74 / 202
第五章〈王太子の宮廷生活〉編
5.11 王太子といとこの秘密通信(3)飛翔する密書
しおりを挟む
宰相アルマニャック伯が戻って来たとき、大鴉は天井から吊り下げた照明器具に止まってガァガァと鳴いていた。
「少し席を外している間におもしろい余興をしていたようですな」
宰相にそう言われて、私は護衛隊長シャステルと顔を見合わせた。
予想に反して、否、予想した通り、大鴉が変身する奇跡を見ることはできなかったが、面白くなかった訳ではない。
余興と言われて面白くないのは私よりも——
「からかわないでください」
「ふふ、アルテュール殿は救出できましたかな?」
ジャンはむくれているようで、それ以上答えなかった。
「だから、あれほど『ただのカラスだ』と申し上げているのに」
飼育担当の若い侍従は、「まったく、相変わらずデュノワ伯は単細胞で思い込みが激しいな」と呆れている。
遠慮のない物言いに、私は「もしかして、ふたりは顔見知りだろうか」と思い至った。
確認する間もなく、若い侍従は上衣に留めている凝った装身具を外して口元に寄せると、ふうっと一吹きした。
まるでガチョウの鳴き声のようなけたたましい笛の音が響き、大鴉が照明器具を蹴って下りてきた。
「本来、伝達役に適しているのは鳩ですが、宰相閣下のご要望でコイツを調教しています」
侍従は片腕を広げて、大鴉を迎え入れた。
「ロンドン塔は大鴉の巣窟です。伝書鳩では食われてしまう」
大鴉をみごとに手なずけた侍従は、クレルモン伯シャルルと名乗った。
私より2歳年上の16歳で、2年前に上京して宮廷に出仕しているという。
ちょうどジャンがパリの王宮に来た時期と重なる。
「すごい!」
「恐れ入ります」
至近距離で見る大鴉は、想像以上に大きい。
狩猟で見慣れたハヤブサなどの猛禽とはまた少し違う迫力があった。
「クレルモン伯と言ったね。貴公が手なずけたの?」
「いえ。元を正せば、我が父ブルボン公とオルレアン公——そこにいるデュノワ伯の兄君シャルル・ドルレアンの提案です」
クレルモン伯の父・ブルボン公は、アジャンクールに参戦して捕らわれ、いまはロンドン塔に幽閉の身だった。
父や兄、あるいは息子や弟がイングランドの人質になっている宮廷人は少なくなかった。
「軍馬、伝書鳩、猟犬、狩猟用のハヤブサ。有用な動物の調教は、軍略に欠かせません。おそらくアーサー王の変身伝説も、動物を上手く使役する能力が元になっているのでしょう」
アルマニャック伯は、大鴉を腕に載せたクレルモン伯を満足そうに眺めた。
「鳩を調教できるなら、あるいはカラスも可能ではと」
ロンドン塔は、裕福かつ高い身分の貴族ばかりが集められた。
虜囚たちは、故郷の支援と身代金のおかげで生活に不自由していないが、厳しい監視がついている。
英仏間で手紙の往来は禁じられていない。
だが、使者を介する書簡は、封蝋されていても事前に手紙の内容を検閲されている可能性が高かった。当然、当たり障りのないことしか書けない。
ロンドン塔ではシャルル・ドルレアンとブルボン公が、パリの王宮では宰相アルマニャック伯とクレルモン伯が秘密の通信・調教実験を担当した。
「美味い餌と鳥笛でおびき寄せ、懐柔し、生け捕りにしてパリへ密輸して……」
「えっ、密輸?!」
「言葉のあやです」
確かに、カラスはどこにでもいる鳥だから、輸出入を禁じられていない。
パリの東にあるヴァンセンヌの森から大鴉を放鳥したところ、一部は森に居着き、一部はロンドンへ戻った。
何度か繰り返して、帰巣本能の強い個体を選び、さながら伝書鳩のように調教を施した。
「ここまで、2年かかりました」
「2年」
長いのか短いのか、私にはよく分からなかった。
「鳩とハヤブサの扱いには慣れていますが、父も私もカラスを相手にするのは初めてで少々手こずりました。しかし、想像以上に頭のいい鳥です。実用に堪える仕上がりになっていると自負しています」
そう言って、クレルモン伯は頭を下げた。
派手な羽飾りのついた帽子と、装飾品の多い凝った衣服はまるで道化のように見えるが、クレルモン伯は自身の技量に誇りを持っていた。
***
パリの宮廷とロンドン塔を結ぶ秘密の通信手段はほぼ完成していた。
だが、たとえ監視役の検閲を免れても、途中で書簡を奪われたり落としてしまう可能性を考えて、文中には暗号を仕込んでいる。
シャルル・ドルレアンは得意の詩文をよく書いた。
もし誰かに見られたときには、詩の師匠に添削してもらう作品だとごまかす手はずになっている。
アルマニャック伯は、パリ大学から詩人アラン・シャルティエを呼び出した。
ノルマンディーのバイユー出身で、地元では代々、公証人や聖職者を務めている裕福な一族だ。
パリ大学は、フランスのみならず西欧各国から優れた学者や文人が集まっていた。
「小心者のしがない役人でございます」
アラン・シャルティエは謙遜したが、一年前に発表した「四人の貴婦人の書」という詩集で一世を風靡し、パリ大学でも一目置かれていた。
シャルル・ドルレアンの手紙から暗号を拾い上げ、詩の韻文を解読してもらった。
「ロンドン塔は相当寒いのでしょう。防寒着を送って欲しいと」
「なんとおいたわしい……」
「女人の温もりが恋しいと」
「にょにん?」
「心が凍えてしまうと」
「心が?」
「はい、そう書いてあります」
当代一流の暗号文は私にはチンプンカンプンだった。
詩的な比喩表現なのか本音なのか。
判断が難しいが、アラン・シャルティエの講義は面白かった。
自称・役人だが、やはり彼は洗練された言葉を操る詩人なのだ。
「あっ、そうだ。アンジューに手紙を送ることはできる?」
「大鴉はロンドン塔のみですが、主要都市に飛ばせる伝書鳩なら各種ご用意してあります」
マリーに手紙を送ろうと思いついた。
まだ妃として迎えにいく余裕がないが、忘れていない証しに何かしたいと思った。
「王太子殿下の婚約者がアンジューに? それはそれは……」
護衛隊長のシャステルが何か耳打ちしたらしく、詩人の心に火をつけたようだ。
「美女に恋文といえば、私の得意分野です!」
「美女? いや、マリーはまだ13歳の少女で……」
「わかります。未成熟の美少女ですねっ!!」
詩人はらんらんと目を輝かせ、ぐいぐいと来るので、私はたじろいでしまった。
「このアランめにお任せください。必ずや美少女の心を射止めてみせましょう」
「いや、婚約者だから射止めるも何も……」
アランいわく、女性とはすべからく美女であり、美少女なのだという。
そして、男とはすべからく美女の忠実な僕なのだと。
アランの指導で、恋文と言えなくもない手紙をしたため、クレルモン伯が伝書鳩を飛ばしてくれた。
返事は来なかった。
クレルモン伯は「悪天候に巻き込まれたり、野生の猛禽や狼に襲われて伝書鳩が届かないこともある」と言った。
アラン・シャルティエは「気高い美女は、簡単にはなびかない」と言った。
それは慰めか?と聞いたら「王太子殿下の婚約者は、すばらしい美女の資質を持っている」と返ってきた。
ロンドン塔との往復書簡と違い、この手紙は戯れも同然。
児戯のような恋文は少々恥ずかしかったが、読まれて困る内容ではない。
アンジューから反応が返って来ないことは寂しかったが、もし届かなかったならば仕方がない。
(二通目を送ってみよう。シャルティエに添削してもらうと、恥ずかしい手紙になりそうだけど)
女の子は、情熱的な手紙の方が嬉しいのだろうか。
胸が張り裂けそうな恋心と、男が求めてやまない女人の温もりとやらを、このときの私はまだ知らなかった。
(※)アラン・シャルティエは32歳。
(※)クレルモン伯は16歳で、デュノワ伯は15歳。二人とも宮廷入り2年目の同期です。
「少し席を外している間におもしろい余興をしていたようですな」
宰相にそう言われて、私は護衛隊長シャステルと顔を見合わせた。
予想に反して、否、予想した通り、大鴉が変身する奇跡を見ることはできなかったが、面白くなかった訳ではない。
余興と言われて面白くないのは私よりも——
「からかわないでください」
「ふふ、アルテュール殿は救出できましたかな?」
ジャンはむくれているようで、それ以上答えなかった。
「だから、あれほど『ただのカラスだ』と申し上げているのに」
飼育担当の若い侍従は、「まったく、相変わらずデュノワ伯は単細胞で思い込みが激しいな」と呆れている。
遠慮のない物言いに、私は「もしかして、ふたりは顔見知りだろうか」と思い至った。
確認する間もなく、若い侍従は上衣に留めている凝った装身具を外して口元に寄せると、ふうっと一吹きした。
まるでガチョウの鳴き声のようなけたたましい笛の音が響き、大鴉が照明器具を蹴って下りてきた。
「本来、伝達役に適しているのは鳩ですが、宰相閣下のご要望でコイツを調教しています」
侍従は片腕を広げて、大鴉を迎え入れた。
「ロンドン塔は大鴉の巣窟です。伝書鳩では食われてしまう」
大鴉をみごとに手なずけた侍従は、クレルモン伯シャルルと名乗った。
私より2歳年上の16歳で、2年前に上京して宮廷に出仕しているという。
ちょうどジャンがパリの王宮に来た時期と重なる。
「すごい!」
「恐れ入ります」
至近距離で見る大鴉は、想像以上に大きい。
狩猟で見慣れたハヤブサなどの猛禽とはまた少し違う迫力があった。
「クレルモン伯と言ったね。貴公が手なずけたの?」
「いえ。元を正せば、我が父ブルボン公とオルレアン公——そこにいるデュノワ伯の兄君シャルル・ドルレアンの提案です」
クレルモン伯の父・ブルボン公は、アジャンクールに参戦して捕らわれ、いまはロンドン塔に幽閉の身だった。
父や兄、あるいは息子や弟がイングランドの人質になっている宮廷人は少なくなかった。
「軍馬、伝書鳩、猟犬、狩猟用のハヤブサ。有用な動物の調教は、軍略に欠かせません。おそらくアーサー王の変身伝説も、動物を上手く使役する能力が元になっているのでしょう」
アルマニャック伯は、大鴉を腕に載せたクレルモン伯を満足そうに眺めた。
「鳩を調教できるなら、あるいはカラスも可能ではと」
ロンドン塔は、裕福かつ高い身分の貴族ばかりが集められた。
虜囚たちは、故郷の支援と身代金のおかげで生活に不自由していないが、厳しい監視がついている。
英仏間で手紙の往来は禁じられていない。
だが、使者を介する書簡は、封蝋されていても事前に手紙の内容を検閲されている可能性が高かった。当然、当たり障りのないことしか書けない。
ロンドン塔ではシャルル・ドルレアンとブルボン公が、パリの王宮では宰相アルマニャック伯とクレルモン伯が秘密の通信・調教実験を担当した。
「美味い餌と鳥笛でおびき寄せ、懐柔し、生け捕りにしてパリへ密輸して……」
「えっ、密輸?!」
「言葉のあやです」
確かに、カラスはどこにでもいる鳥だから、輸出入を禁じられていない。
パリの東にあるヴァンセンヌの森から大鴉を放鳥したところ、一部は森に居着き、一部はロンドンへ戻った。
何度か繰り返して、帰巣本能の強い個体を選び、さながら伝書鳩のように調教を施した。
「ここまで、2年かかりました」
「2年」
長いのか短いのか、私にはよく分からなかった。
「鳩とハヤブサの扱いには慣れていますが、父も私もカラスを相手にするのは初めてで少々手こずりました。しかし、想像以上に頭のいい鳥です。実用に堪える仕上がりになっていると自負しています」
そう言って、クレルモン伯は頭を下げた。
派手な羽飾りのついた帽子と、装飾品の多い凝った衣服はまるで道化のように見えるが、クレルモン伯は自身の技量に誇りを持っていた。
***
パリの宮廷とロンドン塔を結ぶ秘密の通信手段はほぼ完成していた。
だが、たとえ監視役の検閲を免れても、途中で書簡を奪われたり落としてしまう可能性を考えて、文中には暗号を仕込んでいる。
シャルル・ドルレアンは得意の詩文をよく書いた。
もし誰かに見られたときには、詩の師匠に添削してもらう作品だとごまかす手はずになっている。
アルマニャック伯は、パリ大学から詩人アラン・シャルティエを呼び出した。
ノルマンディーのバイユー出身で、地元では代々、公証人や聖職者を務めている裕福な一族だ。
パリ大学は、フランスのみならず西欧各国から優れた学者や文人が集まっていた。
「小心者のしがない役人でございます」
アラン・シャルティエは謙遜したが、一年前に発表した「四人の貴婦人の書」という詩集で一世を風靡し、パリ大学でも一目置かれていた。
シャルル・ドルレアンの手紙から暗号を拾い上げ、詩の韻文を解読してもらった。
「ロンドン塔は相当寒いのでしょう。防寒着を送って欲しいと」
「なんとおいたわしい……」
「女人の温もりが恋しいと」
「にょにん?」
「心が凍えてしまうと」
「心が?」
「はい、そう書いてあります」
当代一流の暗号文は私にはチンプンカンプンだった。
詩的な比喩表現なのか本音なのか。
判断が難しいが、アラン・シャルティエの講義は面白かった。
自称・役人だが、やはり彼は洗練された言葉を操る詩人なのだ。
「あっ、そうだ。アンジューに手紙を送ることはできる?」
「大鴉はロンドン塔のみですが、主要都市に飛ばせる伝書鳩なら各種ご用意してあります」
マリーに手紙を送ろうと思いついた。
まだ妃として迎えにいく余裕がないが、忘れていない証しに何かしたいと思った。
「王太子殿下の婚約者がアンジューに? それはそれは……」
護衛隊長のシャステルが何か耳打ちしたらしく、詩人の心に火をつけたようだ。
「美女に恋文といえば、私の得意分野です!」
「美女? いや、マリーはまだ13歳の少女で……」
「わかります。未成熟の美少女ですねっ!!」
詩人はらんらんと目を輝かせ、ぐいぐいと来るので、私はたじろいでしまった。
「このアランめにお任せください。必ずや美少女の心を射止めてみせましょう」
「いや、婚約者だから射止めるも何も……」
アランいわく、女性とはすべからく美女であり、美少女なのだという。
そして、男とはすべからく美女の忠実な僕なのだと。
アランの指導で、恋文と言えなくもない手紙をしたため、クレルモン伯が伝書鳩を飛ばしてくれた。
返事は来なかった。
クレルモン伯は「悪天候に巻き込まれたり、野生の猛禽や狼に襲われて伝書鳩が届かないこともある」と言った。
アラン・シャルティエは「気高い美女は、簡単にはなびかない」と言った。
それは慰めか?と聞いたら「王太子殿下の婚約者は、すばらしい美女の資質を持っている」と返ってきた。
ロンドン塔との往復書簡と違い、この手紙は戯れも同然。
児戯のような恋文は少々恥ずかしかったが、読まれて困る内容ではない。
アンジューから反応が返って来ないことは寂しかったが、もし届かなかったならば仕方がない。
(二通目を送ってみよう。シャルティエに添削してもらうと、恥ずかしい手紙になりそうだけど)
女の子は、情熱的な手紙の方が嬉しいのだろうか。
胸が張り裂けそうな恋心と、男が求めてやまない女人の温もりとやらを、このときの私はまだ知らなかった。
(※)アラン・シャルティエは32歳。
(※)クレルモン伯は16歳で、デュノワ伯は15歳。二人とも宮廷入り2年目の同期です。
10
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる