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終章
終章・後編 聖女の目覚め
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【※外部サイトで掲載していたエピソード(現在は非公開)から再掲。第八章〈殺人者シャルル〉編のあと、終章・前後編で完結するパターンです。このページは後編になります】
1422年7月8日、ブルゴーニュ公フィリップの妃で、狂人王シャルル六世の第四王女ミシェルが急死した。父親譲りで精神を病んでいたため、実母イザボー・ド・バヴィエールに毒殺されたと伝わっている。
だが、私が知っている姉は心を病んでいるとは思えなかった。
それほど深い付き合いではなかったが、宮廷の茶会で間近に接してみて、表向きは勝気で正義感が強く、それでいて傷つきやすく繊細な人だと感じた。
実際、ミシェル王女は多くの人に愛されていた。
特にフランドル地方の人々から熱烈に招かれて、王女自身が領地経営に深く関わっている。夫・ブルゴーニュ公フィリップは妻ミシェルの聡明さに驚き、フランドル以外の地域も一任するほど信頼していた。
ブルゴーニュ公妃ミシェル王女の遺体は、フランス北東部フランドル地方——21世紀現在はベルギー王国——にある聖バーフ大聖堂に葬られている。
***
ある夏の日の正午、まばゆい光を感じて、少女は導かれるように村の教会へ向かった。
教会は、少女の家の隣にあった。
なじみの礼拝堂を覗くと、祭壇の前に人影があった。
正確には、影ではなく光を放っていたという。
「あなたは誰?」
少女はおそるおそる問いかけた。
高貴な人々が身につける裾の長い典礼服のドレープがゆるやかに波打っている。
光は悲しいほどに儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
「あの、あたしの名前はジャネット。お父さんはジャック・ダルクで、お母さんはイザベルだけど村の人たちはロメって呼んでる。お兄ちゃんがジャックとジャンで、お姉ちゃんはカトリーヌっていうの。それから弟は……」
光をまとったその人は、明らかに村の人間ではなかった。
しかし、このとき少女はすでに魅入られていたのだろう。
失礼にならないように自分の名前を名乗り、両親と兄と姉、そして弟のことを話した。
「お姉ちゃんはこのあいだ死んじゃったからもう会えないんだ。あたしもみんなもいっぱい泣いたけど、一番かわいそうなのはお姉ちゃんだよね……。弟はまだ小さいから、あたしが守ってあげるの!」
美しくも淡い光は、次第に光を強めながら少女に近づいてきた。
荘厳な鐘の音が鳴っていた。
「そう。お姉ちゃんと弟が……」
聖なる光と清らかな音に満たされて、少女は一体誰と話していたのだろう。
「ミシェル? あなたはミシェルというの?」
少女はその名を知っていた。
村のはるか遠く、フランス王国の西の海にミシェルという名の大天使を祀る大聖堂がある。
少女が生まれ育った村は街道が近く、通りすがりの旅人が各地の情報を教えてくれた。
大人たちの話によれば、今まさにその大聖堂モン・サン=ミシェルで英仏の戦いが繰り広げられていた。
少女は無学だが働き者で、大人たちを手伝いながらさまざまな話を聞いていた。
「あたし、あなたのこと知ってる……!」
自宅の隣が教会だったせいだろうか、少女はとても信心深かった。
天使の名に恐れおののき、額を地面に擦り付けて礼拝した。
震えながら、村の司祭がミサで話してくれる「天使が降臨する聖なる物語」を思い出していた。
天使は、偉大な神託を告げる。
奇跡が起きる前触れと見なされていた。
大天使ガブリエルは、イエス・キリストの受胎告知をするために聖母マリアの前に現れた。
そして大天使ミシェルは遥か昔、オベールという司教の前に現れて教会を建てるようにと命じ、モン・サン=ミシェルにラ・メール修道院が建てられた。
戦時には、フランスの西海岸を守る強固な要塞にもなる。
いつしか、大天使ミシェルはフランス王国の守護天使だと認識されるようになった。
「あたしはどこにでもいる村の女の子です。家畜の見張りや糸紡ぎしかできません」
自分は無力で何もできない。何かの間違いではないかと思った。
だが、少女は信仰心ゆえに「神様、天使様が間違えるはずがない」とも考えた。
たった今、少女の身に起きている神秘体験はまぎれもなく事実だったから。
何より、少女はこの美しくも儚い光に失望されて、ここから消滅することを恐れた。
「ミシェル様、なぜあなたはこの村に来たの? あたしは何をすればいい?」
美しい光の人は、村の少女に神託を告げた。
フランス王国を救うために王太子シャルルを王位につけよ、と。
***
フランス中部ロワール流域には悩める王太子。
ロンドン塔には囚われの騎士。
そして、フランス北東部ムーズ川の山間部にあるドンレミ村で、英仏・百年戦争の行方を左右する少女が「ミシェル」の声に導かれて目覚めようとしていた。
数年後、王太子シャルルは少女から「ミシェルの神託」を聞いて涙を流したと言われている。
少女——聖なる乙女の名はジャンヌ・ダルク。
15世紀当時から500年以上を経て、いまだに彼女を崇拝する者は多い。
この物語を読んでいる読者諸氏を失望させるかもしれないが、私は「ミシェルは天使ではなく、ジャンヌは聖女ではなかった」と断言する。
あなたにはこの意味がわかるだろうか。
歴史の矛盾を解き明かすヒントはすでに示している。
私の物語はここで終わるが、ふさわしい時が来たら答えの続きをお伝えしよう。
1422年7月8日、ブルゴーニュ公フィリップの妃で、狂人王シャルル六世の第四王女ミシェルが急死した。父親譲りで精神を病んでいたため、実母イザボー・ド・バヴィエールに毒殺されたと伝わっている。
だが、私が知っている姉は心を病んでいるとは思えなかった。
それほど深い付き合いではなかったが、宮廷の茶会で間近に接してみて、表向きは勝気で正義感が強く、それでいて傷つきやすく繊細な人だと感じた。
実際、ミシェル王女は多くの人に愛されていた。
特にフランドル地方の人々から熱烈に招かれて、王女自身が領地経営に深く関わっている。夫・ブルゴーニュ公フィリップは妻ミシェルの聡明さに驚き、フランドル以外の地域も一任するほど信頼していた。
ブルゴーニュ公妃ミシェル王女の遺体は、フランス北東部フランドル地方——21世紀現在はベルギー王国——にある聖バーフ大聖堂に葬られている。
***
ある夏の日の正午、まばゆい光を感じて、少女は導かれるように村の教会へ向かった。
教会は、少女の家の隣にあった。
なじみの礼拝堂を覗くと、祭壇の前に人影があった。
正確には、影ではなく光を放っていたという。
「あなたは誰?」
少女はおそるおそる問いかけた。
高貴な人々が身につける裾の長い典礼服のドレープがゆるやかに波打っている。
光は悲しいほどに儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
「あの、あたしの名前はジャネット。お父さんはジャック・ダルクで、お母さんはイザベルだけど村の人たちはロメって呼んでる。お兄ちゃんがジャックとジャンで、お姉ちゃんはカトリーヌっていうの。それから弟は……」
光をまとったその人は、明らかに村の人間ではなかった。
しかし、このとき少女はすでに魅入られていたのだろう。
失礼にならないように自分の名前を名乗り、両親と兄と姉、そして弟のことを話した。
「お姉ちゃんはこのあいだ死んじゃったからもう会えないんだ。あたしもみんなもいっぱい泣いたけど、一番かわいそうなのはお姉ちゃんだよね……。弟はまだ小さいから、あたしが守ってあげるの!」
美しくも淡い光は、次第に光を強めながら少女に近づいてきた。
荘厳な鐘の音が鳴っていた。
「そう。お姉ちゃんと弟が……」
聖なる光と清らかな音に満たされて、少女は一体誰と話していたのだろう。
「ミシェル? あなたはミシェルというの?」
少女はその名を知っていた。
村のはるか遠く、フランス王国の西の海にミシェルという名の大天使を祀る大聖堂がある。
少女が生まれ育った村は街道が近く、通りすがりの旅人が各地の情報を教えてくれた。
大人たちの話によれば、今まさにその大聖堂モン・サン=ミシェルで英仏の戦いが繰り広げられていた。
少女は無学だが働き者で、大人たちを手伝いながらさまざまな話を聞いていた。
「あたし、あなたのこと知ってる……!」
自宅の隣が教会だったせいだろうか、少女はとても信心深かった。
天使の名に恐れおののき、額を地面に擦り付けて礼拝した。
震えながら、村の司祭がミサで話してくれる「天使が降臨する聖なる物語」を思い出していた。
天使は、偉大な神託を告げる。
奇跡が起きる前触れと見なされていた。
大天使ガブリエルは、イエス・キリストの受胎告知をするために聖母マリアの前に現れた。
そして大天使ミシェルは遥か昔、オベールという司教の前に現れて教会を建てるようにと命じ、モン・サン=ミシェルにラ・メール修道院が建てられた。
戦時には、フランスの西海岸を守る強固な要塞にもなる。
いつしか、大天使ミシェルはフランス王国の守護天使だと認識されるようになった。
「あたしはどこにでもいる村の女の子です。家畜の見張りや糸紡ぎしかできません」
自分は無力で何もできない。何かの間違いではないかと思った。
だが、少女は信仰心ゆえに「神様、天使様が間違えるはずがない」とも考えた。
たった今、少女の身に起きている神秘体験はまぎれもなく事実だったから。
何より、少女はこの美しくも儚い光に失望されて、ここから消滅することを恐れた。
「ミシェル様、なぜあなたはこの村に来たの? あたしは何をすればいい?」
美しい光の人は、村の少女に神託を告げた。
フランス王国を救うために王太子シャルルを王位につけよ、と。
***
フランス中部ロワール流域には悩める王太子。
ロンドン塔には囚われの騎士。
そして、フランス北東部ムーズ川の山間部にあるドンレミ村で、英仏・百年戦争の行方を左右する少女が「ミシェル」の声に導かれて目覚めようとしていた。
数年後、王太子シャルルは少女から「ミシェルの神託」を聞いて涙を流したと言われている。
少女——聖なる乙女の名はジャンヌ・ダルク。
15世紀当時から500年以上を経て、いまだに彼女を崇拝する者は多い。
この物語を読んでいる読者諸氏を失望させるかもしれないが、私は「ミシェルは天使ではなく、ジャンヌは聖女ではなかった」と断言する。
あなたにはこの意味がわかるだろうか。
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