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少年期 大学入学~生活編
(N32)久闊
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ドロシーとフィンが日々を過ごす部屋は入ってすぐに応接間となっている。来客は少なく、買ったものや資料や標本が雑多に積まれてばかりいる。左手奥が居住区、寝室や簡易なキッチン、水場が拵えられている。右手に書斎兼研究、作業場という間取りだ。
静謐な空間には、寝室から届く小さな寝息と苦悶の吐息が満ち満ちていた。石造りのこの部屋はいやに音がよく聞こえるような気がする。故郷の木造の家は外の音がよく届く、境界の曖昧な世界だった。
フィンはオリヴァントの言葉に脳の機能の大部分を奪われていた。
「そんなこと……僕だって……」
独り言が静寂に掻き消える。
先生のように魔術を使えるようになりたくて、先生のように知識で生活できるようになりたくて、師の仕事はことあるごとに観察し、見せてもらい、時には質問を投げ掛け、そうして自分なりに学んできたつもりだ。
彼女の抱える仕事のそのあまりもの多さに気が付かない訳がなかった。
一度、問い掛けたことがあった。
「先生、お手伝いできることはありますか?」
そのとき、少し先生は意外そうな顔をしていたのを覚えている。そして、ほんの微かに目を細くして、口角を僅かに上げていたのも覚えている。
「大丈夫です。いりませんよ」
ドロシーはそう言ってフィンの頭を撫でたのだった。
「先生が、いらないって……」
また独り言する。
母の言葉を反芻する。「余計なことはくれぐれもしてくれるな」
善意であろうとも、中途半端な手伝いはかえって迷惑にしかならないと、そう学んできた。求められないことは手を出してはならないと教わってきた。
だから、今日の行いは間違っていないはずだった。全て母の真似をしおおせたのだから不正解のはずがなかった。
兄が体調を崩すと母はいつも甲斐甲斐しく世話をしていた。水分補給のタイミング、食事の用意、外への連絡。どれも母が兄にしていたのと同じようにできていたはずだった。
フィンは寝室の声が届かない部屋を求めて書斎兼研究室に場所を移した。ドロシーの机の上には昨晩の作業半ばのままの書類や資料の類いが山積みになっている。ドラフターには書きかけのスクロールが固定されていた。
昨晩だけで何度コーヒーを淹れただろう。何杯も何杯も頼まれるままに淹れたコーヒーを、彼女は味わうでなくとにかく飲み干して、作業をしばらくしてはおかわりを頼んでいた。
フィンは、いよいよ自分のことが嫌になってくる。
ドロシーは多分、ずっと無理をしていたのだとわかる。いや、わかっていたはずだった。
そうとわかっていながら、ドロシーがその無理を隠そうとしていたのをわかって、(先生が隠そうとするなら僕は気づかない方がいいのだろう)と見て見ぬふりをした。
(でもそうじゃないか。)
「なにやっているの、フィン」
母の声が聞こえる。、身が縮こまる。肉体はドロシーの書斎にありながら、心が忽ちにあの日あの故郷に還る。
フィンは今の食卓に突っ伏して眠る兄に、彼のマントをかけてやろうとしていたのだった。
フィンは母の顔を振り返り見上げながら、この後のことを予見していた。
「それ、ホリンのマントでしょう。何勝手に持ってるの。返しなさい。人の物を勝手に持っていくのは泥棒じゃない」
そんなつもりではなかった。いつも父について狩猟を頑張る兄に、今日も自分よりもいくらでも大きい鹿を狩った兄の疲れを慮っての行動だった。本人は少なくともそのつもりだった。
「お兄ちゃんが羨ましいからってそうやって人の物を勝手に触るのは酷いことよ。ホリンのものに勝手に触らないように」
母は寝ぼけまなこのホリンの手を引き、寝室に連れて行った。
父と兄は村の狩猟のために森へ、母は冬備えのために村長宅へ出かけ、みんな留守の日のこと。
きっと皆疲れて帰ると思い、夕飯を作ってみたのだった。干し肉を刻み、芋と人参とを入れ香辛料で風味付けした簡単なスープであるが、母のレシピはしっかり模倣していた。
イモ類の皮むきが厚くなったり身を削ってしまったりもしていたが、味はしっかりと真似をできていた。自信があった。
「なにこれ、勝手に食材使ったの?」
父と兄より早くに帰宅した母に報告すると、母は心底がっかりしたような顔をしたのを今も昨日のことのように覚えている。
母は湯気の立っている大鍋を抱えると勝手口から裏庭に出て中身を捨ててしまった。
「貴方が中途半端に余計なことをしたから材料が全部無駄になっちゃったじゃない。こんなに身も厚く切って、お兄ちゃんが狩ったお肉も村長さんたちが頑張って作った作物が皆ダメになっちゃたじゃない」
フィンは庭に散ったスープを救おうと跪いて具に触れた。その熱さのあまり触れてはいられなかった。肉も芋も人参も皆土まみれになっていた。
「そうやって泣いて反省したフリするんじゃなくて、しっかり心を改めなさい。余計なことをするから人に迷惑をかけるのよ」
求められないことをしてしまうことが、こんなにも辛く苦しいことなのかと、フィンは実によく学習した。そう学んできたのだと改めて認める。
心が書斎に戻ってみると、涙が頬を伝っていた。フィンはそれを拭うと「泣いたフリをするんじゃない」と自らに言い聞かせる。
師の机にはキャップのされた木を軸材にした万年筆が転がっている。手にとって見ると、端々にインクの付着があった。長年愛用しているものなのだと見た目の傷や艶でよくわかった。父が長年愛用していた弓に似た光沢だった。
スクロール作成用のインクは未だ量産されないため試薬屋に都度調合を以来せねばならず少量でも時に金や銀をも超える価格となる。試薬屋への発注書類を作ったときにその金額に驚いたものだが、一枚のスクロールを仕上げるのにドロシーはそのインクを二度か三度吸入する。
これを失敗すればどれほどの「余計なこと」になってしまうか考えが及びもつかない。そんな、ドロシーの迷惑になってしまうかもしれないことをと思うと、手を出せるはずもなかった。
一度手にしたその万年筆を元の位置に戻そうと腕を下ろす。
「フィン……?」
書斎の入口に、体重を壁にもたれかかりながら今にも倒れそうな様相で、ドロシーが立っていた。
静謐な空間には、寝室から届く小さな寝息と苦悶の吐息が満ち満ちていた。石造りのこの部屋はいやに音がよく聞こえるような気がする。故郷の木造の家は外の音がよく届く、境界の曖昧な世界だった。
フィンはオリヴァントの言葉に脳の機能の大部分を奪われていた。
「そんなこと……僕だって……」
独り言が静寂に掻き消える。
先生のように魔術を使えるようになりたくて、先生のように知識で生活できるようになりたくて、師の仕事はことあるごとに観察し、見せてもらい、時には質問を投げ掛け、そうして自分なりに学んできたつもりだ。
彼女の抱える仕事のそのあまりもの多さに気が付かない訳がなかった。
一度、問い掛けたことがあった。
「先生、お手伝いできることはありますか?」
そのとき、少し先生は意外そうな顔をしていたのを覚えている。そして、ほんの微かに目を細くして、口角を僅かに上げていたのも覚えている。
「大丈夫です。いりませんよ」
ドロシーはそう言ってフィンの頭を撫でたのだった。
「先生が、いらないって……」
また独り言する。
母の言葉を反芻する。「余計なことはくれぐれもしてくれるな」
善意であろうとも、中途半端な手伝いはかえって迷惑にしかならないと、そう学んできた。求められないことは手を出してはならないと教わってきた。
だから、今日の行いは間違っていないはずだった。全て母の真似をしおおせたのだから不正解のはずがなかった。
兄が体調を崩すと母はいつも甲斐甲斐しく世話をしていた。水分補給のタイミング、食事の用意、外への連絡。どれも母が兄にしていたのと同じようにできていたはずだった。
フィンは寝室の声が届かない部屋を求めて書斎兼研究室に場所を移した。ドロシーの机の上には昨晩の作業半ばのままの書類や資料の類いが山積みになっている。ドラフターには書きかけのスクロールが固定されていた。
昨晩だけで何度コーヒーを淹れただろう。何杯も何杯も頼まれるままに淹れたコーヒーを、彼女は味わうでなくとにかく飲み干して、作業をしばらくしてはおかわりを頼んでいた。
フィンは、いよいよ自分のことが嫌になってくる。
ドロシーは多分、ずっと無理をしていたのだとわかる。いや、わかっていたはずだった。
そうとわかっていながら、ドロシーがその無理を隠そうとしていたのをわかって、(先生が隠そうとするなら僕は気づかない方がいいのだろう)と見て見ぬふりをした。
(でもそうじゃないか。)
「なにやっているの、フィン」
母の声が聞こえる。、身が縮こまる。肉体はドロシーの書斎にありながら、心が忽ちにあの日あの故郷に還る。
フィンは今の食卓に突っ伏して眠る兄に、彼のマントをかけてやろうとしていたのだった。
フィンは母の顔を振り返り見上げながら、この後のことを予見していた。
「それ、ホリンのマントでしょう。何勝手に持ってるの。返しなさい。人の物を勝手に持っていくのは泥棒じゃない」
そんなつもりではなかった。いつも父について狩猟を頑張る兄に、今日も自分よりもいくらでも大きい鹿を狩った兄の疲れを慮っての行動だった。本人は少なくともそのつもりだった。
「お兄ちゃんが羨ましいからってそうやって人の物を勝手に触るのは酷いことよ。ホリンのものに勝手に触らないように」
母は寝ぼけまなこのホリンの手を引き、寝室に連れて行った。
父と兄は村の狩猟のために森へ、母は冬備えのために村長宅へ出かけ、みんな留守の日のこと。
きっと皆疲れて帰ると思い、夕飯を作ってみたのだった。干し肉を刻み、芋と人参とを入れ香辛料で風味付けした簡単なスープであるが、母のレシピはしっかり模倣していた。
イモ類の皮むきが厚くなったり身を削ってしまったりもしていたが、味はしっかりと真似をできていた。自信があった。
「なにこれ、勝手に食材使ったの?」
父と兄より早くに帰宅した母に報告すると、母は心底がっかりしたような顔をしたのを今も昨日のことのように覚えている。
母は湯気の立っている大鍋を抱えると勝手口から裏庭に出て中身を捨ててしまった。
「貴方が中途半端に余計なことをしたから材料が全部無駄になっちゃったじゃない。こんなに身も厚く切って、お兄ちゃんが狩ったお肉も村長さんたちが頑張って作った作物が皆ダメになっちゃたじゃない」
フィンは庭に散ったスープを救おうと跪いて具に触れた。その熱さのあまり触れてはいられなかった。肉も芋も人参も皆土まみれになっていた。
「そうやって泣いて反省したフリするんじゃなくて、しっかり心を改めなさい。余計なことをするから人に迷惑をかけるのよ」
求められないことをしてしまうことが、こんなにも辛く苦しいことなのかと、フィンは実によく学習した。そう学んできたのだと改めて認める。
心が書斎に戻ってみると、涙が頬を伝っていた。フィンはそれを拭うと「泣いたフリをするんじゃない」と自らに言い聞かせる。
師の机にはキャップのされた木を軸材にした万年筆が転がっている。手にとって見ると、端々にインクの付着があった。長年愛用しているものなのだと見た目の傷や艶でよくわかった。父が長年愛用していた弓に似た光沢だった。
スクロール作成用のインクは未だ量産されないため試薬屋に都度調合を以来せねばならず少量でも時に金や銀をも超える価格となる。試薬屋への発注書類を作ったときにその金額に驚いたものだが、一枚のスクロールを仕上げるのにドロシーはそのインクを二度か三度吸入する。
これを失敗すればどれほどの「余計なこと」になってしまうか考えが及びもつかない。そんな、ドロシーの迷惑になってしまうかもしれないことをと思うと、手を出せるはずもなかった。
一度手にしたその万年筆を元の位置に戻そうと腕を下ろす。
「フィン……?」
書斎の入口に、体重を壁にもたれかかりながら今にも倒れそうな様相で、ドロシーが立っていた。
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