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しおりを挟む精神的疲労と寒い物置の中に閉じ籠っていたせいで、伊吹と清一郎は熱を出して数日間寝込むことになった。
先に回復した伊吹は、お面をつけて清一郎の部屋にお見舞いに行った。拒まれるかと思ったが、清一郎は伊吹の訪問を受け入れてくれた。それどころか、そっけない態度ではあるがまともに会話もしてくれるようになった。嬉しくて、伊吹は毎日清一郎の部屋を尋ねた。
ベッドに上半身を突っ伏して眠る伊吹を、清一郎はじっと見つめる。
お見舞いに来たくせに、いつの間にか寝てしまったのだ。
眠る伊吹を起こさないよう、慎重にお面をずらした。彼のあどけない寝顔が露になる。
もう、伊吹のことを怖いなんて微塵も感じなくなっていた。
伊吹は清一郎を助けてくれた。怖くて動けなかった清一郎を導き、宥め励ましながらずっと傍にいてくれた。優しく抱き締めて、清一郎を必死に守ろうとしてくれた。
彼に対して、愛しいという感情が生まれた。
もっと親しくなりたい。
近づきたい。
触れたい。
貴生や栞にさえそんな風に思ったことはなかった。
ずっと伊吹の傍にいたい。声を聞いていたい。
顔を見たい。触れてほしい。
けれど、伊吹は清一郎の前でお面を外さない。
絶対に触れようとしない。
少しだけ距離は縮まったが、その一線だけは越えようとしない。父親から逃げるときはお面もしていなかったし、伊吹の方から清一郎の手を握ってくれたけれど。それは緊急時だったからで、今はもう違う。
そっと、眠る彼の手に触れる。
清一郎よりは大きいけれど、大人と比べればまだ小さな子供の手だ。
この手で清一郎を引っ張ってくれた。抱き締めてくれた。守ってくれた。
また触れてほしい。
伊吹を起こさないよう、弱い力で彼の指を握る。
そのとき、ノックの音が聞こえて弾かれたように手を離した。返事をすれば、貴生が部屋に入ってきた。
「伊吹は寝ちゃったのか」
熟睡する伊吹を見て、貴生は苦笑する。伊吹を見る彼の瞳は慈しみに満ちていた。
清一郎は貴生に声をかける。
「貴生……」
「うん?」
「なんでお面外せって言わないの」
伊吹は食事中でさえ、清一郎がいたらお面を外さない。普通なら、行儀が悪いと叱ってもいいはずなのに、貴生も栞も伊吹にお面を外すよう注意したことは一度もなかった。
「僕らが言ったとしても、伊吹はきっと外さないよ」
貴生はまっすぐに清一郎を見つめる。その視線から逃れるように、清一郎は目を伏せた。
「どうして伊吹がお面をつけているのか、清一郎はわかっているだろう?」
「…………」
「外してほしいのなら、自分で言いなさい」
優しい声音で、けれど決して清一郎を甘やかさず、貴生はきっぱりと言った。
眠る伊吹を抱き上げ、貴生は部屋を出ていく。
残された清一郎は唇を噛んだ。
わかっている。原因は清一郎が伊吹に投げつけた言葉だ。
清一郎があんなことを言ってしまったから、だからあれ以来伊吹は顔を隠し、決して清一郎に触れようとしなくなった。
清一郎が自分で招いたことなのだ。
わかっているのに、素直になれない。
もういいのだと、もう怖がってなんかいない。触れてほしい、顔を見せてほしいと、ただそれを素直に伊吹に伝えればいいだけなのに。
清一郎はぎゅっと拳を握り締める。
このまま逃げ続ければ、伊吹との関係はなにも変わらない。
清一郎は頑なに伊吹を突き放し続けてきた。だが伊吹は決して諦めず、少しずつ二人の距離を埋めようと努力してくれた。清一郎を見捨てず、助けてくれた。
だから今度は、清一郎が勇気を出す番だ。
それから数日後。
学校から帰宅した伊吹はまっすぐ自室へ向かう。部屋に置いてあるお面をつけるためだ。鞄を置き、お面をつけ、そして部屋を出る。
廊下を歩いていると、「おい」と後ろから声をかけられた。
振り返ると清一郎が立っていた。彼に声をかけられたのははじめてではないだろうか。
一瞬喜びに舞い上がるが、清一郎の顔を見てすぐに緩みかけた頬を引き締めた。彼はなにかを決意したような、強張った表情を浮かべている。なにかよくないことを言われるのかもしれない。
「どうしたの……?」
清一郎は言いにくそうに何度か口を開閉し、それから意を決したように言った。
「お前、もうお面外せよ」
「…………どうして?」
「い、いいから、外せったら外せよっ」
清一郎は僅かに声を荒げる。
伊吹は首を横に振った。
「やだよ、そんなの……」
だって伊吹は、顔を隠さなければ清一郎と一緒にいられない。伊吹の顔を見せれば、清一郎を不快にさせてしまう。だからこうしてお面で顔を隠している。
折角清一郎と会話ができるようになったのに、お面を外したらこんな風に話をすることもできなくなってしまう。
それとも、清一郎は伊吹と一緒にいたくないと思っているのだろうか。だからお面を外せなんて言ってきたのだろうか。もう二度と清一郎の前に姿を見せるなと、そう言いたいのだろうか。
「っ……」
涙が溢れそうになり、ぐっと唇を噛み締める。
少しだけ仲良くなれたと思っていた。少しずつ、距離は近づいているのだと思ったのに。
全部、伊吹の勘違いだったということなのか。
なにも言えず立ち尽くす伊吹に、清一郎が近づいてくる。
「ほら、外せよ」
「あっ……」
ショックを受けていた伊吹は反応が遅れ、清一郎に無理やりお面を取られてしまった。
慌てて両手で顔を隠す。
「やだっ、返して……っ」
手は使えないので、必死に声を上げて訴えた。
それなのに、清一郎は返してくれるどころか、伊吹の手を掴んで顔から離そうとしてくる。
「やだぁっ」
「隠すなよっ」
「やっ……」
強引に手を引き剥がされ、清一郎の前に顔を晒される。
伊吹は顔を俯け、必死に彼に見られないように隠そうとした。
涙が零れてしゃくり上げれば、清一郎はぎょっとしたように手を解放した。
「な、なんで泣くんだよっ」
「ど、どうしてお面外すの……? 僕のこと、嫌いだから……?」
「なっ……そんなわけないだろ!」
「じゃあ、なんで……僕は、お面がなかったら清一郎と一緒にいられないのに……」
「なんだよそれ……。お面なんかなくたって、別に、一緒にいられるだろっ」
「だって……僕、不細工だから……。僕の顔見せたら、清一郎を嫌な気持ちにさせちゃうもん……」
「っ……」
「返して、お面……」
片方の腕で顔を隠し、もう片方の腕を伸ばして手を差し出す。
お面を返してほしくて差し出したその手を、清一郎がぎゅっと握った。両手で、縋るように握られ、伊吹は驚いて思わず顔を上げてしまう。
すると、泣きそうな顔でこちらを見る清一郎と目が合った。
「あ……」
「ごめん……っ」
「え……?」
「お面なんかいらない! 隠す必要なんかない!」
「で、でも……」
「お前は不細工なんかじゃない! そんな風に思ったことなんてない!」
「え……?」
「傷つけるようなこと言ってごめん!」
悲痛な表情で、清一郎は必死に謝罪を繰り返す。
「ごめん、ごめんなさいっ……はじめて会ったとき、人に触られるのが怖くて、でも怖がってるのを知られたくなくて、強がって、遠ざけたくて、わざとひどいこと言ったんだ……。でも、今は違う。お前に触られるのは怖くない、嫌なんかじゃない……っ」
清一郎の言葉を、伊吹は呆然と聞いていた。
「俺は、伊吹に触れたい……伊吹に、触ってほしい……普通に話したいし、ちゃんと伊吹の顔を見たい……」
いつしか清一郎はぽろぽろと涙を零していた。溢れる涙を拭いながら、清一郎は懸命に言葉を紡ぐ。
「どんな顔してるのか、どんな顔で笑うのか、全部知りたい……。傍にいたい……。ずっと、俺の傍にいて、伊吹……っ」
伊吹は震える両手を彼に伸ばす。そして、そっと抱き締めた。
清一郎は拒まなかった。それどころか、ぎゅうっと伊吹にしがみついてくる。
自分の胸に張り付く清一郎を信じられない気持ちで見つめながら、伊吹は言った。
「傍にいるよ、清一郎……」
「ずっとか……?」
「うん。ずっと、清一郎と一緒にいる」
「ほんとだな? 約束だぞ」
「うん」
頷くと、清一郎は伊吹の胸から顔を上げた。
瞳を涙で濡らしながら、清一郎は満面の笑みを浮かべた。
はじめて見る清一郎のその綺麗な笑顔に見惚れ、そして伊吹もつられるように微笑んだ。
それから、清一郎は伊吹にべったりになった。
彼の態度の変化に戸惑いつつも、伊吹はそれを嬉しく思った。やっと、彼と家族のような関係を築くことができたのだ。伊吹が望んでいた、兄弟のような関係に。
触れていいと言われても、伊吹はまだ躊躇い、なかなか自然に清一郎に手を伸ばすことができなかった。清一郎を怖がらせ、手を振り払われてしまうのではという不安が消えず、どうしても清一郎に手を伸ばすときに緊張してしまっていた。
そんな伊吹に大丈夫だと伝えるように、清一郎の方から伊吹にたくさん触れてくれた。
だから、伊吹も徐々に自然と清一郎に触れるようになっていった。
不用意に触れても、もう清一郎は怯えることはない。悪戯で頬をつついても、「なにすんだ」とじろりと伊吹を睨むが、本気で怒っているわけではない。寧ろ伊吹が触れると嬉しそうに瞳を和らげる。
変化はそれだけではなく、清一郎はよく笑顔を見せてくれるようになった。
屈託のないその笑顔は、伊吹がずっと見たいと願っていたものだ。
清一郎とただ一緒にいられるだけで嬉しくて、とても幸せだった。
そして数年後、清一郎は学校に通えるまでに回復した。対人恐怖症のような症状はなくなり、初対面相手とも普通に会話ができるようになった。
ただ、親しくない相手に触られるのはまだ苦手なようだ。だがそれ以外は、普通に生活を送れるようになっていた。
貴生と栞の家で過ごす、伊吹との四人での生活は清一郎にとって幸せな日々だった。
高校生になった今も、清一郎は変わらず彼らと暮らしている。
不満なのは、伊吹と同じ学校に通えないことだ。伊吹とは五歳年齢が離れている。清一郎が高校生の今、伊吹は大学生で、清一郎が大学に通うときには伊吹はもう大学を卒業している。仕方がないこととはいえ、それが無性に悔しかった。
家の中ではずっと一緒だ。もう何年も、伊吹と一緒に過ごしている。
けれど、家の中だけが伊吹の生活の全てではない。学校生活を彼と一緒に過ごせないことが清一郎にとっては堪らなくもどかしく辛かった。
伊吹が学校で誰と、どんな風に過ごしているのか。誰に対しどんな気持ちを抱いているのか。
それが気になって仕方がなかった。
伊吹のことを恋愛対象として好きだと自覚してからは、毎日悶々としている。
今のところ大丈夫そうだが、いつ伊吹に好きな人ができるかわからない。いつ誰に掻っ攫われてしまうかと気が気ではなく、不安な日々を過ごしていた。
告白はできない。自分はまだ子供だ。伊吹にとっても弟でしかなく、恋愛対象にはなれないだろうから。だから、告白をするならせめて高校を卒業してからと考えていた。
まだ若いんだから。これから色んな人と出会うから。一時の気の迷いと思われ、そんな理由で告白を断られるのは真っ平だ。
ちゃんと、清一郎を恋愛対象として見てもらいたかった。その上で答えてほしかった。
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