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十五
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ルーヴェンスが目を覚ましてから、気づけば丸二日が経っていた。月に変わる準備をはじめた日の光に、リビングで作業をしていたフィクトは疲れた目を細める。手元の紙には、ルーヴェンスの研究資料には載っていなかった、例のルーン文字が記されている。
ルーヴェンスが記憶の欠損を明かしてからの二日、フィクトは、ほとんどルーヴェンスと口をきかなかった。家事や自分の研究に忙しいふりをしてルーヴェンスを避けるフィクトに、ルーヴェンスもしだいに口を出すことができなくなり、今では師弟の間に奇妙な距離ができてしまっている。
フィクトは頭をかき、いすから立ち上がると、ウォークインクローゼットの方に向かった。このクローゼットは、ルーヴェンスが、特に他人に触れられるのを嫌がる場所だった。フィクトはその扉を開け、中をのぞきこむ。
意外なことに、華美な服はまったくない。同じような服、それも、上着では袖の長いものばかりが吊り下げられている。これらのわずかな違いを気にして、服選びに頭を悩ませているのか――はじめてここに入ったときはそう思っていたフィクトだったが、服の間に埋もれたごみ箱を見つけたとき、なぜ師がこのクローゼットに他人を入れたがらなかったのか、わかった気がした。
フィクトは、見つけたその時には触れられずにいた、ごみ箱の中身――血のにじんだハンカチを拾い上げ、顔をしかめる。普通なら血止めには選ばないような、しゃれたハンカチだ。
フィクトは首を振り、ハンカチを握りしめる。そろそろ、ルーヴェンスときちんと話さなくてはならない、と。
◇
一枚、また一枚。ルーヴェンスは、白紙を文字で埋めては積み重ねていく。燃え残った本や燃えかすが部屋の角に集められ、ルーヴェンスの手で複製されるのを待っていた。外光の入らないこの研究室では、卓上に置いたクロノグラフだけが夕を知らせてくれる。
ルーヴェンスの持つ思い出は大きく欠けてしまっていたものの、知識やデータは変わらず残されている。燃えてしまった本の中身も、内容どころかページのレイアウトやページ数、著者名や目次の一字一句に至るまで、完璧に覚えている。彼は今、失われた貴重な資料を復刻すべく、一心不乱に手を動かしているのだった。
ここにあった資料は、『魔術』の研究には欠かせないものだった。ルーヴェンス一人なら頭の中のデータを引っ張り出せばいいことなのだが、フィクトも一緒に研究するのだから、そうはいかないだろう――建前としてはそういうことだったのだが、本音としては、こうして夢中で字を書きつづけることで、フィクトのことを考えずに済むことに安堵していた。というのも、目を覚ましたルーヴェンスが記憶の欠損を明かしてからというもの、フィクトがルーヴェンスを避けるようになったためだ。
「そろそろ二日になるが、よくやるものだ。意地を張っている方も楽じゃないはずだが。何を考えているかくらい教えてくれてもいいだろうに、フィクト君ときたら、こっちの話さえ聞こうとしないじゃないか……」
敵のこと、『大罪』――〈傲慢〉のこと、『魔術』のこと、記憶のこと。話し合わなければならないことは山積みだというのに、フィクトはルーヴェンスと口をきこうとしないのだ。これからどうなるかもわからないというのに、このままではいけない。
ちゃんと話をしなくては――ルーヴェンスは数日ごしの決意を固め、背中の痛みに出鼻をくじかれながらも、右手で魔術杖を取り、書き終えたばかりの論文や書物の複製を左手で抱え、立ち上がった。
そうして、研究室の焼け焦げた扉を開けたルーヴェンスだったが、扉のすぐ向こうに立っていたフィクトの姿におののき、後ずさる。
「フィクト君? 驚いた。ちょうど、君と話がしたいと思って――」
「申し訳ありませんでした、師匠」
フィクトはそう言うと、深々と頭を下げた。
ここ二日のフィクトの態度は、ルーヴェンスに対してのいらだちからきているもののようだった。それなのに、彼の方から謝るとは、どういうことだろうか。突然の謝罪に、ルーヴェンスは戸惑いを隠せなかった。
「なんだい、急に。君の普段の態度には反省すべき点がないわけじゃないが、改めて謝罪されるようなことは何もなかったはずだ。私はむしろ、君の方が怒っているものだと思っていたのだがね」
ルーヴェンスの問いに、フィクトは首を横に振った。そして、言葉を探しているような間を置いてから、こう答える。
「怒っていないと言えば、嘘になります。どうしようもなくいらいらしていて……けど、それはあなたに対しての気持ちではないんです。いいえ、あなたに対しての気持ちではあったんですが、今のあなたへのものではなくて」
フィクトはルーヴェンスを見下ろした。だが、その目にルーヴェンスの姿はうつっていないらしかった。ルーヴェンスの中に、別の誰かの面影でも見出しているかのようだ。
フィクトはルーヴェンスの手をとると、呆然としているルーヴェンスに問いかける。
「師匠、服だけは絶対に僕に選ばせませんでしたよね。僕がクローゼットに入るのも嫌がって……。どうしてだか、覚えていますか」
ルーヴェンスは、困惑しながらもかぶりを振る。そんな師を見たフィクトは、苦々しい面持ちで、ルーヴェンスの袖を捲り上げた。
あらわになった手首には、ルーヴェンス自身がつけたであろう噛み傷が、いくつも刻まれていた。ルーヴェンスはぎょっとして飛び退ろうとしたが、フィクトはその手首を強く握ったまま離さない。
「これ、わかりますか。僕も、あなたの看病をして初めて気がついたんです。あなたがこれを見られたくなかったから服にこだわったことも、それだけ弱い人間であったことも。ようやく、わかったんです」
フィクトはそう言うと、懐にしまっていたハンカチをルーヴェンスの前に広げる。そのハンカチには、ちょうど、手首の噛み傷からあふれる血を押さえたような、黒いしみがついていた。
「あなたは、けじめだと言って自分の手や指を噛みちぎりました。けど、あれはけじめなんかじゃなかったんです。そうでもしなければ人を殺した痛みに耐えきれなかったから、ああしただけで。あなたはずっとそうだったんです。誰も知らないところで、自分で作った傷を隠して……」
フィクトの言葉に、ルーヴェンスの顔は血の気が引いていくのを感じていた。フィクトは、うっすらと笑みさえ浮かべて、早口に言葉を続ける。
「それを知った時、すごく腹が立ったんです。何がけじめだ、逃げでしかないじゃないかって。あなたが目を覚ましたら、問い詰めてやろうと思っていました。なのに、あの人は、僕が責めるべき師匠は、もうどこにもいなくなってしまった。記憶はまだ残っているといえば、そうかもしれません。でも、決定的に違うんです。僕が怒るべき相手はあなたじゃないと、はっきりわかるんです。そして……」
――この怒りをぶつける相手がもう現れないだろうことに、僕は一番腹を立てていたんです。
フィクトの笑みが、泣き出しそうに歪んだ。この二日、ずっとこらえてきた感情が、一気にあふれ出したかのようだった。
「せっかく、師匠の痛みを少しは理解できたと思ったのに。ようやく、師匠とわかり合えるかもしれないと……。あなたを別人だと思えば、またいつか、あの時の師匠が帰ってきてくれるかもしれないという希望を捨てずにいられると思って……。でも、そうじゃないとも、わかっているんです。だから……。だから、すいませんでした」
ルーヴェンスの傷だらけの手首を放すと、フィクトは力なくその場に屈みこむ。丸まった長身が哀れなほどにわななき、うつむいたままのその表情はうかがい知れない。
「すいません……。やっぱり、まだ気持ちの整理がつかないんです。一緒に過ごしてきたはずなのに、僕ひとり記憶の中に置き去りにされたようで……」
ルーヴェンスは、そんなフィクトのかたわらに膝をつき、抱えていた資料類を放って、彼の背をなでてやろうとした。だが、あえなくフィクトに振り払われてしまう。ルーヴェンスは行き場を失った手を力なく垂らす。
「……君にもわかっているように、私はもう、君が知る〈ルーヴェンス〉には戻れない。受け入れろとも言わない。君がそうしたいなら、避けたってかまわない。だが……」
――私は、弱いよ。私自身や、君が思っている以上に、君がいなくては何もできない人間だよ、きっと。
ルーヴェンスの言葉に、フィクトが顔を上げた。彼は、泣いてはいなかった。だがその表情の痛々しさを見れば、泣いていた方がよほどましだと思えただろう。
ルーヴェンスは口をつぐんでしまいたくなったが、なんとか言葉を続ける。
「記憶を失ったことに気がついた時、本当のことを言えば、気が狂ってしまいそうだった。これまで〈忘れる〉という概念自体、私にはなかったからね。今だってそうだ。自分が何者なのか、わからなくなる。これほど恐ろしいことはない。本当に、ここに私はいたのか? こんな生活をしていたのか? 彼を〈フィグ君〉と呼んでいたのか? 本当に? 誰がそれを証明してくれる?」
フィクトはルーヴェンスが言わんとしたことを察すると、気まずそうに顔を背ける。
フィクトが記憶の中に取り残されるのと同じように、ルーヴェンスもまた、忘却の中に取り残されていた。フィクトが知る自分自身を思い出せないこと、そしてその事実がフィクトを苦しめていること、それをどうすることもできないこと……フィクトのことが大切だということはわかっているのに、思い出せない記憶の存在に気づくたび、フィクトとの溝が深まっていく恐怖。
フィクトが〈今のルーヴェンスはルーヴェンスではない〉と思うなら、ルーヴェンスもまた、それを受け入れようと思っていた。今さら、失った記憶を取り戻すことはできないのだから。それで苦しむフィクトを見るくらいなら、自分が今やだれでもないことを認めてしまった方が気が楽だ。しかし、フィクトは新しいルーヴェンスを受け入れることもしなかった。
これまでの自分ではないのに、新しい人格として認めてもらえることもない。それでは、今ここにいる〈ルーヴェンス・ロード〉は一体何者なのか? これは、何よりルーヴェンス自身がひっそりと抱き続けてきた疑問であり、不安だった。
「記憶を欠いたまま誰からも受け入れられなければ、人の知る私とここにいる私が乖離していけば……最後にはどうなる? もはやそれは〈私〉なのか? 私が私ともわからないのに? 誰にとっての何にもなりきれないくらいなら、嫌われてでも――」
ルーヴェンスはふと言葉を切り、背を丸めたフィクトを見つめる。記憶を失う前のルーヴェンスを敬愛していた彼にとっての自分は、どんな存在だろうか?
「そうだ、フィクト君。君の素直な気持ちを口にしてほしい。ルーヴェンスに取って代わった私が憎いだろう? 君がそう言ってくれたなら、少なくとも私はここにいられる。君にとっての、憎むべき〈ルーヴェンス〉であることができる」
ルーヴェンスは縋るようにフィクトを見つめ、その言葉を待った。〈あなたが憎い〉と、そう言ってくれるのを。
だが、フィクトの言葉はルーヴェンスが予想していたものとは違っていた。
「……ずるい、ですよ。僕がそう言えないと、知っているくせに」
フィクトはうめくようにそう言うと、ルーヴェンスを押しのけて立ち上がり、複製されたばかりの論文や書物を師の足元から拾い上げる。
「師匠は師匠です。記憶を失うことが、師匠という人そのものが欠けてしまうことでも……ここにいるあなたを、別人だと思うことはできません。憎い? 記憶の欠損にもっと早く気づけていたらと思うばかりで、あなたを憎む気持ちなんてありませんよ」
フィクトはそう言うと、不器用に微笑んだ。その腕には、拾った複製資料が、しっかりと抱かれている。
「ただ、あなたの弱気な姿を見ていると、無性に腹が立ってきました。僕はあなたの未来を諦めませんよ。学者としてのあなたが――たくわえた多くの知識や生まれ持ったセンスが、あなたの中に残っているのなら。……一緒に戦ってくれますね?」
激しい野心の炎を宿した弟子の瞳――記憶を失う前にも、見たことがなかったかもしれない。ルーヴェンスは、半ば気圧されるようにしてうなずいた。
『大罪』に蝕まれ、社会での居場所も思い出も失い、ルーヴェンスの未来は、まるで期待できなくなってしまったはずだった。ルーヴェンスは、自分の手のひらを見下ろす。青白い肌には、普段通りに血が通っている。
「……私ひとり諦めるわけにもいくまい。自分のしたことの責任くらいは、取らなければね」
そう言いながらも、ルーヴェンスは不思議と心が晴れていくのを感じていた。
フィクトの言うとおり、ルーヴェンスはルーヴェンスなのだ。思い出を多少失っても、天才学者ルーヴェンス・ロードの根本までは削がれていない。それならば、まだやれることはあるはずだ。
未来を諦めない。運命共同体となったフィクトのためにも、ここで立ち止まるわけにはいかない――ルーヴェンスの頭はすでに、次の一歩を踏み出すのに必要な計算をはじめていた。
ルーヴェンスが記憶の欠損を明かしてからの二日、フィクトは、ほとんどルーヴェンスと口をきかなかった。家事や自分の研究に忙しいふりをしてルーヴェンスを避けるフィクトに、ルーヴェンスもしだいに口を出すことができなくなり、今では師弟の間に奇妙な距離ができてしまっている。
フィクトは頭をかき、いすから立ち上がると、ウォークインクローゼットの方に向かった。このクローゼットは、ルーヴェンスが、特に他人に触れられるのを嫌がる場所だった。フィクトはその扉を開け、中をのぞきこむ。
意外なことに、華美な服はまったくない。同じような服、それも、上着では袖の長いものばかりが吊り下げられている。これらのわずかな違いを気にして、服選びに頭を悩ませているのか――はじめてここに入ったときはそう思っていたフィクトだったが、服の間に埋もれたごみ箱を見つけたとき、なぜ師がこのクローゼットに他人を入れたがらなかったのか、わかった気がした。
フィクトは、見つけたその時には触れられずにいた、ごみ箱の中身――血のにじんだハンカチを拾い上げ、顔をしかめる。普通なら血止めには選ばないような、しゃれたハンカチだ。
フィクトは首を振り、ハンカチを握りしめる。そろそろ、ルーヴェンスときちんと話さなくてはならない、と。
◇
一枚、また一枚。ルーヴェンスは、白紙を文字で埋めては積み重ねていく。燃え残った本や燃えかすが部屋の角に集められ、ルーヴェンスの手で複製されるのを待っていた。外光の入らないこの研究室では、卓上に置いたクロノグラフだけが夕を知らせてくれる。
ルーヴェンスの持つ思い出は大きく欠けてしまっていたものの、知識やデータは変わらず残されている。燃えてしまった本の中身も、内容どころかページのレイアウトやページ数、著者名や目次の一字一句に至るまで、完璧に覚えている。彼は今、失われた貴重な資料を復刻すべく、一心不乱に手を動かしているのだった。
ここにあった資料は、『魔術』の研究には欠かせないものだった。ルーヴェンス一人なら頭の中のデータを引っ張り出せばいいことなのだが、フィクトも一緒に研究するのだから、そうはいかないだろう――建前としてはそういうことだったのだが、本音としては、こうして夢中で字を書きつづけることで、フィクトのことを考えずに済むことに安堵していた。というのも、目を覚ましたルーヴェンスが記憶の欠損を明かしてからというもの、フィクトがルーヴェンスを避けるようになったためだ。
「そろそろ二日になるが、よくやるものだ。意地を張っている方も楽じゃないはずだが。何を考えているかくらい教えてくれてもいいだろうに、フィクト君ときたら、こっちの話さえ聞こうとしないじゃないか……」
敵のこと、『大罪』――〈傲慢〉のこと、『魔術』のこと、記憶のこと。話し合わなければならないことは山積みだというのに、フィクトはルーヴェンスと口をきこうとしないのだ。これからどうなるかもわからないというのに、このままではいけない。
ちゃんと話をしなくては――ルーヴェンスは数日ごしの決意を固め、背中の痛みに出鼻をくじかれながらも、右手で魔術杖を取り、書き終えたばかりの論文や書物の複製を左手で抱え、立ち上がった。
そうして、研究室の焼け焦げた扉を開けたルーヴェンスだったが、扉のすぐ向こうに立っていたフィクトの姿におののき、後ずさる。
「フィクト君? 驚いた。ちょうど、君と話がしたいと思って――」
「申し訳ありませんでした、師匠」
フィクトはそう言うと、深々と頭を下げた。
ここ二日のフィクトの態度は、ルーヴェンスに対してのいらだちからきているもののようだった。それなのに、彼の方から謝るとは、どういうことだろうか。突然の謝罪に、ルーヴェンスは戸惑いを隠せなかった。
「なんだい、急に。君の普段の態度には反省すべき点がないわけじゃないが、改めて謝罪されるようなことは何もなかったはずだ。私はむしろ、君の方が怒っているものだと思っていたのだがね」
ルーヴェンスの問いに、フィクトは首を横に振った。そして、言葉を探しているような間を置いてから、こう答える。
「怒っていないと言えば、嘘になります。どうしようもなくいらいらしていて……けど、それはあなたに対しての気持ちではないんです。いいえ、あなたに対しての気持ちではあったんですが、今のあなたへのものではなくて」
フィクトはルーヴェンスを見下ろした。だが、その目にルーヴェンスの姿はうつっていないらしかった。ルーヴェンスの中に、別の誰かの面影でも見出しているかのようだ。
フィクトはルーヴェンスの手をとると、呆然としているルーヴェンスに問いかける。
「師匠、服だけは絶対に僕に選ばせませんでしたよね。僕がクローゼットに入るのも嫌がって……。どうしてだか、覚えていますか」
ルーヴェンスは、困惑しながらもかぶりを振る。そんな師を見たフィクトは、苦々しい面持ちで、ルーヴェンスの袖を捲り上げた。
あらわになった手首には、ルーヴェンス自身がつけたであろう噛み傷が、いくつも刻まれていた。ルーヴェンスはぎょっとして飛び退ろうとしたが、フィクトはその手首を強く握ったまま離さない。
「これ、わかりますか。僕も、あなたの看病をして初めて気がついたんです。あなたがこれを見られたくなかったから服にこだわったことも、それだけ弱い人間であったことも。ようやく、わかったんです」
フィクトはそう言うと、懐にしまっていたハンカチをルーヴェンスの前に広げる。そのハンカチには、ちょうど、手首の噛み傷からあふれる血を押さえたような、黒いしみがついていた。
「あなたは、けじめだと言って自分の手や指を噛みちぎりました。けど、あれはけじめなんかじゃなかったんです。そうでもしなければ人を殺した痛みに耐えきれなかったから、ああしただけで。あなたはずっとそうだったんです。誰も知らないところで、自分で作った傷を隠して……」
フィクトの言葉に、ルーヴェンスの顔は血の気が引いていくのを感じていた。フィクトは、うっすらと笑みさえ浮かべて、早口に言葉を続ける。
「それを知った時、すごく腹が立ったんです。何がけじめだ、逃げでしかないじゃないかって。あなたが目を覚ましたら、問い詰めてやろうと思っていました。なのに、あの人は、僕が責めるべき師匠は、もうどこにもいなくなってしまった。記憶はまだ残っているといえば、そうかもしれません。でも、決定的に違うんです。僕が怒るべき相手はあなたじゃないと、はっきりわかるんです。そして……」
――この怒りをぶつける相手がもう現れないだろうことに、僕は一番腹を立てていたんです。
フィクトの笑みが、泣き出しそうに歪んだ。この二日、ずっとこらえてきた感情が、一気にあふれ出したかのようだった。
「せっかく、師匠の痛みを少しは理解できたと思ったのに。ようやく、師匠とわかり合えるかもしれないと……。あなたを別人だと思えば、またいつか、あの時の師匠が帰ってきてくれるかもしれないという希望を捨てずにいられると思って……。でも、そうじゃないとも、わかっているんです。だから……。だから、すいませんでした」
ルーヴェンスの傷だらけの手首を放すと、フィクトは力なくその場に屈みこむ。丸まった長身が哀れなほどにわななき、うつむいたままのその表情はうかがい知れない。
「すいません……。やっぱり、まだ気持ちの整理がつかないんです。一緒に過ごしてきたはずなのに、僕ひとり記憶の中に置き去りにされたようで……」
ルーヴェンスは、そんなフィクトのかたわらに膝をつき、抱えていた資料類を放って、彼の背をなでてやろうとした。だが、あえなくフィクトに振り払われてしまう。ルーヴェンスは行き場を失った手を力なく垂らす。
「……君にもわかっているように、私はもう、君が知る〈ルーヴェンス〉には戻れない。受け入れろとも言わない。君がそうしたいなら、避けたってかまわない。だが……」
――私は、弱いよ。私自身や、君が思っている以上に、君がいなくては何もできない人間だよ、きっと。
ルーヴェンスの言葉に、フィクトが顔を上げた。彼は、泣いてはいなかった。だがその表情の痛々しさを見れば、泣いていた方がよほどましだと思えただろう。
ルーヴェンスは口をつぐんでしまいたくなったが、なんとか言葉を続ける。
「記憶を失ったことに気がついた時、本当のことを言えば、気が狂ってしまいそうだった。これまで〈忘れる〉という概念自体、私にはなかったからね。今だってそうだ。自分が何者なのか、わからなくなる。これほど恐ろしいことはない。本当に、ここに私はいたのか? こんな生活をしていたのか? 彼を〈フィグ君〉と呼んでいたのか? 本当に? 誰がそれを証明してくれる?」
フィクトはルーヴェンスが言わんとしたことを察すると、気まずそうに顔を背ける。
フィクトが記憶の中に取り残されるのと同じように、ルーヴェンスもまた、忘却の中に取り残されていた。フィクトが知る自分自身を思い出せないこと、そしてその事実がフィクトを苦しめていること、それをどうすることもできないこと……フィクトのことが大切だということはわかっているのに、思い出せない記憶の存在に気づくたび、フィクトとの溝が深まっていく恐怖。
フィクトが〈今のルーヴェンスはルーヴェンスではない〉と思うなら、ルーヴェンスもまた、それを受け入れようと思っていた。今さら、失った記憶を取り戻すことはできないのだから。それで苦しむフィクトを見るくらいなら、自分が今やだれでもないことを認めてしまった方が気が楽だ。しかし、フィクトは新しいルーヴェンスを受け入れることもしなかった。
これまでの自分ではないのに、新しい人格として認めてもらえることもない。それでは、今ここにいる〈ルーヴェンス・ロード〉は一体何者なのか? これは、何よりルーヴェンス自身がひっそりと抱き続けてきた疑問であり、不安だった。
「記憶を欠いたまま誰からも受け入れられなければ、人の知る私とここにいる私が乖離していけば……最後にはどうなる? もはやそれは〈私〉なのか? 私が私ともわからないのに? 誰にとっての何にもなりきれないくらいなら、嫌われてでも――」
ルーヴェンスはふと言葉を切り、背を丸めたフィクトを見つめる。記憶を失う前のルーヴェンスを敬愛していた彼にとっての自分は、どんな存在だろうか?
「そうだ、フィクト君。君の素直な気持ちを口にしてほしい。ルーヴェンスに取って代わった私が憎いだろう? 君がそう言ってくれたなら、少なくとも私はここにいられる。君にとっての、憎むべき〈ルーヴェンス〉であることができる」
ルーヴェンスは縋るようにフィクトを見つめ、その言葉を待った。〈あなたが憎い〉と、そう言ってくれるのを。
だが、フィクトの言葉はルーヴェンスが予想していたものとは違っていた。
「……ずるい、ですよ。僕がそう言えないと、知っているくせに」
フィクトはうめくようにそう言うと、ルーヴェンスを押しのけて立ち上がり、複製されたばかりの論文や書物を師の足元から拾い上げる。
「師匠は師匠です。記憶を失うことが、師匠という人そのものが欠けてしまうことでも……ここにいるあなたを、別人だと思うことはできません。憎い? 記憶の欠損にもっと早く気づけていたらと思うばかりで、あなたを憎む気持ちなんてありませんよ」
フィクトはそう言うと、不器用に微笑んだ。その腕には、拾った複製資料が、しっかりと抱かれている。
「ただ、あなたの弱気な姿を見ていると、無性に腹が立ってきました。僕はあなたの未来を諦めませんよ。学者としてのあなたが――たくわえた多くの知識や生まれ持ったセンスが、あなたの中に残っているのなら。……一緒に戦ってくれますね?」
激しい野心の炎を宿した弟子の瞳――記憶を失う前にも、見たことがなかったかもしれない。ルーヴェンスは、半ば気圧されるようにしてうなずいた。
『大罪』に蝕まれ、社会での居場所も思い出も失い、ルーヴェンスの未来は、まるで期待できなくなってしまったはずだった。ルーヴェンスは、自分の手のひらを見下ろす。青白い肌には、普段通りに血が通っている。
「……私ひとり諦めるわけにもいくまい。自分のしたことの責任くらいは、取らなければね」
そう言いながらも、ルーヴェンスは不思議と心が晴れていくのを感じていた。
フィクトの言うとおり、ルーヴェンスはルーヴェンスなのだ。思い出を多少失っても、天才学者ルーヴェンス・ロードの根本までは削がれていない。それならば、まだやれることはあるはずだ。
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