劉備が勝つ三国志

みらいつりびと

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孫尚香

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 劉備は荊州南部で多くの人を得たが、亡くなる人もいた。
 公安城内で甘夫人が胸を押さえて倒れ、急死したのである。
 四歳になる息子の劉禅と遊んでいるときのことだった。
 心臓発作。劉禅が泣き、趙雲が気づいて、劉備に知らせた。
 劉備が駆けつけたとき、すでに甘夫人は息をしていなかった。
「こいつには苦労ばかりかけたな。せめて天では楽しく暮らしてくれ……」
 
 甘夫人は劉備が徐州で曹操に敗れた後、関羽に守られながら敵地許都で過ごしたことがある。
 長坂の戦いのときは、趙雲とともに命からがら逃走した。
 劉備が荊州で力を持ち、ようやくしあわせを実感できるようになった矢先の死去。劉備はがくりと肩を落とした。
 彼女のやさしい人柄を知っている関羽、張飛、趙雲も泣いた。
 麋夫人につづいて甘夫人が病死し、劉備には妻がいなくなった。

 その状況を揚州から冷静にうかがっている者がいた。魯粛である。
「殿、劉備殿に夫人がひとりもいなくなっています。あの方と婚姻関係を結び、同盟をますます強固なものにすべきです」と彼は孫権に進言した。
「劉備との同盟をこれからもつづけていくべきだろうか?」
「もちろんです。曹操は赤壁で敗れたとはいえ、いまもこの国の北半分を支配する実力者です。彼に対抗するためには、劉備殿との同盟が欠かせません」
「妹の尚香が独身だが……」
「尚香様が劉備殿に嫁げば、揚州と荊州の同盟は固くなり、曹操の侵略を防ぐことができます」

「ふむう……」
 孫権は腕を組んで考え込んだ。
 彼は赤壁の戦いの後、曹操が支配する合肥を攻めたが、撃退されていた。
 合肥は揚州北部の九江郡にある要衝。孫権は揚州のほとんどを支配していたが、九江郡だけは曹操のものだった。
 九江郡が欲しい。
 そのためには劉備との同盟を堅持し、曹操に対抗していかねばならないのだろう……。

 魯粛の孫劉同盟強化論に反対したのは、周瑜亡き後に揚州軍を懸命に強くしようとしている呂蒙だった。
「殿、劉備は周瑜様が取るはずだった荊州をかすめ取った泥棒のような男です。彼との同盟など破棄してもよいのです」
 呂蒙は対劉備強硬論者だった。その主張を聞き、魯粛は激しく首を振った。
「同盟破棄などとんでもないことです。そんなことをすれば、曹操の思う壺です。揚州も荊州も征服されてしまうでしょう」
 孫権はふたりの意見を慎重に吟味した。
「やはり同盟強化が現実的な選択肢であろう」と決断した。

 問題は劉備と孫尚香の年の差だった。
 劉備はすでに五十歳。尚香はまだ十九歳である。彼女はこの政略結婚にうんと言うだろうか。

 孫尚香は絶世と言えるほどの美女だった。
 恋焦がれる男は多かったが、彼女の理想の男性は、早逝した兄の孫策であった。孫策は並はずれた美男子で、しかも勇猛果敢な英雄。
 孫尚香は恋を知らず、亡き兄だけを想って生きていた。
 想うだけでなく、兄のようになろうとした。彼女の趣味は武術の修行であった。珍しいタイプの女性である。

「尚香、これはまだ先方にも話していないことなのだが、劉備殿に嫁いでもらえないか」
 孫権は妹にそう話しかけた。
 尚香とて、名家の娘である。いずれ政略結婚をしなければならないだろうと覚悟はしていた。
 しかし彼女には、結婚するなら兄のような英雄としたいという夢があった。

「劉備様は英雄ですか?」
「もちろん英雄だ。当代、あの人ほどの英雄はおるまい。強大な曹操と戦いつづけてきた。劉備殿を超える英雄はひとりもいないと言ってもいい」
 孫権は言葉に力を込めた。尚香がその気にならなければ、政略結婚は成立しないのである。
 彼女は悲しげな顔になった。兄の孫策は誰にも負けない英雄であると思っているが、もうこの世にいない。
「策兄さんと比べたら……?」 
「兄上とか。互角かな。だが、劉備殿はもう五十歳なのだ。若いおまえには酷な結婚かもしれないが……」
「年の差などどうでもいいのです。劉備様が真に英雄であれば、わたしは嫁ぎます」と尚香は言った。
 乱世を生き抜き、荊州の主となった劉備はまごうことなき英雄だと孫権は思っている。
 彼は魯粛を使者として公安城に派遣し、この婚姻を申し込ませた。

「どうする?」
 劉備はふたりの軍師と相談した。
 彼は龐統の才能を認め、孔明と同格の軍師中郎将に昇進させていた。
 孔明も龐統も、孫権との同盟強化には反対しなかった。

「孫権様の妹とご結婚されるのは、けっこうなことかと思います。しかし、揚州へ行くのはやめた方がよいでしょう。暗殺される怖れがあります」と孔明は言った。
「暗殺? 結婚しに行くのに、殺されるのか?」
「呂蒙殿などは、殿を排除したがっていると思います。そういう勢力が揚州にいるのはまちがいありません」
「しかし魯粛殿は、おれに揚州へ来て、孫尚香という娘に会ってほしいと言っているが」
「どのように決断するか、むずかしいところです」
 孔明は首をかしげた。彼は孫権との同盟には賛成だが、揚州へ行くのは反対だった。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず。一度は揚州へ行かねばなりますまい」と龐統は言った。
「そのとおりだ。暗殺を怖れて荊州から出られないと言われると、この劉備の男がすたる」
「ではせめて、屈強な護衛を連れていってください」
 そう言って、孔明は主の揚州行きに同意した。

 210年秋、劉備は魯粛とともに長江の船に乗り、揚州の首府建業へ向かった。
 張飛と趙雲が、蛇矛と涯角槍をそれぞれ持って、劉備に従っていた。 
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