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カップの底に見えるのは
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「……ふー……」
依頼された記事を書き上げ、亜嵐はため息を吐いた。
少し痛む眉間を揉みほぐして、周囲を見遣る。
(……静かだな)
今日は金曜日――毎週のように通ってくる湊と美緒が最後に顔を出してから、五日が経っている。
湊は平日でも帰りに寄ってくれることがあるが、今週は実習で忙しいと言っていた。
「…………」
亜嵐にとってこの静けさは、伴侶のように連れ添ってきたものだ。
――いや、幼い頃は違っていたはずだ。
しかし、成長するにつれ、彼の周囲から音は遠ざかっていった。
そして、それを当たり前と思うようになった。
藤宮湊という青年と出会ったのは、ほんの偶然だ。
しかし今になってみれば、運命だったとも思える。
物事を素直に受け入れ、咀嚼し、自らの血肉に変えていく姿は、見ていて清々しい。
実直で思い遣りがある性根も心地よい。
それだけならば、きっとこんなに惹かれはしなかった。
きらきらと光る彼の瞳の奥に――ほんの時折現れる仄暗さを、亜嵐はよく知っていた。
鏡を見れば、いつも自らの目に浮かぶものと同じだから。
(湊は私と似たところがある。そして――全く違う)
自分は彼のように光に満ちることはできなかった。そうしなかったと言ってもいいかもしれない。
どちらにしても、亜嵐にはないものを湊は手に入れていた。
(存在すら眩しいだなんて……そんな感情を、この私が抱くなんてな)
亜嵐は自嘲の笑みを浮かべた。
***
階段を下りて、ローズメリーに顔を出す。
「あら。お仕事は終わったの?」
店内に客はおらず、静寂に紅茶の香りが混じり、揺蕩っている。
「今日はもう閉めることにするわ。その前に――ティータイムはいかが?」
「はい。お願いします」
(この人には、敵わないな)
翠は、亜嵐がそう認める数少ない相手の一人だ。
店の札をクローズド変える背中を眺めて、亜嵐はわずかに肩を竦めた。
このところ疎遠になっていた『孤独』が近付いた自分を案じて、ティータイムに誘ってくれたに違いない。
(また心配をかけてしまったか……)
自責の念に駆られた、そのとき――。
「あらあら。そんなに急がなくて大丈夫よ」
重たい木の扉が開き、湿り気を含んだ夜の空気が流れ込んできた。
「す、すみません、こんな遅くに」
「いいのよ、気にしないで。――亜嵐さん、藤宮くんが来てくれたわ」
その瞬間。
亜嵐の世界は一気に熱を持った。
心臓がどくどくと鳴り、血液が体中を駆け巡る。
「亜嵐さん、こんばんは。実習、無事に終わりました!」
そう言って微笑む湊につられて、亜嵐の口元も自然と弧を描いた。
「お疲れだったな、湊」
「はい。……あれ、亜嵐さんも疲れてませんか?」
とことこと近付いてきた湊は、亜嵐の眉間にそっと手を当てた。
「もしかして、締め切り前とか……ですか?」
触れられた部分から、温かなものが流れ込んでくる。
さっきまで感じていた痛みは、あっという間に消え去っていった。
「……ああ。だがもう終わったさ、心配はない」
その言葉に、湊はほっとした笑みを浮かべる。
「ちょうど亜嵐さんとお茶にするところだったのよ。藤宮くんも一緒にいかが?」
和みを取り戻した店内に、鈴を転がすような翠の声が響いた。
「いいんですか?」
その問いに、亜嵐は大きく頷く。
「もちろんだ」
「じゃあ、お願いします!」
「ふふっ、すぐに淹れるわね」
穏やかな声を背に、窓際のテーブルまで並んで歩く。
その靴音は、弾むようなリズムを刻んでいる。
「実習はどうだった?」
「それがですね……」
成熟した茶葉の香りが、二人を包み込む。
「……ありがとう、湊」
「え?」
ティーカップに揺れる琥珀色を見つめて、亜嵐は小さく呟いた。
そこに映っていたのは、寂しい過去ではなく――今、隣で笑う光だった。
秘密はいつもティーカップの向こう側 BONUS TRACK
カップの底に見えるのは / 完
◆・◆・◆
秘密はいつもティーカップの向こう側
本編もアルファポリスで連載中です☕
ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。
秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編
・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」
シリーズ本編番外編
・番外編シリーズ「BONUS TRACK」
シリーズSS番外編
・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」
シリーズのおやつ小話
よろしければ覗いてみてください♪
依頼された記事を書き上げ、亜嵐はため息を吐いた。
少し痛む眉間を揉みほぐして、周囲を見遣る。
(……静かだな)
今日は金曜日――毎週のように通ってくる湊と美緒が最後に顔を出してから、五日が経っている。
湊は平日でも帰りに寄ってくれることがあるが、今週は実習で忙しいと言っていた。
「…………」
亜嵐にとってこの静けさは、伴侶のように連れ添ってきたものだ。
――いや、幼い頃は違っていたはずだ。
しかし、成長するにつれ、彼の周囲から音は遠ざかっていった。
そして、それを当たり前と思うようになった。
藤宮湊という青年と出会ったのは、ほんの偶然だ。
しかし今になってみれば、運命だったとも思える。
物事を素直に受け入れ、咀嚼し、自らの血肉に変えていく姿は、見ていて清々しい。
実直で思い遣りがある性根も心地よい。
それだけならば、きっとこんなに惹かれはしなかった。
きらきらと光る彼の瞳の奥に――ほんの時折現れる仄暗さを、亜嵐はよく知っていた。
鏡を見れば、いつも自らの目に浮かぶものと同じだから。
(湊は私と似たところがある。そして――全く違う)
自分は彼のように光に満ちることはできなかった。そうしなかったと言ってもいいかもしれない。
どちらにしても、亜嵐にはないものを湊は手に入れていた。
(存在すら眩しいだなんて……そんな感情を、この私が抱くなんてな)
亜嵐は自嘲の笑みを浮かべた。
***
階段を下りて、ローズメリーに顔を出す。
「あら。お仕事は終わったの?」
店内に客はおらず、静寂に紅茶の香りが混じり、揺蕩っている。
「今日はもう閉めることにするわ。その前に――ティータイムはいかが?」
「はい。お願いします」
(この人には、敵わないな)
翠は、亜嵐がそう認める数少ない相手の一人だ。
店の札をクローズド変える背中を眺めて、亜嵐はわずかに肩を竦めた。
このところ疎遠になっていた『孤独』が近付いた自分を案じて、ティータイムに誘ってくれたに違いない。
(また心配をかけてしまったか……)
自責の念に駆られた、そのとき――。
「あらあら。そんなに急がなくて大丈夫よ」
重たい木の扉が開き、湿り気を含んだ夜の空気が流れ込んできた。
「す、すみません、こんな遅くに」
「いいのよ、気にしないで。――亜嵐さん、藤宮くんが来てくれたわ」
その瞬間。
亜嵐の世界は一気に熱を持った。
心臓がどくどくと鳴り、血液が体中を駆け巡る。
「亜嵐さん、こんばんは。実習、無事に終わりました!」
そう言って微笑む湊につられて、亜嵐の口元も自然と弧を描いた。
「お疲れだったな、湊」
「はい。……あれ、亜嵐さんも疲れてませんか?」
とことこと近付いてきた湊は、亜嵐の眉間にそっと手を当てた。
「もしかして、締め切り前とか……ですか?」
触れられた部分から、温かなものが流れ込んでくる。
さっきまで感じていた痛みは、あっという間に消え去っていった。
「……ああ。だがもう終わったさ、心配はない」
その言葉に、湊はほっとした笑みを浮かべる。
「ちょうど亜嵐さんとお茶にするところだったのよ。藤宮くんも一緒にいかが?」
和みを取り戻した店内に、鈴を転がすような翠の声が響いた。
「いいんですか?」
その問いに、亜嵐は大きく頷く。
「もちろんだ」
「じゃあ、お願いします!」
「ふふっ、すぐに淹れるわね」
穏やかな声を背に、窓際のテーブルまで並んで歩く。
その靴音は、弾むようなリズムを刻んでいる。
「実習はどうだった?」
「それがですね……」
成熟した茶葉の香りが、二人を包み込む。
「……ありがとう、湊」
「え?」
ティーカップに揺れる琥珀色を見つめて、亜嵐は小さく呟いた。
そこに映っていたのは、寂しい過去ではなく――今、隣で笑う光だった。
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