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31 預かり知らぬこと
しおりを挟む「なんだこれ……?」
エディは手元の書類から視線を上げて、目の前に立つレヴェントを唖然とした面持ちで見つめた。
「婚約と婚姻に関する書類一式だが?」
「……だよな」
何度見てもそれで間違いない。いや、そこじゃない。なぜお前がそんなものを僕に寄越すのかと聞いているんだ。
「俺とハティスの婚約と婚姻だ」
「そうか、おめでとう」
「――じゃないわ!この人攫い、何回使いの者をやっても上手い事言い含めやがって。今日こそ僕のハティスを返してもらうからな!」
「お前が言ってるのはシェリノール公爵家で帰りを待っている、もうじき俺のつ、妻になる予定の誰よりも美しい俺のハティスか?前にも言ったがお前のではなく俺のハティスだ、エディ」
「お前……何回俺のって言うんだ。妻ってなんだ。ああ、頼むから震えるなよ」
エディは舌打ちした。ここ数日自分は邸に帰れていないというのに。
「おい、レーヴェ」
「エディ、ハティスは自分の名を思い出した。俺やお前に関する記憶が戻ったぞ」
「……お前、そういう大事なことは先に教えてくれないか?」
「――つまり断片的で、全てを思い出したわけではないんだな?」
「ああ。ハティス本人もまだよくわかっていないらしい。今後ふとした瞬間に思い出すのかもしれないし、そのままかもしれない」
「それでいいよ、つらい事は思い出してほしくない。名前を思い出したなら僥倖だ。で、ハティスはどうしてる?」
「邸で穏やかに過ごしているから心配するな。父も義母もかわいい娘ができたとよろこんでいる」
夜会の翌朝、深く眠るハティスを残して今後について相談をするためレヴェントは本邸に赴いた。
ハティスの滞在は家令から知らされていたらしい。父は普段どおり振るまいながらそわそわと落ち着かない。義母はよろこびつつ心配もしていた。イルディスは表情を硬くしようと努めているが溢れんばかりの笑顔を全く隠せていない。
「……昨晩はその、お疲れだったな」
公爵の一言に食堂は沈黙に包まれた。
”お疲れ”それはなにに対してかと、発言した公爵含む全員が気まずい空気になった。
「――ごほっ、夜会の代理ご苦労という意味だ。帰りが随分遅かったらしいが」
「夜会での事後処理で帰宅が遅くなりました。ですがじき片付けます。この場に彼女を連れて来られず申し訳ありません」
「いや、構わない。それでこれからどうする」
「婚約を、そして期間は置かず婚姻したいと考えています」
「レヴェント、気持ちはわかるが性急過ぎではないか。あちらにも都合があるだろうし、女性は特に準備に時間がかかるものだろう」
「ええ、よく理解していますがまた王家に奪われては困りますから」
”王家に奪われる”その一言に、公爵が眉を顰める。
かつて臣籍降下する際の屈辱は決して忘れない。自身と息子たちが持つ王位継承権を返上したいと考えるほど煮えたぎるものがある。
イルディスからフスレウ侯爵令嬢の話は渾々と聞かされている。これまでレヴェントには我慢を強いてきた。では父としてなにをすべきか。
「フスレウ侯爵には私から話をしよう」
「やったね……っ!これから仕事だけど祝杯を上げたい気分だよ。おめでとう義兄さん、ハティスを義姉さんて呼んでいいかな。夜は早めに帰ってくるよ」
「おめでとう、レヴェントさん」
「ありがとうございます、義母上」
「堅苦しいのはなしにしよう。侯爵家と同じようにとはいかないかもしれないが、穏やかに過ごしてほしい」
「ありがとうございます、公爵閣下」
頬を染めるハティスを誰もが好ましく見ていた。彼女の話に皆が表情を綻ばせていた。
レヴェントが一度は諦めた、ずっと切望していたものがそこにあった。
穏やかに過ごせているならなによりだ。なにしろエディはここ数日王宮に軟禁状態なのだ。
一日目。ハティスはシェリノール公爵夫妻の代理としてレーヴェと夜会に出席した。会場で厄介事があったため侯爵家には帰らずシェリノール公爵家へ行くと連絡があった。……まあ、仕方ないだろう。
二日目。朝公爵家に使いをやった。執務を終えて帰宅したが妹の姿がないため、再び使いをやった。程なくして使いの者だけ帰ってきた。妹はどうした、妹は。今日も滞在すると言われただと?だが、少し前に公爵家に滞在して楽しかったとハティスが話していたのを思い出して、その日も承諾した。
三日目。早朝公爵家を訪れた。ハティスはまだ眠っているのにかわいそうだろうと説教された。確かに早すぎたか。そのままレーヴェと同じ馬車で王宮に出仕して、帰りは一緒に公爵家に行くと伝えて別れた。絶対伝えた。執務を終えて近衛の本部に向かうと団長は帰っただと。……は?
レーヴェを追いかけようとした矢先、殿下に用事を押しつけられ、それ以来侯爵家に帰っていない。
「――そういえば見事だったな、レーヴェ」
数日前に以前から問題になっていた人身売買組織が摘発、捕縛された。中心にいたのはデュネ伯爵だった。鉱山の採掘権を巡る隣国との黒いつながりが噂になっていた子爵も拘束された。
王太子殿下の命を受け、捜査をしたのは近衛騎士団だと聞いたが、実際に指示したのはレヴェントだろう。
デュネ伯爵家の令嬢はかつて殿下の婚約者だったハティスに悪質な嫌がらせを繰り返していた。子爵家の令嬢も然り。エディが携わっている不正調査対象の中にも、同じような令嬢が数人いる。
これは報復だろう。
エディはレヴェントを見遣った。レヴェントは表情を変えず静かにエディを見つめ返す。
デュネ伯爵令嬢の行いを見過ごすつもりはなかった。
終始自己弁護に煩く、偽りの涙を流して同情を引こうとしながら、憎悪を滲ませハティスを睨みつけていた。全てがレヴェントを不快にさせた。だから決めた。――家ごと消してやろう。
どのみち伯爵が爵位を失えば彼女も終わりだが、彼女自身の罪状をつまびらかにしたかった。目撃した者は多数いるので言い逃れはさせない。二度とハティスの前に現れないように始末する。
まだ煩く喚いていたが、予め配置していた部下に引き渡すともう興味を失った。レヴェントが関心を向けるのはハティスだけで他はどうでもよい。
「俺はなにもしていない。そちらはどうだ、エディ」
「ばっちりだよ。二、三日中には片付く。少しの間王都も騒がしいだろうがすぐに落ち着く」
領地税収の悪質な申告漏れ、国費の横領。それらをまとめて摘発する予定だ。以前婚約解消の際にチラつかせた王宮に蔓延る不正を殿下直々に正せと命じられた。
(なにもしていない、か……)
ここ数日で様々な事が秘密裡に動いている。その全てに関わっているのがレヴェントだろう。
「だからハティスはシェリノール公爵家にいるのが安全だと思わないか?」
「フスレウ侯爵家も安全なんだが?」
「だがお前も侯爵も忙しくて帰れていないだろう。摘発後もしばらくはまともに邸に帰れないぞ。ハティスを一人にして心配じゃないのか、俺のところなら義母がいる」
エディは眉を顰める。
「誰のせいで忙しいと思ってるんだ」
まあ嫌だったらハティスは帰ってくるはずだがそうなっていない。つまりそういう事なんだろう……
「……夕食は公爵家で取るからな、置いて帰るなよ」
「ああ、ハティスもよろこぶ」
「とりあえず婚約期間は三年ほど置くか」
「二度と公爵家に出入りできないようにするか?ハティスに嫌われるぞ、今朝だって……」
「……思い出して赤くなるなよ」
レーヴェがいなければ、こんな未来はなかったのかもしれない。
イスハーク殿下に疎まれたまま冷たい結婚をして、ハティスは泣いて暮らしたかもしれない。婚約破棄されて王都にいられなかったかもしれない。あるいは最悪の結末を迎えたかもしれない。
不意にエディの脳裏に浮かんできた考えは、どこか現実味を帯びていた。
いや……、とすぐに忘れることにした。目の前にいる親友がいないなどあり得ない。
それから数日後、政権の中心にいた貴族たちが次々失脚した。シェリノール公爵家にいたハティスは預かり知らない。レヴェントはつまらない事でハティスを煩わせるつもりはなかった。
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