗れにするから避難させておいただけだ、この馬鹿」
レイモンドは顔も上げずに答えた。
一方は帝国屈指の公爵家嫡男、もう一方は十年前の不祥事で爵位を剥奪され、泥を啜るようにして生き延びた没落貴族の末子。
本来、言葉を交わすことさえ不敬とされる身分差だが、この閉ざされた執務室において、レイモンドはセオドリックの唯一の『毒舌家な側近』として、誰よりも対等に、そして冷淡に振る舞っていた。
「ふふ、相変わらず手厳しいね。だが、君にそうして叱責されるたびに、僕は自分が、一人の人間としてここに在るのだと実感できる」
セオドリックは椅子から立ち上がり、優雅な足取りでレイモンドの背後に回った。そのまま、拒絶を許さぬ重みでレイモンドの肩に手を置く。
その細く長い指先には、代々の生徒会長にのみ帯用を許される、銀碧の『学園守護の指輪』が嵌められていた。学園全域に張り巡らされた多層結界を統御し、その心臓部へとアクセスするための、魔導権威の象徴だ。
「……離せ。計算が狂う」
「嫌だと言ったら? 君は僕の親友だろう? 来るべき記念祭……七月七日の日、僕は全帝国民の前で新時代の幕開けを宣言する。その時、僕の隣にいるのは君だ。……約束だよ、レイ」
セオドリックの熱を帯びた声が、レイモンドの項を撫でる。
この男は、本気なのだ。レイモンドが没落貴族の特待生という影の身分であることなど、彼の眩しすぎる善意の前では無価値に等しい。
セオドリックは、自らの光でレイモンドを焼き尽くし、永遠に自分の隣に繋ぎ止めることを義務だと信じて疑わない。
その無垢なまでの信頼に、レイモンドは胃の奥が焼けるような錯覚を覚えた。
「……ああ。……わかっている」
嘘ではない。だが、その数時間後。
セオドリックを見送った後の寮の自室で、レイモンドの日常という名の薄氷は、音もなく砕け散ることとなった。
机の上に置かれていた、一通の漆黒の封書。
封蝋には、帝国の法を司る内閣法務大臣、ボリス・フォン・ベルツの紋章が刻まれていた。
レイモンドの手が微かに震える。
ベルツ――十年前、父に魔導石横領の濡れ衣を着せ、アシュクロフト家を処刑台へと送り込んだ男。幼いレイモンドが法廷の隅で見た、冷徹な死神の顔。
封を切り、中身を目にした瞬間、レイモンドの視界に鮮血のようなフラッシュバックが走った。
同封されていたのは、父の冤罪を証明する真実の記録……ではなく、当時の冤罪資料をさらに改竄した告発状だった。
『……当時のアシュクロフト侯の横領は、現ランカスター公爵の教唆によるものである……』
息が止まった。
ベルツの狙いは明白だ。この偽造文書を公にすれば、アシュクロフトの汚名は雪がれるどころか「ランカスターの忠犬」として二重に呪われ、そして何より、セオドリックの父、ひいてはセオドリック自身の次期宰相候補としての地位が永久に剥奪される。
『記念祭の当日、君がセオドリックを裏切り、結界を無力化せよ。さもなくば、この記録を公開し、ランカスター家を法的に抹殺する。アシュクロフトの再興を願うなら、賢い選択をすることだ』
手紙を持つ指先から体温が消えていく。
セオドリックに相談するべきか?
……いや、不可能だ。レイモンドの脳は、冷酷なまでにその結末を演算してしまう。
あの善意の暴走列車であるセオドリックにこれを話せば、彼は間違いなく笑って言うだろう。
『君が助かるなら、僕は全てを捨てよう』と。
そして、ベルツはそれこそを待っている。セオドリックが、家門の犯罪を知りながら、一介の生徒を救うために隠蔽を図った――という事実……それこそが、彼を葬り去るための、完璧な毒となる。
セオドリックを救うには、彼を共犯者にしてはならない。
彼の知らないところで、彼が愛した信頼できる友を、自らの手で殺すしかないのだ。
「……俺ひとりで……何とかするしかない」
握りしめた手紙が、クシャリと絶望の音を立てた。
窓の外、晩春の夕闇が学園を飲み込んでいく。
レイモンド・アシュクロフトの、たった一人で地獄を歩む二ヶ月が、今、始まった。
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