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第一章 ハロー、旦那様。
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しおりを挟む考え込んでいたから正確な時間はわからないけれど、恐らく十分か二十分かそこらだったと思う。車が滑るように入ったのはどこかのロータリー。玄関の目の前で止まれば、直ぐにドアマンが寄ってきた。
「大谷様」
「こんばんは。車をお願い出来ますか?」
「もちろんでございます」
そのやり取りを口を馬鹿みたいに開けて眺めていると、先に車を降りた彼が助手席のドアを開けてくれた。手を差し出す彼は、生まれながらのジェントルマンなのか・・・。
「ふっ、大丈夫ですか?」
「あっ、え、ええ。大丈夫です」
にこりと可愛らしく笑う彼にアタフタと鞄を掴んでから、平気だと手の平を上げて見せる。もしかしたら口の端から涎が垂れていたかもしれない。なんだかドラマや映画の世界に迷い込んでしまった気分。汗ばんだ手をさっとズボンで拭いてから彼の手に重ねると、ふわりと腰が持ち上がる。立ち上がる瞬間に合わせて手を引いてくれたのだろう。気遣いの天才かよ、このヤロウ。
「突然の誘いに応えていただき、感謝します。エスコートさせていただいても?」
隣に立つ彼は私より十センチ程視線が高い。おそらく日本人の平均身長くらいだと思う。それでもスラリと格好良く見えるのは、身体にジャストフィットした素敵なスーツとピンと姿勢の良い立ち振る舞い。上流階級の人間に間違いない。
そんな彼が肘を少し曲げてここに腕をどうぞとしてくる。見下ろしてくる瞳は赤子を見るように優しい。吸い込まれるように腕を入れると、彼に引き寄せられながら絡められる。ああ、神様。私の心臓が壊れてしまいませんように。
彼のコツコツといちいち格好良い革靴の音の横で、トットットとスニーカーが不釣り合いにタイルを叩く音を鳴らしている。正面玄関から入ればそこは広いロビーで、ここがどこかのホテルなんだと気付いた。もちろん私が泊まったことのあるようなホテルではない。テレビで見る様な、あの眺めるだけでお腹いっぱいになれる高級ホテルだ。
出来るだけ俯いて、パーカーの裾を引っ張りながら歩いた。こんなに素敵な彼の隣で、私の存在は余りにも不自然で。それはきっと彼もそう感じていて、足取りは競歩に近い。見なくてもわかる周りからの視線が、私の身体の至る所に突き刺さる。痛みで現実に戻されてしまいそうになるくらいに。
「顔を上げてください」
突然足を止めた彼に、突き進もうとしていた身体を引き戻された。足を速めていたのは、彼ではなく私だったんだ。
「僕は貴女と素敵な時間を過ごすためにここにいるんです。僕には貴女しか見えていない。___貴女は?」
思わず顔を上げていた。これまでの人生で言われたことのない言葉を、直ぐには理解出来なくてもう一度頭の中で再生する。
「私も・・・」
「それじゃあ、行きましょう」
彼の天使の微笑みに、心が羽のように軽くなった気がした。今の私は彼に良く見られていれば、他にどう思われようとなんだっていいんだ。場違いだとかそんなこと私が一番わかっている。それでも彼の隣にいるのは私なんだ。沸き上がる優越感と共に、この時間が僅かなのだと言う現実的な自分が顔を出す。そうなんだって、馬鹿みたいにお花畑にいられたらいいのに。
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