俺より俺の感情が分かる後輩は、俺の理解を求めない

nano ひにゃ

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「手、離せよ……」

電車に乗ってもまだそのまま。それほどの時間が経って漸くそれを指摘することができたが、櫂はそこに少し視線をやっただけで離す素振りすらない。

「離したら逃げるだろ」
「……当たり前だろ」

俺の耳元に口を寄せた櫂は、低い声で囁いた。

「逃げようとしたらその場で犯す」

咄嗟に空いている手で耳を押さえ見上げると、目が本気すぎて試す気にもならなかった。
そして手首も開放されなかった。

着いたのは櫂の部屋だった。
玄関前でわずかに抵抗したが、大声を上げたり我武者羅に暴れたりするほど、俺は櫂の行動を拒めなかった。

プライベートでの主体性のなさは、全然直っていないのだと実感せざるを得なかった。

何をされるか想像できないわけがない。
それをしてほしくないと思ってはいるが、こんな状況になるまで対処できなかった反省なのか罪悪感なのか、思考はもう停止しているに近かった。

「どれくらいしてない?」

ソファーに押しやられ、伸し掛かられるように跨られて逃げ道はないに等しい。説得するにも櫂相手には上手くできる気がしなかった。

「言う必要ないだろ」

無理やりやるならたとえ初めだろうが、昨日してようが櫂には関係ないと、ヤケクソ気味に返事をしたらスマホに手にしてレンズを向けられる。

「写真撮られてもいいなら」
「ご……五年前」

本気じゃないとはとても思えなくて、隠す意味もないと思う間もなく正直に答える。

のらくらと適当に躱すのは得意なはずなのに、いつからか櫂にはできなくなっていて、それでいて素直になれないから興味を引いてしまったのかもしれない。

冗談なのか、揶揄われているのか、隠さない好意を示す言葉を櫂は職場で口にしていたから、言われ始めた頃にもっと強く出ていればと、後悔がないわけではない。

本気ではないと思っていたから。
それなのに、俺が他と違って櫂には上手くあしらえず、過剰に反応していた自覚はある。

大袈裟に拒絶したり、慌てふためいたり、他ではしないようなリアクションを取ってしまっていた。

自分でもその理由は説明できない。
いや、少なくとも仕事の技術面の尊敬はあった。才能に経験の上乗せがあり、その上で新たな知識を好奇心で重ねていける姿は羨ましいを超えて、同僚でいることが誇らしくあるくらいだ。
コミュニケーション能力も交流なんて無意味と思っていそうな第一印象とは違い、積極的ではないが顔見知りになってしまえば声を掛けやすい雰囲気を作っている。逆に、体躯の恵まれ具合を分かった上で敢えての威圧感を消しはしないところも含めて、上手く使い分けている。

何もかも自分と逆だと度々思うが、そこが眩しく映りはしても嫉妬することもない。
違い過ぎるからだろう。

そんな男がどうして自分なんかに執着するのか。

謎は謎のまま、そして櫂の尋問は続く。

「前のやつとはどこで知り合った?」
「大学」

もう考えるのも悩むのも疲れてきて、投げやりに答えていた。

「相手は?」
「先輩」
「五年まえだと卒業してからも付き合ってた感じだな」

確かに就職してからも、一、二年付き合っていた気はする。付き合っているという状況がどういうものかにもよるとは思うから、最後にした時のことははっきり思い出せるが、そしてそれも思い出したくもないが、結局交際期間は三、四年といったところだ。

櫂がそれを知りだがるのが不思議だ。トラウマがないとは言えないが、それがなくたって俺は櫂とは付き合えない。
その理由は以前伝えた。

俺では櫂を満たせないし、俺も櫂では満たされない。

そこまで言ったのに、櫂はなぜかそうですかと言うだけで、態度が変わることはなかった。
懐いている後輩より少し過剰と言うくらいで、今日まで来た。
流石に面と向かって嫌いと叫ばれたのは、逆鱗に触れたのか。

圧し掛かられたままの俺の過去は詮索されていく。

「何された、殴る蹴るか?」
「少しだけ……」
「あとは、浮気」

否定はしない。

「他は、金要求されたか?」
「……俺が払う分が多かった、だけ」

奢らされることが多かったが、直接現金を要求されたことは流石になかった。そう言ってしまうのは、何か言い訳がしたい自分がいるのかと、ちょっとまた苦しくなった。

「セックスは? 良かった?」
「分かんない」
「分からないことないだろ、気持ち良かった?」

これにはすぐ答えられなかった。
羞恥という部類の戸惑いではなく、もっと複雑だからだ。
自分が受け身な上に、最初で今のところ最後の男だが、そういう行為が上手い相手ではなかったと言ってしまえる。比べる相手がいない俺に言われるのはあの男も心外だろうが、いろんな感情を抜きにして考えてもお世辞でも上手いとは言えないし、以前に成り行きで相談することになった尊敬する元上司もクソ野郎だなと評していたから間違いないはずだ。

でもそれを櫂に言うのも、なんか難しい。
相手が下手くそだったから気持ち良くなかったと言ってしまうと、状況的に俺が教えてやるとか言われても嫌だし、良かったとも言いたくないし絶対言うべきではないはずだ。感じなかったっという嘘は、櫂がこの先を強行してしまえばどうバレるか分からない。
前の男も初心者に無体を働くほどではなかったから、自分が不感症ではないと知ってはいる。

「答えろよ」

詰め寄られている圧が、口を開かせる。

「気持ちいいときもあった」

自分の中ではかなり無難な返答ができたのではないだろうか。それに櫂が何を思うかまではもう俺には考えられないのは問題だけども、その感情は現れないまま質問は重ねられた。

「酷い時も?」
「少し」

櫂の言う酷いがどの程度のものを想像しているのかは分からないが、そんなことはなかったとは言いたくなかった。
庇うような言動をしたくないのもあったが、少し酷かったと思っている自分もいるから。
終始独りよがりだった。それが俺の扱いと同様にどんどん雑になっていった。乱暴なことはほぼなかったが、性交という言葉とは遠くなっていったように思う。性処理に近かったんじゃないだろうか。
俺が一人、正解を導いている間、櫂は更に先を行っていた。

「俺もそいつみたいだって? 浮気したり、あんたの尊厳踏みにじったり?」

それで付き合えないと言ってるわけではない。
そもそもさっきから今までの言動はなかなか強引だと思っているのは俺が過剰なわけではないだろう。
でもそれを発言しない。
突発的に支配された過去の影響による怯えは、一応抑え込めてはいるし、怖いから言えないわけではない。
櫂にこんな言動を取らせる俺に原因があると思うから。
俺は首を横に振ることだけで、違うと伝えた。

「あんた俺より背は低いけど、世間一般じゃ高いほうだよな。体型も標準的でそこまで細くもない。相手はガタイ良いやつだったのか?」
「同じ感じ」
「あんたと?」

櫂と同等の人間を探す方がかなりの困難だろう。
そうだと頷いた。

「前のヤツのことはもう好きじゃない?」

好きなんて考えただけで、もう吐きそうだ。
それどころかもう思い出すこともない。

「好きじゃない」
「ちゃんと嫌いになって別れた?」

嫌われはしただろうが、嫌いという感情も俺の中にない。

「どうでも良くなって、別れた」

あの時はなんか目が覚めたという感覚が正しい気がしている。
覚醒に近い変化だったせいで、相手が混乱して別れるのに少し骨が折れたが、暴言を吐かれても別れられたのだから良しとしている。
櫂は俺の答えを聞いて微かに笑った。

「それ最高。一番いい別れ方だ」

そう言うと、やっと櫂は俺の上からどいた。俺も体を起こす。
櫂はそれを見ながら隣に座っている。

「多少ムカついたことは否定しませんけど、聞きたいこと聞けたんで」

どこにムカついたのかは聞かず、俺は立ち上がろうとすると、櫂はまた俺の腕を掴んで座り直させる。

「帰しはしませんよ」
「え……」

いや、まあ、このまま帰ろうと思っていた訳でもないんだけど、ただ帰らないとも思ってなかったというか、本能的に立ち上がって、帰る流れるになると……想像してる訳でもなくて、でもなんか、一瞬安心してしまってのは本当で。

「無理やり犯すことはしません」

そう言って、掴まれた二の腕から櫂の手が先の方へ滑り、指を絡めるように繋がれる。

「あ……」
「でも、同意があれば問題ないんで」

手を繋がれたまま、その手はソファに付かれて、櫂の上半身が近づいてくる。

「……ッ」

抵抗する思考も起きず、ただ反射でグッと目を瞑ったが、何の変化も起きない。
キスをされる寸前で櫂は止まっていた。



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