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第九章〈正義の目覚め〉編
9.9 強制された臣従礼(2)
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ロンドン塔の虜囚アルテュール・ド・リッシュモンを解放する条件は二つ。
ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。
「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」
私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。
だが、選択肢はあって無いようなものだ。
この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。
「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」
ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。
「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」
ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。
「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」
ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——
「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」
リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。
***
この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼に馴染みがなくとも結婚式は知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。
「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」
主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。
「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」
誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。
「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」
主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。
誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。
繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。
仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。
このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。
***
臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。
「フランス風のキスの方が良かったのではないか」
儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。
「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」
半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。
すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。
(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)
頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉が飛び交っていた。
もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。
「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」
私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。
だが、選択肢はあって無いようなものだ。
この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。
「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」
ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。
「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」
ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。
「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」
ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——
「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」
リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。
***
この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼に馴染みがなくとも結婚式は知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。
「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」
主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。
「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」
誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。
「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」
主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。
誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。
繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。
仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。
このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。
***
臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。
「フランス風のキスの方が良かったのではないか」
儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。
「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」
半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。
すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。
(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)
頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉が飛び交っていた。
もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
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