33 / 61
魯粛子敬
しおりを挟む
劉備は劉琦から夏口城を与えられた。
そこが新野にかわる彼の居城となった。
「弟が戦わずに荊州を曹操に明け渡してしまうとは、完全に予想外でした。こんなことなら、命を賭けてでも私が荊州牧になるべきだった」と劉琦は言ったが、後の祭りである。
「劉琦殿、力を合わせて荊州を取り戻そう。いつまでも曹操の思いどおりにはさせん」と劉備は答えた。
長江北岸の夏口城から間諜を放ち、曹操の動きを探った。大量の軍船を集めていることがわかった。
「曹操は江夏郡を除く荊州を占領しました。次は揚州を制圧しようとしているのでしょう」と孔明は言った。
揚州は長江の水運を利用して栄えている。
そして、孫権は強力な水軍を持っている。
「曹操も水軍を持とうとしています。それも孫権様の水軍を圧倒するような大水軍を。揚州軍を降伏させれば、曹操の覇業は達成されたようなものです。それを……」
「阻まなくてはならん」
劉備は瞑目してつぶやいた。
「そのとおりです。人民を虐殺するような男に天下を渡すわけにはいきません。しかし、殿と劉琦様の力だけでは、曹操に対抗することはできません。なんとしてでも、孫権様に戦ってもらわなくてはなりません」
「おれが孫権に頼めばよいのだろうか」
「いいえ、殿と孫権様は、対等な形で同盟を結ぶのです。そうでなくては、殿は飛躍できません」
「しかし、おれは単なる城主で、孫権は揚州の主だ。どう考えても、あちらが上じゃないか」
「そこはうまく交渉するしかありませんね」
「孔明」
劉備は軍師の瞳を見た。
「はい。私が交渉します」
孔明はにこりと微笑んだ。
だが、孔明はすぐには動かなかった。機を見ていた。
やがて揚州から、魯粛という男が夏口城にやってきた。
魯粛子敬は172年、徐州下邳国の豪族の家に生まれた。
少年の頃に黄巾の乱が勃発した。天下を安らかにしようと一念発起して、剣や弓の練習をし、熱心に兵法を学んだ。その熱意は、周囲の者たちを驚かせるほどだった。
二十二歳のとき、魯粛は曹操の徐州大虐殺を目の当たりにした。曹操を心の底から憎み、殺してやりたいとすら思ったが、彼には力がなかった。曹操に抗戦したのは、他州から来た劉備だった。
その後、魯粛は揚州九江郡を領有する袁術に仕え、官吏として能力を発揮した。しかし、民から税を搾り取る袁術のやり方に失望して辞職し、故郷に帰った。この頃、江東の小覇王と呼ばれる孫策や彼の軍師、周瑜と知り合っている。
袁術は皇帝を自称したが、暴飲暴食がたたって病死した。
孫策は英雄的な戦いをして、急速に勢力を伸ばし、揚州を支配するほどになったが、倒した豪族の家臣に恨まれ、暗殺された。
一方、魯粛は徐州で暮らしながら、天下の情勢を眺めていた。憎い曹操が力を伸ばし、袁紹を倒して天下第一の勢力を得るのを、歯噛みしながら見ていた。相変わらず、魯粛には力がない。
無力感に苛まれていたとき、周瑜から孫権に仕えないかと誘われた。孫権は孫策の弟で、彼の後継者である。
「孫権様は、曹操と戦ってくれるだろうか?」と魯粛は周瑜にたずねた。
「それはわからないが、曹操と戦えるのは、この国で孫権様しかいないだろうな」
その言葉を聞いて、魯粛は孫権に仕官する決意をした。
孫権は魯粛と面会し、その非凡さを認めた。魯粛は揚州の重臣のひとりになった。
曹操が荊州に侵攻し、劉琮を降伏させたとき、魯粛はついにこのときが来た、と思った。
曹操と対決すべきときが来たのだ。
しかし、相手は荊州を併呑し、九つの州の主となった大敵である。
孫権はまだ態度を明らかにしていない。曹操と戦うとも、降伏するとも言っていない。
魯粛は断じて戦うべきだと考えていたが、張昭などの古くからの孫家の重臣は、とうてい抗し得ないと見て、降伏すべきだと主張し始めていた。
魯粛は連携できる相手として、劉備と劉琦に注目した。
「江夏郡は、曹操に降伏していません。ようすを探ってまいります」と彼は孫権に言った。
「頼む」と揚州の主は答えた。
孫権は孫策から「揚州を奪おうとする者が到来したら、勇気を持って戦え」と遺言されていた。
江夏郡との同盟は、孫権にとってもひとつの選択肢であった。
「劉備様は、どうして曹操に降伏しないのですか」
魯粛は夏口城で劉備にたずねた。
「天下で曹操と戦えるのは、おれだけだからだ」
劉備は、揚州から来た使者、魯粛を挑発してやろうと思い、わざと大口を叩いた。
「おかしなことを言われる。劉備様は一城の主でしかないではありませんか。曹操に対抗できるのは、わが主、孫権様ただひとりです」
「孫権殿に戦意はあるのか?」
あります、と魯粛は即答できない。孫権はいまだ、戦争か降伏かの決断を保留している。
「私は一介の家臣です。殿のお考えをすべて知っているわけではありません」
「おれは、たったひとりでも曹操と戦うつもりだ。だが、孫権殿と同盟できるなら、心強いと思っている」
魯粛は、曹操と戦うと断言した劉備を好ましいと思った。かつて徐州で虐殺者曹操と戦った実績もある。
魯粛個人としては、劉備と連携したかった。しかし使者としては、簡単にうなずくわけにはいかない。劉備と同盟することは、曹操に敵対することと同義なのである。
「劉備様のお気持ちはわかりました。揚州へ帰り、主に報告させていただきます」
「待ってください」
劉備のそばで話を聞いていた孔明が、口をはさんだ。
「殿、私は魯粛様とともに揚州へ行き、孫権様に会いたいと思います。よろしいでしょうか」
「おう。おれの使者として行ってくれ。魯粛殿、かまわんかね?」
魯粛はいぶかしげに孔明を見た。
「この方は?」
「諸葛亮孔明という。若いが、おれの軍師だ」
そこが新野にかわる彼の居城となった。
「弟が戦わずに荊州を曹操に明け渡してしまうとは、完全に予想外でした。こんなことなら、命を賭けてでも私が荊州牧になるべきだった」と劉琦は言ったが、後の祭りである。
「劉琦殿、力を合わせて荊州を取り戻そう。いつまでも曹操の思いどおりにはさせん」と劉備は答えた。
長江北岸の夏口城から間諜を放ち、曹操の動きを探った。大量の軍船を集めていることがわかった。
「曹操は江夏郡を除く荊州を占領しました。次は揚州を制圧しようとしているのでしょう」と孔明は言った。
揚州は長江の水運を利用して栄えている。
そして、孫権は強力な水軍を持っている。
「曹操も水軍を持とうとしています。それも孫権様の水軍を圧倒するような大水軍を。揚州軍を降伏させれば、曹操の覇業は達成されたようなものです。それを……」
「阻まなくてはならん」
劉備は瞑目してつぶやいた。
「そのとおりです。人民を虐殺するような男に天下を渡すわけにはいきません。しかし、殿と劉琦様の力だけでは、曹操に対抗することはできません。なんとしてでも、孫権様に戦ってもらわなくてはなりません」
「おれが孫権に頼めばよいのだろうか」
「いいえ、殿と孫権様は、対等な形で同盟を結ぶのです。そうでなくては、殿は飛躍できません」
「しかし、おれは単なる城主で、孫権は揚州の主だ。どう考えても、あちらが上じゃないか」
「そこはうまく交渉するしかありませんね」
「孔明」
劉備は軍師の瞳を見た。
「はい。私が交渉します」
孔明はにこりと微笑んだ。
だが、孔明はすぐには動かなかった。機を見ていた。
やがて揚州から、魯粛という男が夏口城にやってきた。
魯粛子敬は172年、徐州下邳国の豪族の家に生まれた。
少年の頃に黄巾の乱が勃発した。天下を安らかにしようと一念発起して、剣や弓の練習をし、熱心に兵法を学んだ。その熱意は、周囲の者たちを驚かせるほどだった。
二十二歳のとき、魯粛は曹操の徐州大虐殺を目の当たりにした。曹操を心の底から憎み、殺してやりたいとすら思ったが、彼には力がなかった。曹操に抗戦したのは、他州から来た劉備だった。
その後、魯粛は揚州九江郡を領有する袁術に仕え、官吏として能力を発揮した。しかし、民から税を搾り取る袁術のやり方に失望して辞職し、故郷に帰った。この頃、江東の小覇王と呼ばれる孫策や彼の軍師、周瑜と知り合っている。
袁術は皇帝を自称したが、暴飲暴食がたたって病死した。
孫策は英雄的な戦いをして、急速に勢力を伸ばし、揚州を支配するほどになったが、倒した豪族の家臣に恨まれ、暗殺された。
一方、魯粛は徐州で暮らしながら、天下の情勢を眺めていた。憎い曹操が力を伸ばし、袁紹を倒して天下第一の勢力を得るのを、歯噛みしながら見ていた。相変わらず、魯粛には力がない。
無力感に苛まれていたとき、周瑜から孫権に仕えないかと誘われた。孫権は孫策の弟で、彼の後継者である。
「孫権様は、曹操と戦ってくれるだろうか?」と魯粛は周瑜にたずねた。
「それはわからないが、曹操と戦えるのは、この国で孫権様しかいないだろうな」
その言葉を聞いて、魯粛は孫権に仕官する決意をした。
孫権は魯粛と面会し、その非凡さを認めた。魯粛は揚州の重臣のひとりになった。
曹操が荊州に侵攻し、劉琮を降伏させたとき、魯粛はついにこのときが来た、と思った。
曹操と対決すべきときが来たのだ。
しかし、相手は荊州を併呑し、九つの州の主となった大敵である。
孫権はまだ態度を明らかにしていない。曹操と戦うとも、降伏するとも言っていない。
魯粛は断じて戦うべきだと考えていたが、張昭などの古くからの孫家の重臣は、とうてい抗し得ないと見て、降伏すべきだと主張し始めていた。
魯粛は連携できる相手として、劉備と劉琦に注目した。
「江夏郡は、曹操に降伏していません。ようすを探ってまいります」と彼は孫権に言った。
「頼む」と揚州の主は答えた。
孫権は孫策から「揚州を奪おうとする者が到来したら、勇気を持って戦え」と遺言されていた。
江夏郡との同盟は、孫権にとってもひとつの選択肢であった。
「劉備様は、どうして曹操に降伏しないのですか」
魯粛は夏口城で劉備にたずねた。
「天下で曹操と戦えるのは、おれだけだからだ」
劉備は、揚州から来た使者、魯粛を挑発してやろうと思い、わざと大口を叩いた。
「おかしなことを言われる。劉備様は一城の主でしかないではありませんか。曹操に対抗できるのは、わが主、孫権様ただひとりです」
「孫権殿に戦意はあるのか?」
あります、と魯粛は即答できない。孫権はいまだ、戦争か降伏かの決断を保留している。
「私は一介の家臣です。殿のお考えをすべて知っているわけではありません」
「おれは、たったひとりでも曹操と戦うつもりだ。だが、孫権殿と同盟できるなら、心強いと思っている」
魯粛は、曹操と戦うと断言した劉備を好ましいと思った。かつて徐州で虐殺者曹操と戦った実績もある。
魯粛個人としては、劉備と連携したかった。しかし使者としては、簡単にうなずくわけにはいかない。劉備と同盟することは、曹操に敵対することと同義なのである。
「劉備様のお気持ちはわかりました。揚州へ帰り、主に報告させていただきます」
「待ってください」
劉備のそばで話を聞いていた孔明が、口をはさんだ。
「殿、私は魯粛様とともに揚州へ行き、孫権様に会いたいと思います。よろしいでしょうか」
「おう。おれの使者として行ってくれ。魯粛殿、かまわんかね?」
魯粛はいぶかしげに孔明を見た。
「この方は?」
「諸葛亮孔明という。若いが、おれの軍師だ」
20
あなたにおすすめの小説
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる