記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま

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医務室に侍女として残る。
そう決まった瞬間から、喉はずっときつく締めつけられていた。彼に嘘をついたという事実が胸の奥をちくりと刺していたからだ。
しかし、その罪悪感を背負っても、彼のそばにいたかった。

「殿下の身の回りのお世話は最低限で構いません。それと、余計なことはしないように」

ルシオンは表情こそ繕っていたが、視線の端々に不快感と警戒心が滲んでいた。そればかりか、念押しのように言い残して部屋を出る。
彼の不安定なリズムの靴音が遠くまで響いていき、やがて、それは静寂に呑み込まれた。

二人きりになった医務室で深く息を吸う。二人だけの空間は懐かしくもないはずなのに、少しばかり緊張しているらしい。

「……少しいいだろうか」

その緊張に身を震わせていれば、ふいにサフィルの呼ぶ声がした。
振り返れば、サフィルが枕元からこちらを見ている。記憶を失ったはずの彼の蒼い瞳が揺れる。

「……はい、殿下」

「名前はなんと言う」

「……セレナと申します」

名を告げれば、一瞬、彼のまつげが震えた。
忘れているはずの名に、どこか引っかかっているような……。そんな失われた何かに気づいたような気配がほんのわずかに漂う。

「私は君のことをなんと呼んでいたのだろうか」

「……そのままの名で呼んでおりました」

「……そうか。随分と親しかったのだな。これから、よろしく頼むぞ、セレナ」

呼ばれた名は昔より優しく響いた。
もう呼ばれないかもしれないと思っていたのに、とそれだけで嬉しくなり、思わず上機嫌に言葉が出る。

「ご気分はいかがでしょうか?」

「分からない。体は痛まないが、胸が……落ち着かない」

彼は目を閉じ、指先で胸元を押さえた。
服越しに触れるその仕草が、まるで心の奥を手探りするようで、息を呑む。閉じられた彼のまつげが細かく震え、喉の奥でかすかな息が揺れた。

「病のせいだろうか」

彼はふっと笑い、まるで冗談めかしのように掠れた声で言った。

「……そうかもしれませんね。薬を用意しましょう」

静かに差し出した杯を、サフィルはしばし視線で追い、やがて、その白い指が器を包むと、薬液が小さく揺れ、淡い香りがふっと立つ。
彼は一息つき、ゆっくりとそれを喉へ流し込む。息を吐く音さえ、弱った心臓の鼓動みたいに細い。

沈黙が落ちる。
その静けさを破ったのは、サフィルのふとした問いだった。

「君は、前から私の世話を?」

「ええ。多少は」

「そうか」

彼はそれ以上問い詰めなかった。
けれど、何かを探るような眼差しが向けられ続けている。探るようでいて、触れそうで触れない距離で。
微熱を湛えた瞳が私の瞳を静かに射抜いてくる。
そのまなざしの奥に揺れる何かがある。疑念か、記憶の残滓か、それとも別の感情か。

それは分からないけれど。
呼吸のたびに、彼の視線が肌へ落ちる影のようにまとわりつくのが酷く安心した。
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