今さら戻ってこいと言われても、私なら幸せに暮らしてますのでお構いなく

日々埋没。

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 俺の名前はマルクス。
 そう、ただのマルクス。姓はない。

 どこにでもいる取るに足らないただの平民の男だが、近頃はようやく昔からの夢であった芸術家としてなんとか食っていけるようになった。

 だから今の生活になんら不満はなく、また同時に生きがいも感じている。

 これまでの立場を投げうってまで手に入れた、本当にやりたかったことを自分の責任で好き勝手にやれているのだから当然といえば当然の話だ。

 さて、そんな充実した日々を過ごしていたある日のこと、俺はとある女性を成り行きで保護することとなった。

 エリシュとだけ名乗ったその美しい女性は自分の見立てた通り元貴族令嬢であり、実家から追放されて平民落ちとなった彼女には当然行く宛などどこにもなかった。

「行くところがないのだろう? もし一人暮らし男の家に抵抗がないのであればウチにくるといい――」

 暴漢の魔の手から助けたことへのお礼を述べたあと立ち去ろうとしたエリシュにそう声をかけたのは、言葉にこそ出さなかったが俺に縋るようなまなざしを去り際に向けていたからだ。

 とはいえ俺は彼女のその不憫な境遇に同情したわけではない。
 ただそれでも一度助けた手前、放っておくことなどできなかった。

 だからこそ独り立ちできる程度には面倒を見るつもりでいたし、事実この半年で彼女は問題なく平民としての生活を送れるまでになった。

 その間、父親から勘当された理由をエリシュが口にすることも俺が彼女に尋ねることもなかったが、別にそれでいいと思っている。

 少なくともすべてを捨てた俺が彼女の事情に立ち入る権利はないのだから。

 ……しかし最近になって一つ気がかりなことが出来てしまった。

 それはいつの日かエリシュが俺の前からいなくなってしまうのかということ。

 最初の頃はいずれは訪れるであろう出来事だと何の問題もなく受け入れていた。

 下心がなかったとはいえ、やはり恋人でもない年頃の男女が一つ屋根の下で暮らし続けることは互いにとって良くないことは間違いないからだ。

 なのにここ最近の俺は、なにかとエリシュの姿ばかり追っている。

 絵のモデルに彼女を起用してからというもの、ふとした時に覗かせる恥ずかしそうにはにかんだ笑顔がすこぶる魅力的だと気づいてしまった。

 モデルであるエリシュを観察すればするほど俺の中で言いようのない熱を感じるんだ。

 ……ああそうだ、この感情に折り合いをつけるならきっとこれは彼女に対する恋心なのだろう。

 だからこそプレゼントと称してエリシュを題材にした花嫁をキャンパスに描いたのだ。

 我ながら浅ましいとは思う。
 そんなつもりがなかったとはいえ日々の生活を送る間にまさか彼女に惹かれてしまうだなんて。 

 だが一度自分の気持ちに整理がつくと、もはやこの想いは押さえられそうにない。
 昔からなにがしかの決意が固まるともう黙っていられない性分なのだ。

 ゆえに迷惑であることは間違いないが、せめてエリシュには包み隠さずに今の俺の気持ちを正直に伝えようと思う。

 その結果彼女が俺を拒絶しようとも構わない。

 多少ぎこちなくはなるだろうが、彼女が自分の意志でこの家を出て行かない限りはただの同居人の関係に戻るだけだ。

 ――しかし残念なことにその機会が訪れることはそもそもなかった。 

「では行ってきます」

 その日、市井に出かけたはずのエリシュは結局そのまま帰らなかった。

 ……いや違うな、元貴族令嬢である彼女はこんな所ではなく家にしか帰ることができなくなったんだ。

 酒場でふと耳にしたとある噂。

『お貴族様であるルドラー伯爵家が半年前に勘当した娘を血眼になって探してるらしいぜ。ははっまったく今更だよなぁ、綺麗な環境で育ってきたお嬢様が一人で生きられるとでも思ってるのかねぇ。どうせもうとっくにおっ死んじまってるよ』

 そんな噂に一抹の不安を覚えた俺はエリシュが働いていたレストランに立ち寄って話を伺うと、オーナーの口から既に彼女はルドラー家の手の者によって連れて行かれた後だったからだ。
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