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禊の対価
第二百六十 話 影の差す言葉
しおりを挟む「だれ!?」
不意の声に驚き周囲を見回すカレン。
「その声!? シトラスだな!?」
だがヨハンには聞き覚えのある声だった。
しかしカレンと同じようにして周囲を見回してみてもどこにもその姿がない。
「姿を見せろシトラスっ!」
「フ、フフフっ。まーさか。あーなたがこんなところまで来るとはおーもってもいませんでーしたよー」
微かに不快感を露わにさせているその声色。
「ヨハン?」
「カレンさん、後ろにも気を付けてください。シトラスは影に潜みます。どこから攻撃されるかわかりません」
一体どうしたのかとカレンが声を掛けてくる中、ヨハンはカレンの身を護る様にして前に立つ。だが警戒しなければいけないのは部屋の入り口へ向けた前方だけではない。以前の経験からしても、どこから攻撃を受けるのかわからない。警戒心を引き上げて周囲に目を配った。
「そーんなに警戒しなくとも」
部屋中に響き渡るその声。
「こーこであなたを殺してもいーいのですが、あーなたにはすこーしだけ相談がありまーす」
「相談、だと?」
「えーえ。あーなたも死にたくなーいでしょう?」
「……どういうことだ?」
「あの子をたーすけにきたのでーすよね?」
「聞かなくてもわかるだろう?」
あの子、と差すのはニーナのこと。やはりシトラスが関係していたのだと。
だが話の要点が見えない。どうして相談を持ち掛けられるのか。
「でーしたら、私も余計な労力を割きたくあーりません。こーこは、みーのがしてあーげる代わりに、あの子を諦めてくださーい」
「ふざけるなっ! そんなこと出来るわけないだろうッ!」
持ちかけられた相談の内容はとても許容できるものではない。
「……ふぅ。まーえにあなたにいーいましたよね?」
「……ああ」
前にシトラスと戦ったのはレナトでのこと。あの時はヘレンの助太刀もあったことで事なきを得ていた。
「覚えてるよ。お前は僕にこう言った」
去り際に吐かれた言葉を口にする。
「次に……――」
「――……次に邪魔をすれば容赦をしない、と」
言葉を引き継ぐシトラスの口調は、それまでのおどけた口調が一変して、途端にどこか暗く冷たい口調に変わった。
「でーは」
グッと周囲の気配、緊張が高まる。
「待てシトラス。僕もお前に聞きたいことがある」
しかし、その気配の間にヨハンは言葉を差し込む。明らかに攻撃が仕掛けられるようなその気配を感じたのだが、まだ戦い始めるわけにはいかなかった。
「……はて?」
ヨハンの言葉を聞いたシトラスは、一瞬だけ見せた不穏な気配を潜める。
「聞きたいこと?」
「シトラス、お前は……いや、あなたは、サリナス・ブルネイ。つまり、殺されたあなたの娘を蘇らせる……生き返らせたいんだな?」
「…………」
先程の日記から得られたその情報を、ほとんど確信しているその推測を叩きつけた。
「ねぇヨハン。どうして娘だって言いきれるの? もしかしたら恋人だってこともあるかもしれないじゃない?」
カレンが疑問符を浮かべながら問い掛けてくる。
先程の日記の中を見る限りではサリナスという人物の詳細はどこにも書かれていない。
「カレンさん。僕は、前にシトラスについて調べていたんです」
「えっ?」
エレナの記憶の中にあった人物との関連性を調べる為に訪れたシグラム王宮の資料室の時のこと。
「それってシグラム王国よね?」
「はい。その時に、僕はシグラムの魔法研究者だったというシトラスの、その娘であるサリナス・ブルネイが他国の手によって殺されたという記録を見つけました」
その時は偶然同じ名前だっただけかもしれないという可能性も考えていたのだが、ここに至ってはもう間違いない。全ての点が線で繋がっていく。
しかし、それでもまだ残るその疑問。
「ふーむ。そーれがどうかしーましたかー?」
おどけた調子のままシトラスは問いかけるのだが、ヨハンはこの事実に関する否定も肯定も今は求めていない。
「僕が聞きたいのは…………人間が魔族になるのかどうか、ということだ」
これまで、人間が魔族になるということは聞いたこともない。それでも、もうほぼ確実にシトラスは人間から魔族に変異しているということ。それがどういうことなのか。魔王に関する先程の記述に関しても同様にまだ何もわからない。
「(もしかしたら他に何か重要な情報を引き出せるかもしれない)」
ニーナのことも確かに気がかりなのだが、先程のシトラスの口振りからしても恐らくニーナは今のところ無事。でなければあんな言い方はしないはず。
となると、ようやく掴めそうな魔族に関する情報をエレナ達に持ち帰ることが出来るかもしれないと考えていた。
「……そーれを、あーなたに教えて私はなーにか得られまーすか?」
「…………何もない。ただ、僕が知りたいだけだ」
思惑を誤魔化すためにそう答えたものの、部屋の外で事態を受け入れられずに崩れ落ちたサリーのことを思えば知らなければいけない気もする。
「ふーむ。とはいえ、そーこまで知られているのなーらば、一つだけ教えてあーげましょう」
「一つ?」
「たーしかに私はかつて人間でーした。そーして絶望に打ちひしがれていた時に、一人の魔族の男に出会ったのでーすよ」
「その男がお前を魔族に?」
「いーえ。その時私は既に魔族になっていました」
おどけた口調が再び冷たさを灯した。
「……サリナスを失ったあの時点で、ね」
どこかその言葉の調子の変わり具合に対して疑問を抱く。
「それなら、魔族になるには単独でなれるのか?」
だがそれは別にして、今はまず先に一番気になる点を問いかけた。
人間が魔族になれるのに、他からの要因を必要としないのかどうか。
「…………」
僅かの沈黙が流れる。
「さーてね」
答えを濁されたのだが、しかし今の無言だけで十分だった。
だとすれば、人間が魔族になるのにはなんらかの条件が必要になるということ。でなければもっと魔族という存在が認識されていても可笑しくはない。
「そうか。なら、お前は今やってることが正しいと思ってるんだな?」
恐らく先程の返答ならばこれ以上魔族に関して深堀した質問を重ねたところで話すとは思えない。そう考えると、現状に即した内容を問い掛ける方が有益と判断する。
「えーえ。えーえ。あーたりまえじゃなーいですかー。サリナスが生きかーえることがでーきれば、そーれは何にも勝りまーす」
「何言ってるのよ!」
直後、凛とした声がその場に響いた。
「死んだ人が生き返るわけないじゃない!」
それまで黙って話を聞いていたカレンが途端に声を荒げる。
「大人しく聞いていればわけもわからないことばかり言って! あなたどうかしているのじゃない!?」
どこともない声に対して、カレンは周囲を見回しながら言葉を投げつけた。
「ふーむ。可笑しなことを言う娘でーすな」
「何が可笑しいのよ!?」
姿なき声に向かってカレンは怒声を放つ。
何も可笑しなことを言っているつもりはない。ただの事実を述べただけ。
「サリナスが生き返れないなどと、誰がそれを証明できるのかな?」
「そんなの常識じゃないっ!」
「……じょうしき……ねぇ…………」
再び訪れる沈黙。
しかし、それまで部屋の中のどこかにしか朧気に感じられなかったシトラスのその気配。だが今この瞬間、目の前、部屋の入り口にある影から明確な気配を得た。
ズズッと棚から伸びるその影は次第に立体感を帯びて行き、ゆっくりと垂直に向かって伸びる。
影が伸びきると、すっと影の黒みを僅かに失くし、そこには黒衣を纏った男が姿を見せた。
「あなたがシトラスね」
「ええ。初めましてお嬢さん。しかし、人間はすぐにそうやって常識を語る。私もかつてはそう思っていましたよ。そう、あの時までは……――」
どこか底冷えのする赤く輝く瞳のその鋭い眼差しは、明確な怒気を孕んで射貫くようにしてカレンを見た。
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