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幕間5
01残響に迷う夢の果てに
しおりを挟む※この幕間は『残響迷夢―惨劇の母体たち―』とリンクしていますが、『モラトリアムは物書きライフを満喫します。』本編は『残響迷夢―惨劇の母体たち―』を読まなくてもお楽しみいただけます。
*
前世の自分にとって、水は優しくて、同時に恐ろしかった。
幼い俺は、実の父親から性虐待を受け続けた。
無知な俺は、父親から逃れる術を知らなかった。
水は、ベトつく精液や体液を……性虐待の穢れを全て洗い流してくれた。
穢れた自分、苦痛に涙を流す自分を受け入れ、包み込んでくれた。
同時に、水は俺に恐怖をも与える。
ある冬の日、俺は浴室で父親に殺されかけ、逆に父親を殺してしまったのだ。
罪には問われなかったが、俺が罪人であることは事実だ。
むしろ……罪人でありながら、罰を与えられなかったことが苦しかった。
俺にとって水は、涙と穢れを洗い流し、優しく包み込んでくれると同時に、自分と他人を傷つける恐怖と断罪の刃でもあった。
前世の俺は水に怯えながら、それでもどうしようもなく水に惹かれた。
水が恐ろしいのに、それでも水に惹かれ、こんなにも土砂降りの雨の日には、傘も差さずにふらりと出掛けてしまう。
「颯志、やっと見つけた」
「風邪引くやん。はよ帰ってあったまろ?」
今なら思い出せる。
幼少期を共に過ごした血の繋がらない2人の“兄”は、どんなに土砂降りの雨の中でも俺を迎えに来てくれた。
どうして、そんな優しい“兄”たちのことを、前世の俺は忘れてしまっていたのだろうか。
「祖母には言わないでください」
まだ中学生の真里亜ちゃんは、キッパリと言った。
「祖父母は私に尽くしてくれています。出来る限りのことをしてくれています。これ以上を望んだら、きっとバチが当たってしまいます」
俺には分かる。
水を介して、痛い程に伝わってくる。
真里亜ちゃんが求めているのは、見て欲しい、愛して欲しいと願っているのは両親だ。
彼女を育児放棄し、餓死寸前まで追い込んだ両親だ。
でも、両親は彼女を母方の祖父母に預けたきり。
連絡すらも寄越さない。
祖父母は確かに真里亜ちゃんを大切に扱っていた。
だが、祖父母が真里亜ちゃんを大切に扱えば扱う程に、真里亜ちゃんの心は叫ぶ。
「私のお母さんをあんな風に育てたのは祖父母です。私は祖父母が大好きです。愛しています。でも、同時に憎悪もしているんです。祖父母が今私を大切に育ててくれているように、お母さんも大切に育ててくれていたら、お母さんも私も、こんなに苦しまなかったのに……って」
「…………ごめんね、真里亜ちゃん」
落ち着くようにと背中を撫でると、真里亜ちゃんは涙を拭って微笑んだ。
「柚希さんは悪くないです。むしろ、私の本音を聞いてくださって嬉しかったです。誰にも打ち明けられないまま、生きるのは辛かったんです。苦しかったんです」
俺に出来たのは、本当にそれだけだった。
真里亜ちゃんの苦痛と苦悩を知っていたのに、真里亜ちゃんを救うことが出来なかった。
踏切に飛び込んだ真里亜ちゃん。
真里亜ちゃんの死は、同じく両親の暴挙に苦しめられている女性……奈津美ちゃんをも狂わせた。
血で染まった悲しい手を、更に血と罪で穢してゆく奈津美ちゃん。
見ていることしか出来ない俺。
知っているのに、救うことが出来ない無力な俺。
あの夜も、こんな土砂降りの雨だった。
いつものようにふらりと傘も差さずに出掛けた俺は、自分の腕が、足が、身体が、溶けてゆくのを感じた。
その夜は奇跡的に身体は元に戻ったが、俺は限界を悟った。
俺も、遠からず真里亜ちゃんや奈津美ちゃんと同じく、この街の人間に危害を加える怪異となってしまう。
災厄となる道しか残されていなかった俺を救ってくれたのは、やはり“兄”たちだった。
普通の人間として、美容師の柚希颯志として生きるには、“兄”たちと再会した時点で既に俺は手遅れだったけれど。
俺は“兄”たちのお蔭で、ただでさえ父殺しの血と罪で塗れたこの手を、怪異と化して更に罪もない人々の血で穢すことはなかった。
街の人々に危害を加えることもなく、“兄”たちに見守られながら、彼らの手によって消滅することが出来た。
俺は誓った。
もし生まれ変わることが出来たなら、“兄”たちのように生きようと。
「颯志は俺たちの大事な大事な弟なんやで」
「颯志が苦しい時には、辛い時には、絶対に俺たちが駆けつけるからな」
燎兄ぃ。
壱兄ぃ。
ありがとう。
燎兄ぃと壱兄ぃという目標があったからこそ、俺はこの世界でも、この身体でも、長い年月を自我を失わずに生き延びることが出来た。
今度は俺が“兄”として、転生前の記憶を思い出して苦しむ“弟”たちの元へ駆けつけて見せる。
例えどんな土砂降りの雨の中でも。
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