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5章
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王都アストラリアに春が定着し、桜に似たサンローズの花弁が大通りの石畳に降り敷くころ──戦場を揺籠に変えた騒動から四十日が過ぎていた。王家直轄の育児庁がようやく組織図だけ整い、王子エグバルトは週三回の“夜泣き当番”を続行。貴族も平民も入り混じる里親登録が三万人を超え、赤ん坊兵士たちは順に新しい家庭へ迎え入れられてゆく。
その喧騒のただ中、大聖堂裏手の旧交易公会議事館を改装した石造りの館が、今朝ついに漆喰の鎧戸を開いた。淡い牡丹色のテント、白金で縁取った窓枠、石段の両端に植えられた細身の糸杉──館の正面には、ルビーをあしらった木製看板が掲げられている。
> 《Remy・Maison de Lumière》
癒しと若返りの専門施術館
開店は午前九時前だったが、日の出と同時に行列ができた。先頭はシワを気にしていた王立劇場の花形女優、その後ろに貿易商ギルドの女会頭、さらに遠方から護送車で訪れた山間伯爵令嬢。そして、その影に隠れるように庶民区の仕立屋助手や町医者の妻も並んでいる。列の誰もが絹の手袋を外し、頬をほんのり紅潮させて開店の瞬間を待ちかまえていた。
重厚な扉が音もなく左右に開き、香水よりも爽やかなハーブと蜜蝋の香りが溢れ出る。柔らかな金糸灯の下、淡青のタイルを敷いたホールには受付卓が一つ。その奥に立つのは──薄桃のクロークをまとったレミー・ライフリィーである。胸に光る銀バッジには、王宮から正式に交付された「若返り魔法士資格証」と、淑女会がデザインしたハート型の紋章が並ぶ。
「お待たせいたしました。《メゾン・ド・ルミエール》へようこそ」
挨拶と同時に、二十名の若い助手が左右の回廊から現れた。彼らは孤児院出身の青年で、レミーが赤ん坊兵士の世話を通じて見出した才ある魔力保持者たちである。ひとりは霊水の調合を、ひとりは香油の蒸留を、別のひとりは音叉を使った魔力共振検査を担当し、行列の貴婦人たちを上階の個室へと丁寧に案内した。
施術室は全十五室、壁紙はリラの蔓花模様。中央のベッドに横たわると、天井から透きとおる水膜がレンズのように光を集め、肌細胞を刺激する。レミーが指環を軽く鳴らすと、霊水が霧となり頬を包み、微弱な魔力が血流を温める。痛みはなく、眼差しはむしろうつらうつらと閉じてしまうほど心地よい。
最初の客である女優は、わずか一分で目尻の浅い皺が霧散し、舞台照明よりも鮮やかな艶を取り戻した。その瞬間、個室の扉の隙間から見守っていた受付嬢が「きゃっ」と歓声を上げる。階下の待合ラウンジでは、演奏家の卵たちが終日ハープとリュートを奏で、施術を終えた客の頬に淡く紅が差すたび、優しい旋律が長椅子にこぼれる。
昼過ぎ、レミーは短い休憩を取り、スタッフ用の裏庭へ出た。花壇には貴婦人会から贈られたビロード草が揺れ、木陰には見習いたちが昼食を囲んでいる。メニューは育児庁から大量に払い下げられた粉ミルクで作る特製シチュー。食材が足りない開店初月の苦肉の策だが、意外にもまろやかな甘さが好評で、見習いたちは赤い顔でおかわりを求めていた。
レミーが木椅子に腰を下ろすと、エルダー侯爵夫人が裏門から現れた。ワイン色のドレスに日傘を揺らし、手には分厚い帳簿。
「初日の売上、見事ですわ——でも驚かないで。料金の三割を赤ちゃん兵士基金に自動送金できるよう、書類を整えておきました」 「ありがとうございます。お代の一部が未来の養育費になるなら、お客様も施術効果を誇らしく思ってくださるでしょう」
ふたりが談笑する脇で、粉ミルクシチューを頬張る見習いは目を丸くしている。「高位貴族がお金を持って来て、それが赤ちゃんに回る?」「それが“若返り経済”よ」——侯爵夫人はウインクした。
午後の施術枠は常に満杯。夕刻には瓦版屋が早刷りの号外を持って駆け込み、〈初日完売・二か月先まで予約〉と大見出しを広げた。通りの向かいでは、露店商が「聖女クッキー」や「若返り蒸しパン」を並べ、客の列が隣接する薬草市場にまで伸びていく。夕陽に照らされた看板がルビーの光を反射し、石畳に淡紅の影を落とした。
夜、閉店の時刻を迎えると、スタッフ一同がホールに集まり、レミーが小さな鐘を鳴らす。
「今日、皆さんが磨いた魔法と笑顔は、十年後二十年後の王都を変えていきます。疲れはありますか?」 「ありません!」見習いたちの声が弾む。「でも足が棒です!」 「棒になった足には若返りマッサージを。自分の身体を労りながら、明日もお客様に光を届けましょう」
解散後、館に残った灯は窓枠のルビーが屈折させる淡い薔薇色だけ。レミーは帳簿を閉じ、階段を上る。最上階の小部屋——それは彼女の個人研究室であり、窓辺の揺籠が十台並ぶ“夜間保育室”でもある。眠りについた赤ちゃん兵士たちがゆったり寝息を立て、時折「んん……」と泣き声を漏らす。その度に、魔力制御ランプが柔らかな蒼を灯し、安眠の波動を放つ。
取り残された静寂の中、レミーは窓を開け、遠くの王城を見やった。尖塔の上階にもまだ灯がともり、王子が夜泣き当番に奮闘しているのが窺える。街路に響くのは蹄ではなく、夜警と乳母の腕に抱かれた赤子の静かな鼻息。かつて剣戟の気配が漂っていた王都の夜は、今、人間と人間をつなぐ子守歌で満ちている。
レミーは胸元の護符に指先を当て、そっと呟いた。
「戦わずに生を守る。それが私の魔法。そして、この館は——命が未来へ走り出す跳ね橋」
星明かりが看板のルビーを優しく照らし、その反射が研究室の天井を走った。満ち足りた静けさの中で、若返り魔法士の新しい道は、さらなる光を呼び込む準備を整えていた。
開店から三週間が過ぎ、王都の街路は《メゾン・ド・ルミエール》を中心に“若返り経済圏”と呼ばれる新しい賑わいを見せていた。ハーブ問屋の売り上げは二割増し、菓子職人たちは「ぷるつやゼリー」を開発し、薬草市場には「レミー式マッサージ用オイル」の量り売り屋台が軒を連ねる。そんな市井の噂を、王城の高窓からこぼれる灯火が見守っていた。
ある晩、王子エグバルトは〈子守歌塔〉とあだ名される最上層の部屋で、眠りの浅い赤子の揺籠を揺らしていた。夜泣き当番四巡目。哺乳瓶の抱き方にも慣れ、人肌の温度もすぐ見極められるようになった。だが今夜の彼には、揺籠より重い案件が待っている。侍従に渡された漆黒の小箱の封蝋には、摂政アンセルム公の紋章が刻まれていた。――「王統を強固にするための御進言」。
書面の要旨は明快だった。
王子殿下、若返り聖女との婚約を正式に再設定すべし。
理由はいくらでも挙げられる――民心は聖女を王室の一員と見なしており、彼女の美容経済が国家歳入の新柱となり、フェーリス軍との停戦維持に彼女の存在が不可欠である、と。
「いやはや、政治はいつも数字と評判を好む……」
エグバルトは小箱を閉じ、揺籠の中でほわりと笑った赤子の頬をつついた。「きみは数字でも評判でもない。けれど皇太后は、きみがいなければもう眠れないらしいぞ」
***
翌日の昼下がり。《メゾン・ド・ルミエール》の二階テラスは午後の陽を浴びて、水晶テーブルが虹色にきらめいていた。花壇のビロード草には蜂が集い、遠くから奏でられるリュートの旋律が柔らかく吹き抜ける。レミーは施術を終えて紅茶を注ぎ、次の予約に備えてノートに魔力循環の微調整をメモしていた。そこへ、館の受付嬢が駆け上がり、息せき切って報告した。
「れ、れ、殿下の公式使者が二十名ほど! 王家紋章旗を……あの、玄関を覆う勢いで……!」
レミーは眉を上げた。
「予約リストに『王家代表団』とは書いていませんけれど」
「突然のご来館です。『至急、奥の大ルームを空けられたい』と……!」
タイルに反射する光が一段と強くなり、空気がぴんと張り詰める。レミーはティーカップを静かに受け皿に戻した。
「では――お通ししましょう。折角ですから、一番広いミラージュ施術室へ」
***
黄金装飾の軍靴音を響かせて通されたのは、エグバルト王子その人だった。侍従長、近衛隊長、宮廷書記官が後に続き、施術室の天蓋の下で整列する。レミーは礼を取った。王子は幼児用のスタイを襟元に挟んだ半礼服で、胸元の白が粉ミルクの染みでまだらになっている。
「本日は若返りを、とのご依頼でしょうか? 疲労のマーカーが頬に見えますわ」
レミーの平常心の声音に、王子は苦笑を浮かべた。「看破されるとは……夜泣きの連勤明けでな。だが今日は別の用件だ」
侍従長が巻物を開く。
「王家布告案第一九五六号。『若返り聖女レミー・ライフリィーを王太子妃に迎え、王家護持の奇跡とする』。王子殿下の御名のもと、明朝閣議へ提出予定でございます」
室内の空気が止まった。助手の青年が持つ霊水瓶がかすかに震える。レミーは深呼吸をひとつ。
「“護持の奇跡”とは、育児庁の設置と赤子兵士の養育が順調だからこそ。それで充分ではございませんか?」
王子は一歩前へ進む。紫檀色の床に影が伸びる。
「そなたが館を開いて以来、王都の歳入は三割増し。フェーリスも再侵攻の口実を失い、他国からの巡礼も絶えぬ。――だが、真の安定には“法的な地位”が要る。そなたを王家に迎え、永遠に守る。余はそう決めた」
言い切った声はかつての威圧ではなかった。だが柔らかい響きがかえって重い。レミーはゆっくり首を振った。
「お断りいたします」
侍従長が息を呑む音がした。王子の声は低くなった。
「王命であると告げたら?」
「たとえ王命であっても、私は私の意思で未来を選びます」
王子の肩がわずかに跳ねる。助手たちが背を正し、部屋のルーンランプが緑から蒼へ揺れた。レミーはさらに続ける。
「殿下が声を上げ、哺乳瓶を握り、夜泣きをあやす姿を私は尊敬しています。でもそれは――殿下が“父”であるからこそ尊いのです。婚約という形で私を囲い、奇跡を所有物にしようとすれば、その価値は剣と同じ硬さに戻るでしょう」
王子は沈黙したまま視線を落とした。その視線の先には、助手が運んできた消毒用の真鍮盆。盆の上で小さな哺乳瓶が転がり、乳首がかすかに鳴った。
「……奇跡を所有物にせず、共に守る道は?」
「“契約”ではなく“協定”ですわ。王家とメゾン・ド・ルミエールは相互支援の協定を結び、私は若返りと育児庁へ魔法指導を続ける。その代わり、王家は里親制度と粉ミルクの安定供給を保証する。肩書きに拘らず、互いの責務で信頼を築くのです」
王子は肩で息をついた。粉ミルクの染みがまだらな襟元を指で払う。
「……まるで大臣の答弁のようだな、レミー」
「光栄です。でも、育児は政治より粘度がありますから。――殿下が本当に必要とするのは、王妃ではなく“当番母”でしょう?」
助手たちが吹き出しそうになるのを慌てて堪える。王子はついに笑い声を漏らし、額にかかる金髪をかき上げた。
「当番母、か。ならば余が求めるのは婚姻ではなく、当番表にそなたの名前を書き加えることかもしれぬ」
「ええ。私の当番は“月曜、木曜、偶数週金曜深夜”でいかが?」
「交渉成立だ」
ふたりは握手を交わした。王子の掌は育児で荒れ気味だったが、温かかった。
侍従長が巻物をくるりと丸め、書記官は新たな文書用紙を広げる。そこに記されるのは、王家と若返り館が結ぶ史上初の《生育協定》だ。王子は在位の証を示す印章を押す前に、スタイの染みを気にして上衣を脱ぎ捨て、白シャツ姿でペンを取った。
外では春の夕立が始まり、サンローズの花びらを濡らしながら石畳を洗い流す。レミーは窓越しにその雨を眺め、深く息を吐いた。
「所有しなくても、人は支え合える。そして支え合うほど、若返りは広がる」
雨音にかき消えないその呟きは、施術室のルーンランプに反射し、蒼の光となって天井を行き交う。やがて光は王子の印章に触れ、朱のインクをきらめかせた。
“若返りの奇跡”は、人を鎖で繋がず、手と手で輪を作る。
その輪に立ち会った書記官は、後に回想録でこう記す。
> 「王子殿下はその日、剣を持たずに印章を取り、王妃ではなく当番表を得た。
奇跡を所有せず、分け合う未来の幕開けであった」と。
こうして王子の再求婚は、正式な「拒否」と、柔らかい「協定」へ姿を変えた。リュートの音色が外廊下に戻り、窓外の雨が静かに小止みになる頃、王都は再び揺籠のような温もりを取り戻していた。
協定締結から十日後の早朝、王都に低い雷鳴のような噂が走った。――「国王自らが“聖女との御成婚”を正式裁可したらしい」。
その日、〈メゾン・ド・ルミエール〉の施術予約は夜まで満席だったが、開店と同時に異様な一団が玄関を塞いだ。漆黒の礼服に紅い襟章をつけた老臣たち、そして手に赤漆の勅詔筒を捧げ持つ近衛副隊長。
「王命を伝達する。若返り聖女ライフリィー子爵令嬢、直ちに謁見の間へ参上されよ。拒めば不敬罪に処す――」
硬い宣告に、受付嬢が真っ青になった。だが奥から現れたレミーは微笑を崩さない。「王子殿下からは昨夜まで何も伺っておりませんが?」
老臣のひとりが鼻を鳴らす。「摂政アンセルム公以下、枢密院が奏請し、陛下が親裁なされた。王子閣下も御意に背けまい」
“摂政が動いた”――レミーは即座に理解した。協定に不満を抱く保守派が、老王を担いで強行に押し切ったのだ。
「わかりました。では王命を確認の上、こちらも『儀礼』を尽くさせていただきます」
彼女は副隊長から勅詔筒を受け取ると、玄関ホールを隔てた小待合室へ招き入れた。室内には消毒薬の匂いと淡いリラ色の壁紙。壁際の籐椅子に老臣たちを座らせ、霊水の小瓶入りトレイを差し出す。「長旅でお疲れでしょう。喉を潤しながら、しばし施術の見学を」
***
すぐ隣の施術室では、軍務省秘書官の若夫人がベッドに横たわっていた。薄いクマと乾燥が目立つが命に別状はない。レミーは指環を鳴らし、霊水を霧に変える。淡桃の光が夫人の肌を撫で、十数秒で目尻の皺が溶けた。鏡を覗いた夫人は小さく悲鳴を上げ、涙ぐむ。
「若返りとはかくも穏やかで、無害なものですの」
レミーは横の老臣たちへ振り返る。「――ですが方向を反転させれば、穏やかでなくなる」
指環が再び光り、霧の一部が副隊長の佩刀に絡んだ。硬質な鉄がわずかに軋み、次の瞬間、長大な軍剣は木製のガラガラに変貌した。鈴のような玉がころんと鳴る。副隊長は蒼白になり、刀を取り落とす。
「御覧のとおり、私は《若返り》しか扱いません。ですが“保身のための暴発”は制御しきれないこともありえますわ。もし私に人生を赤ちゃんからやり直させたければ、どうぞ王命を強要なさって」
老臣の頬が引きつる。レミーは勅詔筒を開き、一礼した。
「……王家への敬意として、公式な回答を三日以内に差し上げます。ですが本日中の召喚命令は、施術の安全管理上お受けできません」
副隊長は震える声で「……王命だぞ」と繰り返したが、その背後で霧化した剣が再び鉄へ戻ることはない。赤子用玩具となった剣を見つめる他なかった。
***
使節団が引き揚げた昼下がり、《若返り経済圏》の中核はまるで蜂の巣のようにざわついた。瓦版屋が号外を刷り上げる。「王家、聖女との婚儀を再強要か?」「若返り館、王命に猶予願い」――見出しが並ぶと、民衆は口々に異論を唱える。
「王子殿下と協定結んだばかりじゃないか!」
「赤ちゃん育児で忙しい王家が何でまた結婚騒ぎだよ」
粉ミルク屋台の主婦たちは寄付箱に「レミー様を守れ」と札を立て、学士院の魔法研究員は“若返りと人格保持”の論文を即日公開して王命を暗に批判した。
***
その夜、王城の子守歌塔。王子エグバルトは赤子を揺籠に寝かせると、走って戻った侍従から報告を受けた。「……殿下。聖女様は王命を受理せず、三日後に正式回答を届けると」
王子は額を押さえ、短く呻く。「摂政め……」
だが次の瞬間、彼は寝息を立てる赤子を見やり、決意を固めた。王笏を掴み、夜半の回廊を直進する。向かうは枢密院執務室――摂政アンセルム公の私室だ。
扉を叩かず乗り込む。老摂政が驚愕の声を上げる前に、王子は笏を卓に打ちつけた。
「余が王家の威光を守ると誓ったのは、命を所有するためではない。育むためだ。――勅詔案を破棄せよ」
議論は夜明け近くまで続いたが、ついに摂政は折れた。高齢の国王は長期療養中であり、王子が後見権を持つ。公文書は焼却され、“強制婚約”は幻となった。
***
三日後。レミーが王城へ届けた正式回答書には、こう記されていた。
> 〔協定条項追加〕
1.王家は若返り魔法士レミーを“独立機関・生育顧問”と承認し、いかなる婚姻・封爵をもって拘束しない。
2.王家は育児庁運営に必要な資金と人員を保証する。
3.若返り館は王国全土に施術拠点を広げ、技術を平等に提供する。
署名欄には王子エグバルトの名と、血判のように濃いインクが並んだ。
広場で署名が公開されると、群衆から喝采が上がり、貴婦人会の夫人たちは紙吹雪を鞄から撒いた。「決まりましたわ! 結婚じゃなくて協定!」――その声に、桜に似たサンローズの花弁がぱっと舞い上がる。
レミーは群衆の後ろで深呼吸した。護符が胸で温かく脈打つ。
「強要の鎖はほどけましたわね」
横で粉ミルク缶を抱えた王子が苦笑した。
「鎖より、おむつの紐の結び方で手一杯だ」
赤子の笑い声が二人の会話をかき消した。若返りの街は、今日も子守歌のような喧騒で満ちている。
深夜、王城西棟の回廊は青白い月光だけを灯していた。育児庁当番を終えたエグバルト王子は、哺乳瓶の洗浄室を抜け、濡れた袖を絞りながら階段を下りて行く。甲冑のない足取りは軽いはずなのに、胸の奥に残る違和感が歩を重くした。
──あのとき、彼女は本気だったのか。
広場で署名式が終わったあと、レミーは笑顔で握手しながら囁いた。
「ご強要なさるようなら、殿下の人生を赤ん坊からやり直してもよろしくてよ?」
冗談とも本気ともつかぬ声。だがエグバルトは、屋内灯より鋭い何かをそこに感じ取った。
王子は迷わず〈メゾン・ド・ルミエール〉へ向かう裏通路を選び取った。城壁裏手の渡り廊下を抜けると、淡いルビー灯が夜霧に浮かぶ。館は営業時間を過ぎ、入口の鎧戸は半ば閉じられているが、上階の小窓にはまだ明かり。そこは夜間保育室、レミーの研究室も兼ねる場所だ。
外階段を上り、小窓を軽く叩く。なかで揺籠を揺らしていたレミーが振り向き、驚きより先に笑った。
「深夜のご来館とは、お熱でも?」
「違う」エグバルトは囁き声で返した。「話がある。赤子を起こさぬよう、下の回廊へ」
***
月明かりに濃淡を刻まれた廊下で、二人は向かい合った。シーツと蜜蝋の匂いがまだレミーの袖口に残る。王子は気づき、声を潜めた。
「……あの言葉。余の人生を赤ん坊に戻す? 脅しか」
レミーは肩を竦め、闇の向こうの王城尖塔を遠目に眺めた。
「脅し、といえば脅し。けれど殿下が隣国へ向けた“返還しなければ再戦”と同じ交渉ですわ。命を人質にする代わりに、未来をちらつかせる」
「命を奪うより残酷だ」
「ええ。だからこそ言葉だけで済むのです。殿下が責任を投げない限り、私は魔法を暴走させる理由がない」
王子は腕を組み、石壁に背を預けた。「もし余が里親制度や育児庁を途中で放棄すれば?」
「そのときは――王国全土の乳児約十二万、民へ返す魔法で充分です」
月光の下でも彼女の瞳は冗談とも真顔とも判別し難い。王子は息を吸い、思わず笑った。
「恐ろしい。余は剣を持たぬまま、国家最大の戦略魔法と結婚交渉をしているようだ」
レミーは小さく首を振った。「剣ではなく、“泣き声”ですわ。赤ちゃんの泣き声に耐えられるかどうか――それが国家運営の覚悟を測る試金石」
しばし沈黙。回廊の外で夜番兵がランタンを掲げ通り過ぎる。遠くの競技場から子馬のいななきが風に乗ってきた。王子は足元の石畳を見つめ、低く問う。
「……余はまだ君の信頼に値しないか?」
「信頼はしています」レミーの声は柔らかい。「でも所有はさせません。奇跡も、人も。育て、手放し、共有する――それが若返り魔法と同じリズムです」
王子の胸に、久しく忘れていた熱が灯る。剣でも王笏でも得られず、夜泣きの揺籠で初めて掴んだ微かな自負。
「それでもいつか……所有ではなく、隣で歩むことは?」
「隣は空いていますわ」レミーは微笑した。「ただし揺籠を抱えたまま転がり続ける覚悟があるなら」
王子は短く息を吐き、ポケットから木製のガラガラ――かつて剣だった遺物――を取り出してみせた。
「今夜、これを赤子に返すところだ。名残だと思っていたが、手放す時らしい」
レミーは頷き、指環でそっと触れた。かすかな光が走り、ガラガラが元の鉄剣の形に戻る……かと思いきや、つやつやした銀の匙に変わった。柄には藍のリボン。
「離乳食が始まる頃にお使いください。殿下の初めてのスプーンとして」
王子は目を丸くし、次の瞬間、声を殺して笑った。刀身より短い“王家最初の銀匙”。月明かりの反射が、剣より柔らかに回廊を照らす。
「脅しは終わりか?」
「ええ。もう恐れずとも、殿下は父ですもの」
銀匙の影が二人の間で揺れ、石壁に映る。王子は肩の力を抜き、夜風を吸った。
「ありがとう、レミー。当番表、見直そう。余の夜泣き当番が足りぬようだ」
「週三じゃ足りませんわ。父は毎晩が当番です」
笑い合い、二人は踵を返す。館の小窓から漏れる柔らかな灯と、王城尖塔の遠い黄光が夜気で交差し、王都の空に静かな弧を描いた。
脅しも剣も過去となり、残ったのは揺籠を揺らす掌と、未来を混ぜる銀の匙だけだった。
王都アストラリアの初夏は、朝靄が抜けると同時にサンローズの香りが石畳の隙間から立ち上る。街角の瓦屋根を淡紅に染めた陽光が、窓という窓を押しひらき、どこからともなく揺籠を揺らす木製の玩具がぶつかり合うちりりという音を運んできた。大通りの露店は夜明けと同時に火を起こし、「王子印粉ミルク・半樽十枚!」「聖女公認マッサージ薬草入りシナモンパン!」と威勢よく呼び声を上げる。早晩、王都を埋め尽くす赤ん坊たちが歯の生えかけをむずがり始め、甘い匂いのする柔らかなパン生地を好むようになったせいだ。
その喧騒から離れたライフリィー邸のバルコニーで、レミー・ライフリィーは高級紅茶アール・カリーナをゆっくりすする。摘みたてミントを浮かべた淡琥珀の液面が風に揺れ、光を屈折させて頬に柔らかい輝きを映した。
「ふう……朝日と水分とカフェイン。お肌の三種の神器ですわね」
独り言に応じるように、窓内側の施術コーナーから魔力律動ランプがひと鳴り。若返り魔法の同期チェックが正常だとやんわり告げる。
テーブルには今日一日のスケジュール帳。午前は王立医院の皮膚病研修に出張し、午後は育児庁に設けた離乳‑魔力栄養調整部局で講義。夜はメゾン・ド・ルミエール本館に戻って予約客を二名だけ受け、「父当番」エグバルト王子が乳児たちの寝かしつけを終える頃、合同ミーティングを開く――そこまで予定を書き込んでも、ページはまだ余白がある。
「忙しくて目が回るかと思えば、案外、呼吸の仕方さえ変えれば時間は伸びますわね」
レミーは指環をひと撫でし、胸元の護符を確かめた。ピンクの布の縫い目がすり減り、署名インクが薄れてきたが、それだけ多くの人の祈りが日常に溶け込んだ証拠でもある。
そのとき、邸内の呼び鈴がちりんと小さく鳴った。執事を介して届いたのは王立育児庁からの書簡だ。封を切ると、中には上質紙に整った筆致でこうしたためられている。
> 「本日付で“十万人育児特別庁”は仮設段階を卒業し、常設官庁《未来発育省》へ改組する。
第一王子エグバルト、正式に次官を辞し、育児庁長を引き続き務める。
レミー・ライフリィー顧問は初代“発育大使”に内定。就任式は来週月曜朝。
追伸
儀式後すぐ離乳用ミルクの新味テイスティングがある。失敗したら私の責任ということで、味覚の鋭い貴女に試飲を頼みたい――エグバルト」
レミーは思わず吹き出し、紅茶を危うくこぼすところだった。王子の筆跡は几帳面なくせに追伸になると途端に崩れ、余白ギリギリまで「よろしく頼む(文字サイズ大)」と書き足されている。
「……真面目と不器用のバランスが可愛らしいですわね、殿下」
誰にともなく呟いていると、邸の裏庭から若い助手たちの声が上がった。「先生、試作ミルクシチュー第三号できました!」「ベビーも大人もいけます!」と鍋の蓋を叩いている。
「おっと、味見係は忙しいですわね」
レミーは椅子を立ち、深呼吸。朝の空気はまだ冷たく、その冷たさが頬の張りをキュッと引き締めてくれる。
階段を下りると、助手たちが囲む大鍋から湯気が立ち昇る。味見用にすくった木匙に口をつけると、甘い香りの後ろに初夏のハーブがふわりと残る。
「合格。けれどカルシウム強化のためにユニコーンミルクを一滴。香りが立ちます」
助手たちは一斉にメモを取り、大鍋に向き直った。その横では孤児院育ちの研修生が揺籠の赤子にスプーンを差し出し、まだ歯もない口がとろんと笑っている。
レミーは思わずその場で足を止め、その光景を胸に焼き付けた。――血の代わりにミルクが流れる国。
剣ではなくスプーンを振るい、命を削るより増やすことに全力を注ぐ王子と民衆。ほんの数ヶ月前には想像もできなかった未来が、今や日常として根を張り始めている。
裏門から通りへ出ると、サンローズの花びらが風に乗り、レミーのスカートの裾を撫でた。遠く、市庁舎前の掲示板には「里親登録・第七次募集開始」の張り紙。すでに列が伸び始め、鍛冶屋や学士や農婦が我先にと書類をもらっている。
粉ミルク屋台を通り過ぎるとき、店主が声をかけてきた。「聖女様の新作ハーブティー入りミルク、今日は十瓶追加だよ」。レミーは人差し指を立て、「まだ聖女ではありません」と返す。店主は笑い、「じゃあ“育児大使様”で!」と看板を書き換え始めた。
時計塔が十時を打つ。育児庁講義の時間まで、あと一刻もない。レミーは風をはらむクロークを翻し、大通りを駆け出した。
「――今日もお肌、ぷるっぷるですわ!」
自分で自分を鼓舞する軽口が、紙吹雪のように街に散った。石畳を跳ねる足音は、子守歌とリュートと粉ミルク鍋の煮える音に溶け込み、王都の空気をいっそう柔らかく震わせる。
未来は決して予定表の通りには進まない。けれど剣を手放し、揺籠を抱いた人々がつくる偶然の網目は、壊すより早く繕い、奪うより多く育む。――若返り魔法士レミーは、今日もその網目の結び目をそっと磨きながら、王都の新しい歴史を歩き出す。
その喧騒のただ中、大聖堂裏手の旧交易公会議事館を改装した石造りの館が、今朝ついに漆喰の鎧戸を開いた。淡い牡丹色のテント、白金で縁取った窓枠、石段の両端に植えられた細身の糸杉──館の正面には、ルビーをあしらった木製看板が掲げられている。
> 《Remy・Maison de Lumière》
癒しと若返りの専門施術館
開店は午前九時前だったが、日の出と同時に行列ができた。先頭はシワを気にしていた王立劇場の花形女優、その後ろに貿易商ギルドの女会頭、さらに遠方から護送車で訪れた山間伯爵令嬢。そして、その影に隠れるように庶民区の仕立屋助手や町医者の妻も並んでいる。列の誰もが絹の手袋を外し、頬をほんのり紅潮させて開店の瞬間を待ちかまえていた。
重厚な扉が音もなく左右に開き、香水よりも爽やかなハーブと蜜蝋の香りが溢れ出る。柔らかな金糸灯の下、淡青のタイルを敷いたホールには受付卓が一つ。その奥に立つのは──薄桃のクロークをまとったレミー・ライフリィーである。胸に光る銀バッジには、王宮から正式に交付された「若返り魔法士資格証」と、淑女会がデザインしたハート型の紋章が並ぶ。
「お待たせいたしました。《メゾン・ド・ルミエール》へようこそ」
挨拶と同時に、二十名の若い助手が左右の回廊から現れた。彼らは孤児院出身の青年で、レミーが赤ん坊兵士の世話を通じて見出した才ある魔力保持者たちである。ひとりは霊水の調合を、ひとりは香油の蒸留を、別のひとりは音叉を使った魔力共振検査を担当し、行列の貴婦人たちを上階の個室へと丁寧に案内した。
施術室は全十五室、壁紙はリラの蔓花模様。中央のベッドに横たわると、天井から透きとおる水膜がレンズのように光を集め、肌細胞を刺激する。レミーが指環を軽く鳴らすと、霊水が霧となり頬を包み、微弱な魔力が血流を温める。痛みはなく、眼差しはむしろうつらうつらと閉じてしまうほど心地よい。
最初の客である女優は、わずか一分で目尻の浅い皺が霧散し、舞台照明よりも鮮やかな艶を取り戻した。その瞬間、個室の扉の隙間から見守っていた受付嬢が「きゃっ」と歓声を上げる。階下の待合ラウンジでは、演奏家の卵たちが終日ハープとリュートを奏で、施術を終えた客の頬に淡く紅が差すたび、優しい旋律が長椅子にこぼれる。
昼過ぎ、レミーは短い休憩を取り、スタッフ用の裏庭へ出た。花壇には貴婦人会から贈られたビロード草が揺れ、木陰には見習いたちが昼食を囲んでいる。メニューは育児庁から大量に払い下げられた粉ミルクで作る特製シチュー。食材が足りない開店初月の苦肉の策だが、意外にもまろやかな甘さが好評で、見習いたちは赤い顔でおかわりを求めていた。
レミーが木椅子に腰を下ろすと、エルダー侯爵夫人が裏門から現れた。ワイン色のドレスに日傘を揺らし、手には分厚い帳簿。
「初日の売上、見事ですわ——でも驚かないで。料金の三割を赤ちゃん兵士基金に自動送金できるよう、書類を整えておきました」 「ありがとうございます。お代の一部が未来の養育費になるなら、お客様も施術効果を誇らしく思ってくださるでしょう」
ふたりが談笑する脇で、粉ミルクシチューを頬張る見習いは目を丸くしている。「高位貴族がお金を持って来て、それが赤ちゃんに回る?」「それが“若返り経済”よ」——侯爵夫人はウインクした。
午後の施術枠は常に満杯。夕刻には瓦版屋が早刷りの号外を持って駆け込み、〈初日完売・二か月先まで予約〉と大見出しを広げた。通りの向かいでは、露店商が「聖女クッキー」や「若返り蒸しパン」を並べ、客の列が隣接する薬草市場にまで伸びていく。夕陽に照らされた看板がルビーの光を反射し、石畳に淡紅の影を落とした。
夜、閉店の時刻を迎えると、スタッフ一同がホールに集まり、レミーが小さな鐘を鳴らす。
「今日、皆さんが磨いた魔法と笑顔は、十年後二十年後の王都を変えていきます。疲れはありますか?」 「ありません!」見習いたちの声が弾む。「でも足が棒です!」 「棒になった足には若返りマッサージを。自分の身体を労りながら、明日もお客様に光を届けましょう」
解散後、館に残った灯は窓枠のルビーが屈折させる淡い薔薇色だけ。レミーは帳簿を閉じ、階段を上る。最上階の小部屋——それは彼女の個人研究室であり、窓辺の揺籠が十台並ぶ“夜間保育室”でもある。眠りについた赤ちゃん兵士たちがゆったり寝息を立て、時折「んん……」と泣き声を漏らす。その度に、魔力制御ランプが柔らかな蒼を灯し、安眠の波動を放つ。
取り残された静寂の中、レミーは窓を開け、遠くの王城を見やった。尖塔の上階にもまだ灯がともり、王子が夜泣き当番に奮闘しているのが窺える。街路に響くのは蹄ではなく、夜警と乳母の腕に抱かれた赤子の静かな鼻息。かつて剣戟の気配が漂っていた王都の夜は、今、人間と人間をつなぐ子守歌で満ちている。
レミーは胸元の護符に指先を当て、そっと呟いた。
「戦わずに生を守る。それが私の魔法。そして、この館は——命が未来へ走り出す跳ね橋」
星明かりが看板のルビーを優しく照らし、その反射が研究室の天井を走った。満ち足りた静けさの中で、若返り魔法士の新しい道は、さらなる光を呼び込む準備を整えていた。
開店から三週間が過ぎ、王都の街路は《メゾン・ド・ルミエール》を中心に“若返り経済圏”と呼ばれる新しい賑わいを見せていた。ハーブ問屋の売り上げは二割増し、菓子職人たちは「ぷるつやゼリー」を開発し、薬草市場には「レミー式マッサージ用オイル」の量り売り屋台が軒を連ねる。そんな市井の噂を、王城の高窓からこぼれる灯火が見守っていた。
ある晩、王子エグバルトは〈子守歌塔〉とあだ名される最上層の部屋で、眠りの浅い赤子の揺籠を揺らしていた。夜泣き当番四巡目。哺乳瓶の抱き方にも慣れ、人肌の温度もすぐ見極められるようになった。だが今夜の彼には、揺籠より重い案件が待っている。侍従に渡された漆黒の小箱の封蝋には、摂政アンセルム公の紋章が刻まれていた。――「王統を強固にするための御進言」。
書面の要旨は明快だった。
王子殿下、若返り聖女との婚約を正式に再設定すべし。
理由はいくらでも挙げられる――民心は聖女を王室の一員と見なしており、彼女の美容経済が国家歳入の新柱となり、フェーリス軍との停戦維持に彼女の存在が不可欠である、と。
「いやはや、政治はいつも数字と評判を好む……」
エグバルトは小箱を閉じ、揺籠の中でほわりと笑った赤子の頬をつついた。「きみは数字でも評判でもない。けれど皇太后は、きみがいなければもう眠れないらしいぞ」
***
翌日の昼下がり。《メゾン・ド・ルミエール》の二階テラスは午後の陽を浴びて、水晶テーブルが虹色にきらめいていた。花壇のビロード草には蜂が集い、遠くから奏でられるリュートの旋律が柔らかく吹き抜ける。レミーは施術を終えて紅茶を注ぎ、次の予約に備えてノートに魔力循環の微調整をメモしていた。そこへ、館の受付嬢が駆け上がり、息せき切って報告した。
「れ、れ、殿下の公式使者が二十名ほど! 王家紋章旗を……あの、玄関を覆う勢いで……!」
レミーは眉を上げた。
「予約リストに『王家代表団』とは書いていませんけれど」
「突然のご来館です。『至急、奥の大ルームを空けられたい』と……!」
タイルに反射する光が一段と強くなり、空気がぴんと張り詰める。レミーはティーカップを静かに受け皿に戻した。
「では――お通ししましょう。折角ですから、一番広いミラージュ施術室へ」
***
黄金装飾の軍靴音を響かせて通されたのは、エグバルト王子その人だった。侍従長、近衛隊長、宮廷書記官が後に続き、施術室の天蓋の下で整列する。レミーは礼を取った。王子は幼児用のスタイを襟元に挟んだ半礼服で、胸元の白が粉ミルクの染みでまだらになっている。
「本日は若返りを、とのご依頼でしょうか? 疲労のマーカーが頬に見えますわ」
レミーの平常心の声音に、王子は苦笑を浮かべた。「看破されるとは……夜泣きの連勤明けでな。だが今日は別の用件だ」
侍従長が巻物を開く。
「王家布告案第一九五六号。『若返り聖女レミー・ライフリィーを王太子妃に迎え、王家護持の奇跡とする』。王子殿下の御名のもと、明朝閣議へ提出予定でございます」
室内の空気が止まった。助手の青年が持つ霊水瓶がかすかに震える。レミーは深呼吸をひとつ。
「“護持の奇跡”とは、育児庁の設置と赤子兵士の養育が順調だからこそ。それで充分ではございませんか?」
王子は一歩前へ進む。紫檀色の床に影が伸びる。
「そなたが館を開いて以来、王都の歳入は三割増し。フェーリスも再侵攻の口実を失い、他国からの巡礼も絶えぬ。――だが、真の安定には“法的な地位”が要る。そなたを王家に迎え、永遠に守る。余はそう決めた」
言い切った声はかつての威圧ではなかった。だが柔らかい響きがかえって重い。レミーはゆっくり首を振った。
「お断りいたします」
侍従長が息を呑む音がした。王子の声は低くなった。
「王命であると告げたら?」
「たとえ王命であっても、私は私の意思で未来を選びます」
王子の肩がわずかに跳ねる。助手たちが背を正し、部屋のルーンランプが緑から蒼へ揺れた。レミーはさらに続ける。
「殿下が声を上げ、哺乳瓶を握り、夜泣きをあやす姿を私は尊敬しています。でもそれは――殿下が“父”であるからこそ尊いのです。婚約という形で私を囲い、奇跡を所有物にしようとすれば、その価値は剣と同じ硬さに戻るでしょう」
王子は沈黙したまま視線を落とした。その視線の先には、助手が運んできた消毒用の真鍮盆。盆の上で小さな哺乳瓶が転がり、乳首がかすかに鳴った。
「……奇跡を所有物にせず、共に守る道は?」
「“契約”ではなく“協定”ですわ。王家とメゾン・ド・ルミエールは相互支援の協定を結び、私は若返りと育児庁へ魔法指導を続ける。その代わり、王家は里親制度と粉ミルクの安定供給を保証する。肩書きに拘らず、互いの責務で信頼を築くのです」
王子は肩で息をついた。粉ミルクの染みがまだらな襟元を指で払う。
「……まるで大臣の答弁のようだな、レミー」
「光栄です。でも、育児は政治より粘度がありますから。――殿下が本当に必要とするのは、王妃ではなく“当番母”でしょう?」
助手たちが吹き出しそうになるのを慌てて堪える。王子はついに笑い声を漏らし、額にかかる金髪をかき上げた。
「当番母、か。ならば余が求めるのは婚姻ではなく、当番表にそなたの名前を書き加えることかもしれぬ」
「ええ。私の当番は“月曜、木曜、偶数週金曜深夜”でいかが?」
「交渉成立だ」
ふたりは握手を交わした。王子の掌は育児で荒れ気味だったが、温かかった。
侍従長が巻物をくるりと丸め、書記官は新たな文書用紙を広げる。そこに記されるのは、王家と若返り館が結ぶ史上初の《生育協定》だ。王子は在位の証を示す印章を押す前に、スタイの染みを気にして上衣を脱ぎ捨て、白シャツ姿でペンを取った。
外では春の夕立が始まり、サンローズの花びらを濡らしながら石畳を洗い流す。レミーは窓越しにその雨を眺め、深く息を吐いた。
「所有しなくても、人は支え合える。そして支え合うほど、若返りは広がる」
雨音にかき消えないその呟きは、施術室のルーンランプに反射し、蒼の光となって天井を行き交う。やがて光は王子の印章に触れ、朱のインクをきらめかせた。
“若返りの奇跡”は、人を鎖で繋がず、手と手で輪を作る。
その輪に立ち会った書記官は、後に回想録でこう記す。
> 「王子殿下はその日、剣を持たずに印章を取り、王妃ではなく当番表を得た。
奇跡を所有せず、分け合う未来の幕開けであった」と。
こうして王子の再求婚は、正式な「拒否」と、柔らかい「協定」へ姿を変えた。リュートの音色が外廊下に戻り、窓外の雨が静かに小止みになる頃、王都は再び揺籠のような温もりを取り戻していた。
協定締結から十日後の早朝、王都に低い雷鳴のような噂が走った。――「国王自らが“聖女との御成婚”を正式裁可したらしい」。
その日、〈メゾン・ド・ルミエール〉の施術予約は夜まで満席だったが、開店と同時に異様な一団が玄関を塞いだ。漆黒の礼服に紅い襟章をつけた老臣たち、そして手に赤漆の勅詔筒を捧げ持つ近衛副隊長。
「王命を伝達する。若返り聖女ライフリィー子爵令嬢、直ちに謁見の間へ参上されよ。拒めば不敬罪に処す――」
硬い宣告に、受付嬢が真っ青になった。だが奥から現れたレミーは微笑を崩さない。「王子殿下からは昨夜まで何も伺っておりませんが?」
老臣のひとりが鼻を鳴らす。「摂政アンセルム公以下、枢密院が奏請し、陛下が親裁なされた。王子閣下も御意に背けまい」
“摂政が動いた”――レミーは即座に理解した。協定に不満を抱く保守派が、老王を担いで強行に押し切ったのだ。
「わかりました。では王命を確認の上、こちらも『儀礼』を尽くさせていただきます」
彼女は副隊長から勅詔筒を受け取ると、玄関ホールを隔てた小待合室へ招き入れた。室内には消毒薬の匂いと淡いリラ色の壁紙。壁際の籐椅子に老臣たちを座らせ、霊水の小瓶入りトレイを差し出す。「長旅でお疲れでしょう。喉を潤しながら、しばし施術の見学を」
***
すぐ隣の施術室では、軍務省秘書官の若夫人がベッドに横たわっていた。薄いクマと乾燥が目立つが命に別状はない。レミーは指環を鳴らし、霊水を霧に変える。淡桃の光が夫人の肌を撫で、十数秒で目尻の皺が溶けた。鏡を覗いた夫人は小さく悲鳴を上げ、涙ぐむ。
「若返りとはかくも穏やかで、無害なものですの」
レミーは横の老臣たちへ振り返る。「――ですが方向を反転させれば、穏やかでなくなる」
指環が再び光り、霧の一部が副隊長の佩刀に絡んだ。硬質な鉄がわずかに軋み、次の瞬間、長大な軍剣は木製のガラガラに変貌した。鈴のような玉がころんと鳴る。副隊長は蒼白になり、刀を取り落とす。
「御覧のとおり、私は《若返り》しか扱いません。ですが“保身のための暴発”は制御しきれないこともありえますわ。もし私に人生を赤ちゃんからやり直させたければ、どうぞ王命を強要なさって」
老臣の頬が引きつる。レミーは勅詔筒を開き、一礼した。
「……王家への敬意として、公式な回答を三日以内に差し上げます。ですが本日中の召喚命令は、施術の安全管理上お受けできません」
副隊長は震える声で「……王命だぞ」と繰り返したが、その背後で霧化した剣が再び鉄へ戻ることはない。赤子用玩具となった剣を見つめる他なかった。
***
使節団が引き揚げた昼下がり、《若返り経済圏》の中核はまるで蜂の巣のようにざわついた。瓦版屋が号外を刷り上げる。「王家、聖女との婚儀を再強要か?」「若返り館、王命に猶予願い」――見出しが並ぶと、民衆は口々に異論を唱える。
「王子殿下と協定結んだばかりじゃないか!」
「赤ちゃん育児で忙しい王家が何でまた結婚騒ぎだよ」
粉ミルク屋台の主婦たちは寄付箱に「レミー様を守れ」と札を立て、学士院の魔法研究員は“若返りと人格保持”の論文を即日公開して王命を暗に批判した。
***
その夜、王城の子守歌塔。王子エグバルトは赤子を揺籠に寝かせると、走って戻った侍従から報告を受けた。「……殿下。聖女様は王命を受理せず、三日後に正式回答を届けると」
王子は額を押さえ、短く呻く。「摂政め……」
だが次の瞬間、彼は寝息を立てる赤子を見やり、決意を固めた。王笏を掴み、夜半の回廊を直進する。向かうは枢密院執務室――摂政アンセルム公の私室だ。
扉を叩かず乗り込む。老摂政が驚愕の声を上げる前に、王子は笏を卓に打ちつけた。
「余が王家の威光を守ると誓ったのは、命を所有するためではない。育むためだ。――勅詔案を破棄せよ」
議論は夜明け近くまで続いたが、ついに摂政は折れた。高齢の国王は長期療養中であり、王子が後見権を持つ。公文書は焼却され、“強制婚約”は幻となった。
***
三日後。レミーが王城へ届けた正式回答書には、こう記されていた。
> 〔協定条項追加〕
1.王家は若返り魔法士レミーを“独立機関・生育顧問”と承認し、いかなる婚姻・封爵をもって拘束しない。
2.王家は育児庁運営に必要な資金と人員を保証する。
3.若返り館は王国全土に施術拠点を広げ、技術を平等に提供する。
署名欄には王子エグバルトの名と、血判のように濃いインクが並んだ。
広場で署名が公開されると、群衆から喝采が上がり、貴婦人会の夫人たちは紙吹雪を鞄から撒いた。「決まりましたわ! 結婚じゃなくて協定!」――その声に、桜に似たサンローズの花弁がぱっと舞い上がる。
レミーは群衆の後ろで深呼吸した。護符が胸で温かく脈打つ。
「強要の鎖はほどけましたわね」
横で粉ミルク缶を抱えた王子が苦笑した。
「鎖より、おむつの紐の結び方で手一杯だ」
赤子の笑い声が二人の会話をかき消した。若返りの街は、今日も子守歌のような喧騒で満ちている。
深夜、王城西棟の回廊は青白い月光だけを灯していた。育児庁当番を終えたエグバルト王子は、哺乳瓶の洗浄室を抜け、濡れた袖を絞りながら階段を下りて行く。甲冑のない足取りは軽いはずなのに、胸の奥に残る違和感が歩を重くした。
──あのとき、彼女は本気だったのか。
広場で署名式が終わったあと、レミーは笑顔で握手しながら囁いた。
「ご強要なさるようなら、殿下の人生を赤ん坊からやり直してもよろしくてよ?」
冗談とも本気ともつかぬ声。だがエグバルトは、屋内灯より鋭い何かをそこに感じ取った。
王子は迷わず〈メゾン・ド・ルミエール〉へ向かう裏通路を選び取った。城壁裏手の渡り廊下を抜けると、淡いルビー灯が夜霧に浮かぶ。館は営業時間を過ぎ、入口の鎧戸は半ば閉じられているが、上階の小窓にはまだ明かり。そこは夜間保育室、レミーの研究室も兼ねる場所だ。
外階段を上り、小窓を軽く叩く。なかで揺籠を揺らしていたレミーが振り向き、驚きより先に笑った。
「深夜のご来館とは、お熱でも?」
「違う」エグバルトは囁き声で返した。「話がある。赤子を起こさぬよう、下の回廊へ」
***
月明かりに濃淡を刻まれた廊下で、二人は向かい合った。シーツと蜜蝋の匂いがまだレミーの袖口に残る。王子は気づき、声を潜めた。
「……あの言葉。余の人生を赤ん坊に戻す? 脅しか」
レミーは肩を竦め、闇の向こうの王城尖塔を遠目に眺めた。
「脅し、といえば脅し。けれど殿下が隣国へ向けた“返還しなければ再戦”と同じ交渉ですわ。命を人質にする代わりに、未来をちらつかせる」
「命を奪うより残酷だ」
「ええ。だからこそ言葉だけで済むのです。殿下が責任を投げない限り、私は魔法を暴走させる理由がない」
王子は腕を組み、石壁に背を預けた。「もし余が里親制度や育児庁を途中で放棄すれば?」
「そのときは――王国全土の乳児約十二万、民へ返す魔法で充分です」
月光の下でも彼女の瞳は冗談とも真顔とも判別し難い。王子は息を吸い、思わず笑った。
「恐ろしい。余は剣を持たぬまま、国家最大の戦略魔法と結婚交渉をしているようだ」
レミーは小さく首を振った。「剣ではなく、“泣き声”ですわ。赤ちゃんの泣き声に耐えられるかどうか――それが国家運営の覚悟を測る試金石」
しばし沈黙。回廊の外で夜番兵がランタンを掲げ通り過ぎる。遠くの競技場から子馬のいななきが風に乗ってきた。王子は足元の石畳を見つめ、低く問う。
「……余はまだ君の信頼に値しないか?」
「信頼はしています」レミーの声は柔らかい。「でも所有はさせません。奇跡も、人も。育て、手放し、共有する――それが若返り魔法と同じリズムです」
王子の胸に、久しく忘れていた熱が灯る。剣でも王笏でも得られず、夜泣きの揺籠で初めて掴んだ微かな自負。
「それでもいつか……所有ではなく、隣で歩むことは?」
「隣は空いていますわ」レミーは微笑した。「ただし揺籠を抱えたまま転がり続ける覚悟があるなら」
王子は短く息を吐き、ポケットから木製のガラガラ――かつて剣だった遺物――を取り出してみせた。
「今夜、これを赤子に返すところだ。名残だと思っていたが、手放す時らしい」
レミーは頷き、指環でそっと触れた。かすかな光が走り、ガラガラが元の鉄剣の形に戻る……かと思いきや、つやつやした銀の匙に変わった。柄には藍のリボン。
「離乳食が始まる頃にお使いください。殿下の初めてのスプーンとして」
王子は目を丸くし、次の瞬間、声を殺して笑った。刀身より短い“王家最初の銀匙”。月明かりの反射が、剣より柔らかに回廊を照らす。
「脅しは終わりか?」
「ええ。もう恐れずとも、殿下は父ですもの」
銀匙の影が二人の間で揺れ、石壁に映る。王子は肩の力を抜き、夜風を吸った。
「ありがとう、レミー。当番表、見直そう。余の夜泣き当番が足りぬようだ」
「週三じゃ足りませんわ。父は毎晩が当番です」
笑い合い、二人は踵を返す。館の小窓から漏れる柔らかな灯と、王城尖塔の遠い黄光が夜気で交差し、王都の空に静かな弧を描いた。
脅しも剣も過去となり、残ったのは揺籠を揺らす掌と、未来を混ぜる銀の匙だけだった。
王都アストラリアの初夏は、朝靄が抜けると同時にサンローズの香りが石畳の隙間から立ち上る。街角の瓦屋根を淡紅に染めた陽光が、窓という窓を押しひらき、どこからともなく揺籠を揺らす木製の玩具がぶつかり合うちりりという音を運んできた。大通りの露店は夜明けと同時に火を起こし、「王子印粉ミルク・半樽十枚!」「聖女公認マッサージ薬草入りシナモンパン!」と威勢よく呼び声を上げる。早晩、王都を埋め尽くす赤ん坊たちが歯の生えかけをむずがり始め、甘い匂いのする柔らかなパン生地を好むようになったせいだ。
その喧騒から離れたライフリィー邸のバルコニーで、レミー・ライフリィーは高級紅茶アール・カリーナをゆっくりすする。摘みたてミントを浮かべた淡琥珀の液面が風に揺れ、光を屈折させて頬に柔らかい輝きを映した。
「ふう……朝日と水分とカフェイン。お肌の三種の神器ですわね」
独り言に応じるように、窓内側の施術コーナーから魔力律動ランプがひと鳴り。若返り魔法の同期チェックが正常だとやんわり告げる。
テーブルには今日一日のスケジュール帳。午前は王立医院の皮膚病研修に出張し、午後は育児庁に設けた離乳‑魔力栄養調整部局で講義。夜はメゾン・ド・ルミエール本館に戻って予約客を二名だけ受け、「父当番」エグバルト王子が乳児たちの寝かしつけを終える頃、合同ミーティングを開く――そこまで予定を書き込んでも、ページはまだ余白がある。
「忙しくて目が回るかと思えば、案外、呼吸の仕方さえ変えれば時間は伸びますわね」
レミーは指環をひと撫でし、胸元の護符を確かめた。ピンクの布の縫い目がすり減り、署名インクが薄れてきたが、それだけ多くの人の祈りが日常に溶け込んだ証拠でもある。
そのとき、邸内の呼び鈴がちりんと小さく鳴った。執事を介して届いたのは王立育児庁からの書簡だ。封を切ると、中には上質紙に整った筆致でこうしたためられている。
> 「本日付で“十万人育児特別庁”は仮設段階を卒業し、常設官庁《未来発育省》へ改組する。
第一王子エグバルト、正式に次官を辞し、育児庁長を引き続き務める。
レミー・ライフリィー顧問は初代“発育大使”に内定。就任式は来週月曜朝。
追伸
儀式後すぐ離乳用ミルクの新味テイスティングがある。失敗したら私の責任ということで、味覚の鋭い貴女に試飲を頼みたい――エグバルト」
レミーは思わず吹き出し、紅茶を危うくこぼすところだった。王子の筆跡は几帳面なくせに追伸になると途端に崩れ、余白ギリギリまで「よろしく頼む(文字サイズ大)」と書き足されている。
「……真面目と不器用のバランスが可愛らしいですわね、殿下」
誰にともなく呟いていると、邸の裏庭から若い助手たちの声が上がった。「先生、試作ミルクシチュー第三号できました!」「ベビーも大人もいけます!」と鍋の蓋を叩いている。
「おっと、味見係は忙しいですわね」
レミーは椅子を立ち、深呼吸。朝の空気はまだ冷たく、その冷たさが頬の張りをキュッと引き締めてくれる。
階段を下りると、助手たちが囲む大鍋から湯気が立ち昇る。味見用にすくった木匙に口をつけると、甘い香りの後ろに初夏のハーブがふわりと残る。
「合格。けれどカルシウム強化のためにユニコーンミルクを一滴。香りが立ちます」
助手たちは一斉にメモを取り、大鍋に向き直った。その横では孤児院育ちの研修生が揺籠の赤子にスプーンを差し出し、まだ歯もない口がとろんと笑っている。
レミーは思わずその場で足を止め、その光景を胸に焼き付けた。――血の代わりにミルクが流れる国。
剣ではなくスプーンを振るい、命を削るより増やすことに全力を注ぐ王子と民衆。ほんの数ヶ月前には想像もできなかった未来が、今や日常として根を張り始めている。
裏門から通りへ出ると、サンローズの花びらが風に乗り、レミーのスカートの裾を撫でた。遠く、市庁舎前の掲示板には「里親登録・第七次募集開始」の張り紙。すでに列が伸び始め、鍛冶屋や学士や農婦が我先にと書類をもらっている。
粉ミルク屋台を通り過ぎるとき、店主が声をかけてきた。「聖女様の新作ハーブティー入りミルク、今日は十瓶追加だよ」。レミーは人差し指を立て、「まだ聖女ではありません」と返す。店主は笑い、「じゃあ“育児大使様”で!」と看板を書き換え始めた。
時計塔が十時を打つ。育児庁講義の時間まで、あと一刻もない。レミーは風をはらむクロークを翻し、大通りを駆け出した。
「――今日もお肌、ぷるっぷるですわ!」
自分で自分を鼓舞する軽口が、紙吹雪のように街に散った。石畳を跳ねる足音は、子守歌とリュートと粉ミルク鍋の煮える音に溶け込み、王都の空気をいっそう柔らかく震わせる。
未来は決して予定表の通りには進まない。けれど剣を手放し、揺籠を抱いた人々がつくる偶然の網目は、壊すより早く繕い、奪うより多く育む。――若返り魔法士レミーは、今日もその網目の結び目をそっと磨きながら、王都の新しい歴史を歩き出す。
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あなたの元に届くのは、私が居なくなった遠くない未来。
どうか笑っていて。
どうか哀しまないで。
どうか、どうか、あなたが幸せでありますように。
そう願いを込め、愛も込めて、どうかどうか、愛しいあなたへ届きますように。
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