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外交
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孫尚香は伊籍と関平とともに、揚州へ行くことになった。
伊籍は外交の担当者で、関平は護衛役。
彼女たちは巴郡の江州から船に乗り、長江を下った。
途中、公安に寄港した。船に孫乾が乗り込んできた。彼は徐州時代から、劉備に交渉役を任されてきた男である。
「奥方様が正使で、私たちは付き添いのようなものです」と孫乾は言った。
「えーっ、孫乾様や伊籍様は、外交の専門家ではないですか。私は兄とちょっと話をするだけですよ」
「孫権様と少し話すだけのことが、私たちにはとてもむずかしいのです」
「でも……」
「奥方様、よろしくお願いします。殿と孫権様の結びつきを強くするのは、あなたにしかできないことなのです」
孫乾はうやうやしく頭を下げた。
長江は巨大な河川で、川幅が広く、とてつもなく長い。
船は益州から出て、荊州を通過し、揚州へ入った。
孫乾と伊籍の話は面白く、尚香は退屈しなかった。彼らは多くの情報を持っていた。
「曹操は涼州を制圧しました。次は漢中郡を狙っているようです」
「張魯はどうするのでしょうね。五斗米道の男性教徒は、全員兵士であるとも聞きます。漢中郡は曹操と戦いますかね」
「張魯の弟、張衛は優秀な指揮官らしいですし、戦争になるのではないですか」
尚香は、ときどきふたりの話に割って入った。
「漢中郡って、益州の北部ですよね。曹操に取られたら、大変なことになりそうですね」
「そうです。首に刃を突きつけられたような状態になります。怖ろしいことです」
「殿は曹操とは対決するおつもりですからね。そのためにも、孫権様とは仲よくしておかねばなりません」
ふたりの外交官は、周りに人がいないのを確かめてから、小声で語った。
関平は物静かな男だった。尚香とは、劉備らの前で試合をした縁がある。
甲板の上でひとり黙々と剣の素振りをしたり、春秋左氏伝を読んでいたりした。
「その本、面白いのですか?」と尚香がたずねると、彼は書物を閉じた。
「父の愛読書なのですが、正直に言うと、私にはあまり面白くありません。しかし私は父を尊敬しているので……」
関平は空を見上げた。
関羽は夫の義弟で、偉大な武人らしいが、尚香はその人となりをよく知らなかった。
建業に着いた。
尚香一行は孫権の居城の貴賓室に通され、手厚くもてなされた。尚香にとっては、慣れ親しんだ城だった。
到着の翌日、彼女は孫権に会った。
揚州の主は、少しやつれていた。
孫権は九江郡の合肥を何度か攻めたが、そのたびに曹操の武将、張遼らに撃退されていた。そのことを孫乾や伊籍から聞いて、尚香は知っていた。
「尚香、元気か?」
「はい。権兄さんは、少し疲れているように見えます。だいじょうぶですか?」
「そう見えるか? 私はなんともないぞ」
孫権は笑った。尚香には、無理に微笑んでいるように思えた。
兄妹はたわいもない話をしばらくした後、本題に入った。
「玄徳様から、言伝を預かっています。孫権殿とは、これからも親しくしていきたい。その証として、江夏郡を差し上げる、とのことです」
尚香がそう言った途端、孫権は不機嫌になった。
「劉備殿は一州を得たのに、私には一郡しか与えないというのか」
「玄徳様は、戦って益州を得たのです。兄さんは、戦わずに江夏郡をもらえるのですよ。うれしくないのですか」
「うれしいはずがない。周瑜が生きていたら、荊州も益州も、私のものになっていただろう」
孫権の表情は、かなり剣呑だった。
尚香は、自分の使命が相当にむずかしいと悟った。
劉備と孫権は、実は潜在的な敵同士。その同盟は、曹操に対抗するためにやむなく結ばれているものでしかない……。
「兄さんは、江夏郡だけでは満足しないのですか」
「荊州の半分は欲しい。江夏郡、長沙郡、桂陽郡……」
「それは無理です。玄徳様は、益州と荊州の総力を挙げて、曹操と戦おうとしているのです」
「尚香、すっかり劉備殿の味方になってしまったようだな」
孫権の口調が荒々しくなった。
尚香は、そのとおりです、と口走りそうになったが、かろうじて思いとどまった。自分は正使なのだ。
「わたしは兄さんと玄徳様、両方の味方です。双方がよい道を歩めるよう努めたいのです」
孫権は、妹が商人のような笑みを浮かべているのに気づいた。
こいつはただの使者なのだ、と思った。
孫権も妹に外交的な回答をした。
「尚香、江夏郡はありがたく頂戴する。劉備殿に深く感謝すると伝えてほしい」
「はい、承りました。それともうひとつ……」
「なんだ?」
「曹操を攻撃してください。わたしたちの共通の敵です」
「それならやっている。合肥がなかなか取れないのだ」
たかが県ひとつ取れないなんて情けない、と尚香は思ったが、口には出さなかった。
建業滞在中、孫乾と伊籍は、魯粛や呂蒙などの重臣たちと交渉を重ねた。
魯粛は孫劉同盟を重視していたが、呂蒙や陸遜は対劉備強硬派だった。
「友好関係を維持するのは、容易ではないですね」
「まったくです。揚州の武将たちは怖いなあ」
ふたりはぼやき合っていた。
関平はひたすら尚香に付き従い、周りに目を光らせていた。
彼女は終始、劉備の使者としてふるまった。自分でも驚くほど、彼の利益のためだけを考えて行動していた。
わたしはすっかり玄徳様の妻のなったんだなあ……。
孫尚香、孫乾、伊籍、関平は一か月ほど揚州に滞在した後、再び長江の船に乗った。
今度は大河をさかのぼった。孫乾は公安で降りた。
残る三人は江州まで水路で行き、そこから陸路で成都に戻った。
伊籍は外交の担当者で、関平は護衛役。
彼女たちは巴郡の江州から船に乗り、長江を下った。
途中、公安に寄港した。船に孫乾が乗り込んできた。彼は徐州時代から、劉備に交渉役を任されてきた男である。
「奥方様が正使で、私たちは付き添いのようなものです」と孫乾は言った。
「えーっ、孫乾様や伊籍様は、外交の専門家ではないですか。私は兄とちょっと話をするだけですよ」
「孫権様と少し話すだけのことが、私たちにはとてもむずかしいのです」
「でも……」
「奥方様、よろしくお願いします。殿と孫権様の結びつきを強くするのは、あなたにしかできないことなのです」
孫乾はうやうやしく頭を下げた。
長江は巨大な河川で、川幅が広く、とてつもなく長い。
船は益州から出て、荊州を通過し、揚州へ入った。
孫乾と伊籍の話は面白く、尚香は退屈しなかった。彼らは多くの情報を持っていた。
「曹操は涼州を制圧しました。次は漢中郡を狙っているようです」
「張魯はどうするのでしょうね。五斗米道の男性教徒は、全員兵士であるとも聞きます。漢中郡は曹操と戦いますかね」
「張魯の弟、張衛は優秀な指揮官らしいですし、戦争になるのではないですか」
尚香は、ときどきふたりの話に割って入った。
「漢中郡って、益州の北部ですよね。曹操に取られたら、大変なことになりそうですね」
「そうです。首に刃を突きつけられたような状態になります。怖ろしいことです」
「殿は曹操とは対決するおつもりですからね。そのためにも、孫権様とは仲よくしておかねばなりません」
ふたりの外交官は、周りに人がいないのを確かめてから、小声で語った。
関平は物静かな男だった。尚香とは、劉備らの前で試合をした縁がある。
甲板の上でひとり黙々と剣の素振りをしたり、春秋左氏伝を読んでいたりした。
「その本、面白いのですか?」と尚香がたずねると、彼は書物を閉じた。
「父の愛読書なのですが、正直に言うと、私にはあまり面白くありません。しかし私は父を尊敬しているので……」
関平は空を見上げた。
関羽は夫の義弟で、偉大な武人らしいが、尚香はその人となりをよく知らなかった。
建業に着いた。
尚香一行は孫権の居城の貴賓室に通され、手厚くもてなされた。尚香にとっては、慣れ親しんだ城だった。
到着の翌日、彼女は孫権に会った。
揚州の主は、少しやつれていた。
孫権は九江郡の合肥を何度か攻めたが、そのたびに曹操の武将、張遼らに撃退されていた。そのことを孫乾や伊籍から聞いて、尚香は知っていた。
「尚香、元気か?」
「はい。権兄さんは、少し疲れているように見えます。だいじょうぶですか?」
「そう見えるか? 私はなんともないぞ」
孫権は笑った。尚香には、無理に微笑んでいるように思えた。
兄妹はたわいもない話をしばらくした後、本題に入った。
「玄徳様から、言伝を預かっています。孫権殿とは、これからも親しくしていきたい。その証として、江夏郡を差し上げる、とのことです」
尚香がそう言った途端、孫権は不機嫌になった。
「劉備殿は一州を得たのに、私には一郡しか与えないというのか」
「玄徳様は、戦って益州を得たのです。兄さんは、戦わずに江夏郡をもらえるのですよ。うれしくないのですか」
「うれしいはずがない。周瑜が生きていたら、荊州も益州も、私のものになっていただろう」
孫権の表情は、かなり剣呑だった。
尚香は、自分の使命が相当にむずかしいと悟った。
劉備と孫権は、実は潜在的な敵同士。その同盟は、曹操に対抗するためにやむなく結ばれているものでしかない……。
「兄さんは、江夏郡だけでは満足しないのですか」
「荊州の半分は欲しい。江夏郡、長沙郡、桂陽郡……」
「それは無理です。玄徳様は、益州と荊州の総力を挙げて、曹操と戦おうとしているのです」
「尚香、すっかり劉備殿の味方になってしまったようだな」
孫権の口調が荒々しくなった。
尚香は、そのとおりです、と口走りそうになったが、かろうじて思いとどまった。自分は正使なのだ。
「わたしは兄さんと玄徳様、両方の味方です。双方がよい道を歩めるよう努めたいのです」
孫権は、妹が商人のような笑みを浮かべているのに気づいた。
こいつはただの使者なのだ、と思った。
孫権も妹に外交的な回答をした。
「尚香、江夏郡はありがたく頂戴する。劉備殿に深く感謝すると伝えてほしい」
「はい、承りました。それともうひとつ……」
「なんだ?」
「曹操を攻撃してください。わたしたちの共通の敵です」
「それならやっている。合肥がなかなか取れないのだ」
たかが県ひとつ取れないなんて情けない、と尚香は思ったが、口には出さなかった。
建業滞在中、孫乾と伊籍は、魯粛や呂蒙などの重臣たちと交渉を重ねた。
魯粛は孫劉同盟を重視していたが、呂蒙や陸遜は対劉備強硬派だった。
「友好関係を維持するのは、容易ではないですね」
「まったくです。揚州の武将たちは怖いなあ」
ふたりはぼやき合っていた。
関平はひたすら尚香に付き従い、周りに目を光らせていた。
彼女は終始、劉備の使者としてふるまった。自分でも驚くほど、彼の利益のためだけを考えて行動していた。
わたしはすっかり玄徳様の妻のなったんだなあ……。
孫尚香、孫乾、伊籍、関平は一か月ほど揚州に滞在した後、再び長江の船に乗った。
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