明智さんちの旦那さんたちR

明智 颯茄

文字の大きさ
852 / 967
閉鎖病棟の怪

幽霊と修業/3

しおりを挟む
 生き方は尊敬する。だからこそ、颯茄には迷いが生まれる。

「ですが……すぐには答えられないので、待ってくれますか?」
「構わん」

 待つことなど、苦痛でも何でもない、夕霧にしてみれば。颯茄は視線を外して、服のポケットを探そうとしたが、

「それじゃ、あとで連絡するので、携帯、携帯……!」

 思い出した。幽体離脱する前の、あの台所のシンクの前に、今も倒れているだろう自分の肉体のそばに落ちている携帯電話を。

「ああ、そうか。ないんだ」

 記録するものがない。いつ戻るのかは知らない。だが、今は返事は返せない。運命の赤い糸は切れる寸前の繊維の細い伸びを迎えそうだった。

「この病院で働いている」

 いきなり、閉鎖病棟へと続くドアの前に連れてこられた。外来ではない。ありがたいことに健康で過ごしてきた、颯茄には入院病棟には縁がなかった。

「名前は何ですか?」
「セントアスタル病院だ」

 この国で知らない人はいないほど、有名な名前だった。

「あの国で一番大きい私立病院ですね?」
「そうだ」

 都会の大病院。医師の数などたくさんいるだろう。今のままでは、受付で門前払いである。

「あぁ、名前聞いてま――!」

 極めて重要なことに気づいて、颯茄は慌てて口をつぐんだ。深呼吸をして、

「私は、月雪 颯茄です。あなたは?」
「羽柴 夕霧だ」

 固有名詞を覚えるのが苦手な颯茄は一生懸命、頭に叩き込んだ。

「そうですか」
「待っている」

 時間切れというように、乾いていない絵の具でも誤って手で擦ってしまったように、颯茄の姿がゆらゆらと横へと揺れ始めた。

「ああ……はい……」

 彼女の戸惑い気味の声が残像のように聞こえると、夕霧は閉鎖病棟の廊下の途中に横たわっていた。肉体へと魂は無事戻り、袴ではなく、紺のスーツの体で立ち上がる。

 そうして、黒のビジネスシューズが銀の自動ドアへと歩き出し、閉鎖病棟から出ていった。

    *

 颯茄はテーブルの上に乗っていた携帯の画面をかたむけた。

 二月二十一日、金曜日。十九時三十七分。

 チェーン店の居酒屋。金曜日の夜。にぎわいは一入ひとしおだ。ガヤガヤと話し声が外から聞こえてきて、食器のぶつかる音がする。

 いつも三点盛りなのに、なぜか五点盛りの刺身。いつもカウンター席なのに、なぜか奥の座敷。

 座布団二枚の上にゆったりと座っている颯茄は、飲みかけのビールジョッキに手をかけてぼんやりする。

 あれから、三ヶ月以上時間が経過しても、深緑の短髪で、無感情、無動のはしばみ色の瞳を持つ男の、地鳴りのように低い声は、さっきのことのように鮮明に浮かび上がる。

 ――待っている。

 やまびこみたいにこだまして、未だ迷路という通路で鳴り渡る。

 焦点の合わない、どこかずれているクルミ色の瞳の前でテーブルを挟んで、赤茶のふわふわウェーブの髪の、知礼がフライドポテトにマヨネーズを塗っていた。

「先輩、それで病院には行ったんですか?」

 ぼんやりしていた視界がはっきりとすると、海鮮サラダが目に入った。

「ううん。行ってないよ」
「どうして行かないんですか?」

 いつも頼まない、サラダに漬物盛り合わせに、ホッケまで乗っているテーブルを前にして、颯茄は今日までの失敗の日々を振り返る。

「修業をするだよね? 三日坊主どころか、一日坊主という繰り返しの人生を送ってる私には……っていうか、足を引っ張ると思うんだよね?」

 持続性がまったくない自分。何度もトライしてみたが、計画倒れという言葉が真っ青なほど、崩壊の序曲を奏でる毎日。

 知礼のとぼけた黄色い瞳は驚きで見開かれた。

「そこですか! 先輩の心配事は?」
「え……?」

 思ってもみなかった反応をされて、颯茄は反省も忘れて、女二人で飲み屋にきたのに、なぜかテーブルを挟んで座っている左斜め前の知礼をじっと見つめた。

 だが、それに応えることはなく、フライドポテトは口へと運ばれてゆく。

「相手の方の名前は何ていうんですか?」
「羽柴 夕霧さんだよ」

 覚えた。というか、あの日から何度も思い出して、忘れるはずがない。ビーズの指輪はおしぼりをつかみ口を拭く。

「それは行かなくて正解だったかもしれません」

 唐揚げに箸を伸ばそうとしていた、颯茄の手はふと止まった。

「どういうこと? さっきと言ってること逆になってるけど……」
「行っても会えないです」
「会えない……?」

 こいと言われたのに、あの病院で働いていると聞いたのに。何が起きているのかわからない颯茄は、ビールでのどの渇きを一度うるおした。

 可愛くデコされた携帯電話を持ち上げて、知礼がブラウザ画面を見せる。

「先輩、ネットで調べなかったんですね」
「え……?」

 会った人をネットで調べる。そんな習慣は颯茄にはない。だいたい載っていないだろう、本名で。

 だが、長年の付き合いがある後輩がわざわざ指摘するくらいだ。颯茄なりに理由を見つけてきた。

「確かにイケメンだったけど……」

 あれだけの端正な顔だ。どこかで写メを撮られて、ネットに流出しているかもしれなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)

かのん
恋愛
 気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。  わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・  これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。 あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ! 本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。 完結しておりますので、安心してお読みください。

【R18】幼馴染がイケメン過ぎる

ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。 幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。 幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。 関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私の推し(兄)が私のパンツを盗んでました!?

ミクリ21
恋愛
お兄ちゃん! それ私のパンツだから!?

処理中です...