水仙の鳥籠

下井理佐

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第一話 ある兄弟の話

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「嘘ついたら 針千本 飲ます」
 
 今日は雨が降っているのだろう。
 雨粒が落ちる音が響いている。
 格子に這って進み、隙間から手を出し水滴に触れる。
 この遊郭に連れてこられてから、もう六年が経つ。
 
翡翠ひすい
 
 兄に呼ばれた、そして今では決して呼ばれない名前を誰にも聞こえない声でささやく。
 客に執拗に責められた体がジクジクと痛むせいで、まともに寝付けやしない。
 こうしてぼうっとしているだけで日は暮れ、また知らぬ男に抱かれるというのに。

「だれか、」

 そこまで呟き、自嘲する。
 誰に助けを求めると言うのだろう。
 貪り尽くされた体など、誰も見向きやしない。
 
「必ず、迎えに行くから」 
 
 かつて兄は苦虫を噛み潰したような顔で吐き出すように言った。
 
「兄さん、待ってる」
「ああ、約束だ」
「「指切った」」
 
 あの時交わした約束は、未だに果たされていない。
 
「……ぁ」

 不意に涙が溢れるが、何の涙なのか皆目見当も付かなかった。

◇ 
 
 弟の翡翠が廓に売られてもうすぐ六年が経つ。
 もう十六歳になっている頃だ。
 あの年のことは今でも夢に見るぐらい、鮮明に頭に焼き付いている。
 夏だというのに肌寒く、いつまでも雨が止まなかった。
 田畑がまともに実るわけもなく、苦労して手に入れた苗は腐り枯れ、秋に実をつけたものはほんの僅かだった。
 村で備蓄したものは細やかもので、全員が冬を越せるほどの量はなかった。
 村の全員で集まり、話し合う。結論はあっさりと出た。

「誰かを犠牲にしよう」

 視線が俺たちに向けられた。
 所有する田畑は誰よりも小さい上に、家族は俺と翡翠の二人しかいない。
 それから話し合いは恐ろしいほどにまとまっていった。

「兄より弟の方が」

 皆好き勝手なことを口々に言い出す。
 横に座っていた翡翠が、俺の袖を震えた手で握る。
 翡翠を怖がらせないようにそっと肩を抱く。
 負けじと声を荒げるが、皆誰も取り合わなかった。
 
「娘はそろそろ嫁に行ける年だから」
「うちの息子は畑仕事に必要だから」

 俺は腹が煮え繰り返りそうになる。
 議論は火をくべたように燃え上がる。一向に結論が出ない中、沈黙を貫いていた村長が重い口を開く。

「翡翠はどうしたい」

 残酷なことだ。
 よりによって槍玉に挙げられている本人に結論を出させようというのだ。
 翡翠はか細い声で答えようとする。

「俺は……」
「翡翠!言わなくていい!」
「わしは翡翠に聞いておる」

 奥歯を噛み締めると、殺さんばかりの目つきで村長を睨みつける。

「俺、行きます」

 その場に凛とした声が響く。
 俺は翡翠を見る。
 その目はあまりにも澄み、凪いでいた。

「そうか、迎えは明日来る。準備をしなさい」

 村長たちは俺たちの顔を見ずに、そそくさとその場から立ち去っていく。
 残された俺はその場から動けず、項垂れる。
 出した声は思いの外震えていた。

「なんで、行くだなんて」

 俯いたせいで涙が流れ落ち、膝の上で握りしめた拳を濡らしていく。

「兄さん」

 翡翠の小さい手が濡れた俺の拳をそっと包み込む。

「このままじゃ、兄さんの居場所がなくなっちゃう」

 こんな時でも優しい言葉をかける翡翠が愛しいと思うと同時に、申し訳なく思う。
 俺は日が暮れるまで顔を上げることができず、ただただ涙を流すことしかできなかった。


 
 深夜。
 いつもは別々の布団で眠る翡翠が、そっと己の布団に潜り込む。

「寒いから一緒に寝て」

 快く己の布団に招き入れた。
 翡翠は今年で十歳になる。病気がちで家にいることが多いためか、村の子供達と比べてとても細い。
 だからこそあの場で槍玉に上がったのだろう。
 向かい合って寝る翡翠にそっと小指を差し出す。

「翡翠、指出して」

 翡翠も俺に習うように小指を差し出す。
 俺は小指同士を絡めると、きつく結ぶ。

「必ず迎えにいく。絶対に、絶対に」

 翡翠は目を見開くと、涙を堪えながら何度も何度も頷いた。
 努めて笑顔で浮かべるとできるだけ優しく歌う。

「「ゆびきりげんまん 嘘ついたら 針千本 飲ます」」

「「指切った」」

 俺たちはきつく抱きしめ合った。
 
 翌朝。空は憎たらしいほどの快晴で、今までの寒さや雨はなんだったのかと思うほど穏やかな日和だった。
 女衒 ぜげんが村の入り口までやってくると、己の罪悪感を薄めようと村人が次々と見送りに来た。
 口々に翡翠に優しい声をかけるが、どれも本心ではないだろう。
 女衒ぜげんが翡翠を品定めするように見る。
 
「顔は悪くないな」

 ニヤリと笑うと重たい銭袋を村長に渡す。
 俺は、たったこれだけか。と思った。
 翡翠を失う対価と釣り合わない。
 腹に底からジクジクと痛みを伴う怒りが湧いてくる。

「兄さん、行ってきます」

 翡翠の細い指が俺の手に触れる。
 俺は翡翠の手を力強く握ると、目にその姿を焼き付ける。

「待っててくれ、必ず、必ず」

「うん、待ってる。ずっと」

 女衒ぜげんが翡翠の肩を掴み、引きずるように連れていく。
 追いかけたい気持ちを抑えて見送る。
 俺も村人と同じ卑怯者だ。
 翡翠が見えなくなるまで、俺は後悔と怒りと悲しみに満ちた目で見送った。
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