あまく、とろけて、開くオメガ

藍沢真啓/庚あき

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プロローグ

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「お前の母親は金と引き換えにお前を売った。故に拒否権もない。覚悟を今すぐ決めろ」

 日に焼けてささくれだった畳を、磨かれた高そうな靴が躊躇なく土で汚しながら現れた背が高く見るからにアルファだと分かる美丈夫を、突然の来襲に腰を抜かして見上げるだけしかできなかった市居憂璃いちいゆうりは、男からの言葉を脳内で咀嚼しながら畳の上に横たわる紙片へと男から逸らした赤く揺らめく視線を落とす。

 玉之浦フィナンシャル 代表取締役 玉之浦椿たまのうらつばき

 この安普請のアパートにはそぐわない上質で真っ白な面に、そう書かれていた。



 憂璃はものごころついた時から、この今にも崩れそうなボロアパートでオメガの母と二人きりで生きてきた。母と言っても性別は男性だったが──
 母は『春の町』と呼ばれる区域で、いわゆる娼夫をしていた。
 仕事で出会ったどこかの金持ちのアルファとの間に僕が生まれ、育ててくれた。……といっても、まともに子育てをしていたのは、憂璃が物心つく前に飽きてしまったのか放置が殆どだったが。それでも三食は食べていたように記憶している。

 何度か酒に酔った母の愚痴で、母は妊娠をたてに憂璃の遺伝子上の父である男と結婚をして、この底辺の場所から這い上がろうとしたらしい。
 男は憂璃を認知しない代わりに養育費を定期的に入れると言ったらしい。愛人と庶子に渡すには多額の金。それも、憂璃のバース性がオメガと判断される十三歳──二年前までだった。
 もしアルファなら、駒のひとつとして使うつもりだったのだろう。だが憂璃はオメガと判断された。
 母は「これだから『名持ち』じゃない成金が」と吐き捨てていたが、憂璃にはその意味が当時には分からなかった。
 潤沢で安定した金が入らなくなり、母は自分を金と引き換えに玉之浦に売った。そういう話を耳の右から左に流しながら呆然と聞いていた。
 あの時、母が唾棄していた意味を、ようやくこの場になって理解できたことに、絶望したからだ。

 目の前に立つ玉之浦は、春の街に住む憂璃の耳に幾度と入ってきた名前だった。
 どのバース性でもあるが、アルファにもヒエラルキーは存在する。
 表の『名持ち』はそれこそ国を動かす政治家や大企業を経営しており、彼らの名を目にしない日がないほど。
 しかし、玉之浦家はそうではない。
 関東を支配する玉之浦家と|桐龍(きりゅう)家は、オメガのために春の街を作り、受け入れ管理する裏のトップだったからだ。他にも中部と関西にも似たような裏稼業をまとめる家系があり、総じて『四季』と呼ばれていた。

 母の生まれは一般的なベータ家庭の子供だった。
 しかし、オメガと診断されて以降、管理できないヒートにベータだった両親は抑制剤すら与えず、母は見知らぬベータにレイプされ、醜聞を恐れた両親から逃げるようにして春の街──性の欲望で澱んだ小さな街に売られた。
 この街ではそこらへんに転がっているよくある話だ。
 憂璃の住むこのアパートも春の街の区内にある。
 つまりは、玉之浦の所属する組が管理しているのだろう。
 プライドの高い母が交流が広いのか狭いのか分からない。憂璃には狭い街のさらに狭い世界しか知らなかったのだから。

「ぼ、僕はこれから……どうなるんですか」
「流石に中学生のガキに体を売って返済しろとは言わん。そもそもそんな骨と皮の骸骨では買い手が付くはずもないだろう。せめて高値がつくようある程度の年齢になるまでは俺がお前を養ってやる」
「カシラ!」

 鋭い声が憂璃と玉之浦の間を割く。
 カシラ……玉之浦のことなのだろう。玉之浦と同じように長身で氷のような美貌をした男性が、咎めるように声を荒げる。

「まあ落ち着け、壱岐いき。うちは表も裏もアンタッチャブルな仕事はしない。事実、世間に一定の貢献をしているし、税金も収めている。この街にしたってそうだ。光があれば闇がある。俺たちはただ管理しているだけだ。本当、暴対法は難儀だよな」
「しかしだからといって引き取るのは……。でしたら、一定の年齢になるまで養護施設に入所させては」
「アホか。下手に知恵を入れて逃げられたら、うちも大損だろうが」

 ですが……と、壱岐と呼ばれた男は憂璃に冷たい眼差しで見下ろす。憂璃は現実感のない眼差しのまま、ふたりの会話を聞くだけだった。

 オメガは裕福な子供でない限りは、だいたいこのような扱いを受けるのが常だ。もしくは同情しながら侮蔑の言葉を内心で撒き散らしているか。
 アルファの性道具オナホール。男でも子供を孕む異質の存在異物。ヒートになればそこが道端でもアルファを誘い交尾する畜生以下ビッチ
 えてしてオメガの評価なんてそんなものだ、と憂璃は小さく吐息を落とし、のろのろと腰を上げる。
 きっと玉之浦の中では、憂璃を買ったと言っている以上、いずれは商品として誰かに売り飛ばすつもりだ。
 ここでどう足掻いても子供の憂璃では抵抗すら意味がない。それならば。

「玉之浦さん」
「……なんだ」

 言い争うふたりの会話を割り、憂璃は凛とした声で男の名を呼ぶ。

「至らない部分もあるかと思いますが、商品としてお世話していただくことを、ありがたくお受けしたいと思います」

 額を畳に擦りつけ、深々とお辞儀をする。肩まで伸びた白い髪がくすんだ畳の上に散らばる。
 母に売られた。たったひとりの身内に金と引き換えに捨てられた。
 未成年の憂璃がこれ以上学校に行くこともできなければ、なし崩しに母と同じように春を鬻ぐ道しか残っていない。アルファやベータに足を開き、肉棒を受け入れて、要望のままに喘ぐだけの……
 玉之浦がいつ憂璃を商品として売るかは分からない。それでも今ではないと、ふたりの会話から推測できた。
 それならば少しでも覚悟する時間が欲しい。選ぶ道はひとつしかない。

「ほう。随分と潔いな。もうちょっと拒絶や抵抗があると思ったが」
「無駄なあがきは好きではないので」

 下手に暴力でも振るわれて怪我を増やしたくない。打算的と周囲に言われようが、我が身が一番大事だ。

「壱岐」
「はい、カシラ」
「本家だとコレも萎縮するだろう。確か玲司れいじの店の近く……秋槻あきつき学園の近くに一棟所有してるマンションがあっただろう。そこの最上階を明日には入れるようにクリーニングするよう手配しろ」
「はい」
「それから、今日はホテルに泊まる。そっちに俺の服と……コイツのも一緒に用意しろ。こんなボロ雑巾の服でうろつかれたら、あちらさんにも迷惑だろう?」

 頭を下げたままでいると、玉之浦と壱岐の会話が入ってくる。

「おい」
「憂璃……です。玉之浦さん」
「じゃあ憂璃行くぞ。もし、何か大事なものがあれば、小さいものなら持ち出しを許す」
「いいえ、この身ひとつで大丈夫です」

 憂璃はゆっくりと伏せた顔を上げ、まっすぐに玉之浦を見上げる。
 碧の黒髪と、同じように青みがかった黒い瞳は、母が持っていた黒曜石という石に似ていて綺麗だ。アルファらしい厚みのある体躯にまとった三揃えのスーツは上質で、それだけで彼がヒエラルキー高位の存在なのだと、にじみ出る清涼なフェロモンも相まって分かるほどだ。
 彼はアルファを支配するアルファ。自分のような底辺のオメガが会話するのも烏滸がましいほど上質な男。
 なんの因果か、これから彼が自分を売るまでの間は保護者となるらしい。

 玉之浦は大事なものを持って行ってもいいと言ってくれた。
 だが、元よりこの部屋にどうしても肌身離さず持っていたい物がなかった。
 あるのは、小さなテーブルと型落ちした古びたテレビ。それから母が使うベッドと憂璃が使う煎餅布団と、部屋にそぐわない豪奢なドレッサーと華美で淫猥な下着のようなドレス。
 カーテンは日に焼けて元の色が分からずボロボロで、どこにもお金がかかった様子はない。
 二間しかない部屋には、憂璃個人に与えられた物は何一つとしてなかったのである。

 憂璃は玄関の扉を出る寸前、屈強な男たちの間から人気のない部屋を見て唇を動かす。
 さようなら。
 きっと二度と戻ることのない長年の住処に、憂璃は別れを告げたのだった。



 とても車の中とは思えない広々とした空間で、憂璃は玉之浦と壱岐の間に挟まれるようにして小さく縮こまっていた。
 記憶にある限り、揺れもなく乗り心地の良い車に乗ったのは人生初めてなのもある。

「おい、憂璃」
「は、はいっ」

 突然憂璃の名を呼ばれ、憂璃はビクリと体を震わせ大声で反応する。
 あまりの大きな声に「もう少しトーンを抑えろ」と玉之浦から窘められ「すみません……」と消沈し謝罪する。

「カシラ、本当にこの子供を面倒みるつもりですか? 彼も随分と萎縮していますが」

 タブレットを操作する手を止めた壱岐が、ちらりと憂璃を見て、それから玉之浦に問う。

「ああ、こいつ、こんな身なりをしているが、磨けば光る珠になる。学をつけ、所作を学ばせれば、こいつの母親に渡した金より多くの金が舞い込む。そのための先行投資だ」
「確かに、銀にも見える髪にルビーのような赤い瞳は珍しいですね。……アルビノ……でしたか」

 壱岐の言葉尻は憂璃に向けられたものだろう。コクリと頷き「そうです」と質問を返した。
 白い肌と髪、瞳と唇は赤く、憂璃を玉之浦に売った母も、最初はまるで人形のように着飾って可愛がってくれた。
 だが、憂璃は生きた人間で、自立できていない赤子だった。
 お腹が空けば泣き、排泄の気持ち悪さに泣き、眠くなっても泣き、母親の機嫌の悪さを感じ取って泣き。
 人形のような見た目はいつしか意思疎通のできない不気味な存在となっていったのか、母親はある時を境に育児を放棄するようになっていた。
 だから、憂璃がアルビノと判断されたのは、母親が病院に連れて行って発覚したのではなく、何度目かに児童相談所の職員が病院に付き添い、そこではっきりとなったのだった。

「見た目はこんなですが、通常生活にはほとんど支障はありません。ただ、紫外線に弱いので、あまり夏場の陽射しが強い時間に出歩くのは難しいですし、プールも入れない程度で」
「ってことは、体育の時間は全部見学だったのか?」
「はい。授業免除の代わりに、保健室でプリントをやっていました」
「そうか」

 玉之浦に質問をされたから普通に答えたのだが、彼はスーツの懐から煙草を取り出し口に咥えると、顎をしゃくって壱岐に火を要求する。
 すかさず壱岐が煙草の先端に火を灯すと、フワリと甘い食欲を誘うような香りが車内に広がる。朝からなにも食べていなかった憂璃の腹は、香りによって食欲が引きずり出され、きゅうう、と腹の音がアルファ二人の耳に届いてしまい、恥ずかしさで顔を真っ赤に染める。

「あ、ああ。これの匂いのせいか」
「女子供が好きな匂いですからね」

 お腹を抱くように腕で胃を押さえ、体を折って空腹に耐えていると、頭に軽い衝撃がくる。

「ホテルに着いたら、まずはメシにしようか」

 家が丸ごと入ったような、憂璃が生きていた世界とは違うその光景の中、緊張しながら食べたパンケーキには、先ほど香った甘い匂いと同じメープルシロップがたっぷりかかっており、夢のような時間を過ごした。

 広々とした風呂に入り、椿の手によって髪を乾かされ、壱岐が買ってきた肌触りの良いリネンのパジャマに袖を通し、フカフカのベッドに連れて行かれる。
 憂璃が寝つくまで弄ぶように髪を指先でいじりながら頭を撫でる椿。
 懐かしくて心地よい感触に眼蓋の裏に熱を感じながらも、いつしか深い眠りに落ちていった。

 何度も「心配するな、守ってやるから」と低くて艶ある囁きを聞きながら。


 市居憂璃は十五歳。
 玉之浦椿は三十歳の早春の出来事だった──
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