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5 人質
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「――姫様!」
「ヘルマ……ただいまっ!」
約一年ぶりに、宮に戻ってきた私を温かく出迎えてくれたのは。
今は亡きお母様と共に、クーゲル帝国からこのモルゲンロートにやって来た侍女のヘルマでした。
ヘルマはお母様が亡くなった後もずっと私のそばにいてくれた、まるで家族のような存在。
そしてこの王宮で唯一私が気を許せる特別な人。
「姫様、シュヴァルツヴァルトに嫁がれるというのは本当でございますか……?」
「……ごめん。『立派な女王になる』って、お母様とヘルマに約束したのに」
あらためて言葉にすると胸が痛んだ。
私はお母様と最後に交わした大事な約束を、守ることができない。
「そんな約束よりも! 姫様はご自分の心配をなさってくださいませ! これではまるで……人質、ではないですかっ……」
人質。
その価値が、今の私にあるのでしょうか。
「ヘルマ……私なら大丈夫だよ、だから心配しないで?」
「それのどこが大丈夫なのですか!? 戦地からやっと戻ってこられたと思ったらすぐに輿入れなんて! それにそのお身体とお顔はなんですか! 全身傷だらけではないですか! お美しいお顔が……なんとお労しゅう……!」
「ああ、これ? こんなのはただのかすり傷、ほっといたらそのうち治る……」
この程度の傷や凍傷は北の地ではよくあることで、気にするほどのことではありません。
唾でもちょいとつけておけば、この程度の傷はそのうち治ると戦場で学びました。
「……な、に、が『ただのかすり傷』ですか! 姫様はこれからシュヴァルツヴァルトの王太子妃になられるお方なのですよ!? そんな傷だらけで、どうやってドレスをお召になるおつもりですか!」
「ドレス……? あ、忘れ……」
すっかり忘れていました。
ドレスなんて一年以上余裕で着ていませんでしたし、自分がシュヴァルツヴァルトの王太子妃になると言われても。
実感が湧きませんし、その姿を想像できません。
「わ、忘れていらしたのですか!?」
私がそう言うと、
ヘルマは深いため息をついて、頭痛でも堪えるように眉間に皺を寄せた。
それに肩までがっくりと落としてしまっている。
「お化粧で隠せばなんとか……なるよね?」
多少厚化粧にはなるでしょうが、傷が癒えるまでの間だけですし……まぁどうにかなるでしょう。
……というか、ならないと困ります。
「姫様……シュヴァルツヴァルトのフリード王太子は、北の前線では敵将を務めていらした方だったとお伺いしておりますが……それは事実ですか?」
「残念ながら、事実だね……」
「ならば……姫様が北の前線にいらしたことは、決して口にされない方がよろしいかと存じます」
「ん……そう、だね。私も隠した方がいいと思う」
輿入れしてくる王女が、まさか自分の首を虎視眈眈と狙っていた敵将だったなんて。
シュヴァルツヴァルトの王太子も、わざわざそんな事実知りたくもないでしょう。
……それに。
戦時中とはいえ、私はシュヴァルツヴァルトの兵を殺してしまっている。
それはどんな理由があったとしても消えることはない罪で、私自身が背負わなければいけない。
だけどもしそれを知られてしまったら、最悪の場合……外交問題にまでなりかねません。
隠すことは卑怯なのかもしれません。
けれど私はその事実を隠し通さなければいけない、もう戦争なんて絶対に嫌ですから。
あのクソ親父もそれをわかっているはずなのに、どうして嫁入りする王女を私に決めたのか。
私にはさっぱりわかりません。
「……姫様、あまり時間がありません。とりあえず湯浴みをいたしましょう。そして湯浴みが終わりましたら御髪を整えて……」
「え、休む時間は? 疲れたから、のんびりゴロゴロしたい……」
「そんな時間は一切ございません! 来週にはシュヴァルツヴァルトから迎えがこちらへやって参ります、それまでにその傷だらけの顔と身体をどうにか見られるようにしなくてはならないのですよ!?」
「え、見れないほど酷いと!? これで謁見の間に行ったのに……」
「なっ!? もしやそんな格好で……? 皆の前に……お出になられたと……」
「そんな格好って……王都に入る前の街で宿屋に寄って水浴びはしたよ? 服も一応着替えたし……?」
「水浴び……? 姫様が?」
私のその一言に、
ヘルマのこめかみがぴくりと動いた。
そして私の頬の傷にそっと触れた手がわずかに震え、なにか言葉を飲み込むように唇が引き結ばれる。
「うん、だから泥汚れは落ちて……」
……ふつふつと。
まるで静かに煮えたぎる鍋のように、隠しきれない怒気がヘルマからじわじわと滲み出ているように見えた気がします。
「そう、ですか。とりあえず姫様、どうぞこちらへ……傷の手当も必要ですので」
「え? あ、うん……」
ヘルマがなにをそんなに怒っているのかよくわかりませんが、私に向けられたものでは無さそうですので。
触らぬ神に祟りなしということで、放っておくことにしました。
「――姫様!」
「ヘルマ……ただいまっ!」
約一年ぶりに、宮に戻ってきた私を温かく出迎えてくれたのは。
今は亡きお母様と共に、クーゲル帝国からこのモルゲンロートにやって来た侍女のヘルマでした。
ヘルマはお母様が亡くなった後もずっと私のそばにいてくれた、まるで家族のような存在。
そしてこの王宮で唯一私が気を許せる特別な人。
「姫様、シュヴァルツヴァルトに嫁がれるというのは本当でございますか……?」
「……ごめん。『立派な女王になる』って、お母様とヘルマに約束したのに」
あらためて言葉にすると胸が痛んだ。
私はお母様と最後に交わした大事な約束を、守ることができない。
「そんな約束よりも! 姫様はご自分の心配をなさってくださいませ! これではまるで……人質、ではないですかっ……」
人質。
その価値が、今の私にあるのでしょうか。
「ヘルマ……私なら大丈夫だよ、だから心配しないで?」
「それのどこが大丈夫なのですか!? 戦地からやっと戻ってこられたと思ったらすぐに輿入れなんて! それにそのお身体とお顔はなんですか! 全身傷だらけではないですか! お美しいお顔が……なんとお労しゅう……!」
「ああ、これ? こんなのはただのかすり傷、ほっといたらそのうち治る……」
この程度の傷や凍傷は北の地ではよくあることで、気にするほどのことではありません。
唾でもちょいとつけておけば、この程度の傷はそのうち治ると戦場で学びました。
「……な、に、が『ただのかすり傷』ですか! 姫様はこれからシュヴァルツヴァルトの王太子妃になられるお方なのですよ!? そんな傷だらけで、どうやってドレスをお召になるおつもりですか!」
「ドレス……? あ、忘れ……」
すっかり忘れていました。
ドレスなんて一年以上余裕で着ていませんでしたし、自分がシュヴァルツヴァルトの王太子妃になると言われても。
実感が湧きませんし、その姿を想像できません。
「わ、忘れていらしたのですか!?」
私がそう言うと、
ヘルマは深いため息をついて、頭痛でも堪えるように眉間に皺を寄せた。
それに肩までがっくりと落としてしまっている。
「お化粧で隠せばなんとか……なるよね?」
多少厚化粧にはなるでしょうが、傷が癒えるまでの間だけですし……まぁどうにかなるでしょう。
……というか、ならないと困ります。
「姫様……シュヴァルツヴァルトのフリード王太子は、北の前線では敵将を務めていらした方だったとお伺いしておりますが……それは事実ですか?」
「残念ながら、事実だね……」
「ならば……姫様が北の前線にいらしたことは、決して口にされない方がよろしいかと存じます」
「ん……そう、だね。私も隠した方がいいと思う」
輿入れしてくる王女が、まさか自分の首を虎視眈眈と狙っていた敵将だったなんて。
シュヴァルツヴァルトの王太子も、わざわざそんな事実知りたくもないでしょう。
……それに。
戦時中とはいえ、私はシュヴァルツヴァルトの兵を殺してしまっている。
それはどんな理由があったとしても消えることはない罪で、私自身が背負わなければいけない。
だけどもしそれを知られてしまったら、最悪の場合……外交問題にまでなりかねません。
隠すことは卑怯なのかもしれません。
けれど私はその事実を隠し通さなければいけない、もう戦争なんて絶対に嫌ですから。
あのクソ親父もそれをわかっているはずなのに、どうして嫁入りする王女を私に決めたのか。
私にはさっぱりわかりません。
「……姫様、あまり時間がありません。とりあえず湯浴みをいたしましょう。そして湯浴みが終わりましたら御髪を整えて……」
「え、休む時間は? 疲れたから、のんびりゴロゴロしたい……」
「そんな時間は一切ございません! 来週にはシュヴァルツヴァルトから迎えがこちらへやって参ります、それまでにその傷だらけの顔と身体をどうにか見られるようにしなくてはならないのですよ!?」
「え、見れないほど酷いと!? これで謁見の間に行ったのに……」
「なっ!? もしやそんな格好で……? 皆の前に……お出になられたと……」
「そんな格好って……王都に入る前の街で宿屋に寄って水浴びはしたよ? 服も一応着替えたし……?」
「水浴び……? 姫様が?」
私のその一言に、
ヘルマのこめかみがぴくりと動いた。
そして私の頬の傷にそっと触れた手がわずかに震え、なにか言葉を飲み込むように唇が引き結ばれる。
「うん、だから泥汚れは落ちて……」
……ふつふつと。
まるで静かに煮えたぎる鍋のように、隠しきれない怒気がヘルマからじわじわと滲み出ているように見えた気がします。
「そう、ですか。とりあえず姫様、どうぞこちらへ……傷の手当も必要ですので」
「え? あ、うん……」
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触らぬ神に祟りなしということで、放っておくことにしました。
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