夜明けの続唱歌

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盈虚

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 一頭の駱駝らくだが、横たわっていた。息は、すでにない。
 蕘皙国ツァキシュロの白駱駝で、下腹と下肢の一部が食い千切られた状態で絶命している。白いからだに、血の赤が鮮やかだった。降り続ける雨で流れているせいなのか、血はほとんど臭わない。
 エフレムは首に巻いていた布を取り、絞った。この雨中ではあまり意味がないようにも思えるが、顔を拭いたかったのだ。
 流刑で送られるはずだった離島の近くから、これまでほとんど歩き通しである。何日経っているのかもわからなくなりそうだった。双児そうじの月、下旬。雨季はまだこれからが本番というところだ。
 短剣を抜き、駱駝のもものあたりに突き立てた。厚みのある皮をいで取り除き、短剣の柄を持ち替えたあと、身のかたまりを削ぐようにして落としていく。流刑地まで護送する兵がいていた短剣で、あまり期待はしていなかったが、意外によく切れた。特別にいい刃というわけではないものの、まともな手入れはしてあったようだ。
 炳東虎へいとうこに襲われたのだということは、下肢の傷痕を見ればわかった。死んで、それほど経っていない。この駱駝に乗っていた人間は、無事だったのだろうか。
 削ぎ落とした腿肉を布で包んでぶらさげ、エフレムは水溜りで洗った短剣を拭って仕舞った。
 陽が昇ってから移動を続け、水以外は口にしていない。雨雲のせいで早くから薄暗いが、そろそろ陽が暮れはじめるころだろう。腹を満たすことも考えておかなければならない。幸い、狩りなどの手間もなく駱駝の肉は手に入った。あとは野営場所である。先を急ぐ気持ちはあるが、ひと晩じゅう雨に打たれていると、体力が奪われ続けてしまうのだ。
 しばらく行くと、小径こみちからはずれた薄闇に岩場が見えた。木々から突き出た小枝を分けて近づく。この手の岩場は、虎が棲処すみかとしている場合も多い。岩場の横腹には、いかにもというような洞穴もあった。大人が立っていられるほどの高さもある。ただ、周囲に糞などは落ちておらず、使われているような形跡は見あたらない。洞穴の入口で手を叩いて響かせ、間を置いて奥に石を放り投げてみたが、なんの反応もなかった。
 洞穴の入口付近には、雨によって水溜りが広がりはじめている。数日降り続いて水位が増せば、この洞穴も水浸しになりそうだった。使われていない理由は、つまりそういうことだとエフレムは見当をつけた。ひと晩くらいは、問題ないだろう。
 洞穴の入口から少し入ったところで腰をおろした。火をおこしたかったが、やめておいた。近くに西域の連中がいれば存在を知られるし、雨のなかで燃やすものを探しまわるのも億劫おっくうだった。
 駱駝の肉は、生で食うか。そう考えていたとき、エフレムは妙な音を聞いた。指笛。長く尾を引くような吹き方で、激しい雨のなかでも、遠くまで響くやり方だ。知らない者が聞けば、変わった鳥のき声とでも思うのかもしれない。
 外はすっかり暗くなっている。エフレムは入口のそばまでっていき、息を殺して闇に眼を凝らした。
 指笛。次第に近くなっている。特徴的な吹き方で、なにかを伝えるためのものだということは想像がつくが、エフレムが聞き馴染んだ音色ではない。それでも、指笛の音に耳を立てるようにして反応してしまうのは、隠術師いんじゅつしとしての習性のようなものだった。
 暗闇を飛び交う指笛。音が短くなり、数が増えた。広く散っていた者が、呼びかけ合いながら集まってきたというところか。吹いているのは、やはり隠術師だろう。余所よその指笛を耳にする機会はそれほど多くなく、音だけではどこの所属かはわからない。
 どこの隠術師かわかれば、なにか手がかりを掴めるかもしれない。エフレムはそう思い、闇に溶けるようにゆらりと歩き出した。気配を消し、周囲と同化する。草木を揺らす風のようなものだ。隠跫いんきょう術。隠術師でも、こういった移動ができる人間はごくわずかである。音や気配に敏感な獣まですべてをだますことは難しいが、こちらの存在を掴んでいない人間に対しては有効である。
 木々を縫うように、するすると闇を歩く。都合のいいことに、いまは森のすべてを雨が包んでいる。少々の物音は、雨が消してくれるはずだ。
 隠術師の位置は、すぐに特定できた。道沿いの岩場の下に集まっている。エフレムは、岩壁に貼りつくようにして、先の様子を覗きこんだ。道には遮蔽しゃへい物がないため、これ以上近づくことはできない。迂回して岩場に登れば、もう少し近くまで行けるだろう。
 裏手にまわり、濡れた岩に手をかける。エフレムの背丈の倍ほどの高さで、たやすくよじ登ることができた。六歳のころには、滝に打たれながら岩壁を登攀とうはんするような訓練をさせられていたものだ。
 岩場の上で腹這いになり、隠術師が集まっている場所にじりじりと近づいた。岩場は道に沿うように、先のほうまで続いている。
 見おろせる位置まで移動し、エフレムはわずかに頭を持ちあげた。雨のなかに、人影が八人。くぐもった声で、内容は聞き取れなかった。孟国もうこくの隠術師ではない。それははっきりと確認できた。立ち姿や、集まり方などがまるで違う。些細なことだが、逆にそういったところで明確になったりもするのだ。
 所属を示すようなものを探したが、見あたらない。装備や面体の覆い方などから判別できることもあるが、闇のなかでは得られるものもたいして多くはなかった。
 影が動き出した。やや腰を落とした姿勢で、六人が一定の間合いで扇状に並んで歩いている。周囲を警戒しながらの移動で、闇になにかを探しているようにも見えた。エフレムも中腰になり、岩場の上を進む。下の集団も道沿いを進んでいるので、並走するような恰好かっこうである。
 起伏の多い岩場を、滑るように移動する。雨が強くなってきていた。一度連中を追い抜き、待つ間に髪を掻きあげて絞った。全身が濡れている。寒くはないが、衣服がまとわりついて動きは悪い。エフレムは掌で濡れた顔を拭い、口まわりと顎の髭に触れた。雨音。そのなかで、自分の息遣いだけがやけに近く、生々しく感じられた。
 なにが目的なのか。夜闇の道を進む隠術師に、目的がないわけはない。張り詰めたような気配も伝わってきていた。連中がなにかを探しているとしたら、それがルネルであるということは考えられないのか。
 このあたりは、もうほとんど炳辣国ペラブカナハの西端だろう。炳西へいせいに、知人はほとんどいない。炳辣国の各所には隠居した隠術師が散っているらしいが、師長や副師長あたりでなければ知らないような老人ばかりのはずだ。
 自分と同じように西域の連中を追っている。それが一番あり得ることかもしれない、とエフレムは思った。白駱駝の屍骸を見つけ、この道で間違いないと先を急いでいるのではないか。
 どうすべきか、エフレムは考えあぐねていた。こちらからなにか仕掛けて、連中の出方を見る、という方法もある。道沿いの岩場も、どこかで途切れるだろう。それまでに、試すかどうかを決めたほうがいい。試すとしたら、どう仕掛けるか。矢を射て数人を仕留めたところで、見えてくるものがあるとは思えなかった。それどころか、警戒されてしまえば隠術師たちの目的を知ることはできなくなる。
 さらに、岩場を進んだ。進むほどに、岩場が低くなりはじめている。先は見通せないが、じきに途切れるだろう。エフレムがそう考えていた矢先、道が湾曲して岩場から離れている箇所に行きあたった。追跡を続けるなら、降りるしかない。
 暗く、下の地面の様子は見てとれなかった。ここは飛び降りずに、岩壁を伝うほうがいいだろう。隠術師たちが下を通り過ぎるのを待ち、岩壁に手足をかける。登りよりも危険だった。手を離す前に、足をかける場所をしっかりと踏んで確保する。
 不意に、右足を乗せた岩が崩れた。思わず声が出そうになったが、どうにか堪えた。岩が塊で落ちたのか、下のほうで意外に大きな音が響いた。地面の倒木にでも当たったようだ。エフレムは右足を浮かせたまま呼吸を整え、そのまま壁を伝って地に降り立った。
 指笛が耳をく。とっさに姿勢を低くし、岩壁に身を隠した。エフレムは、ずぶ濡れの全身に汗が吹き出すのを感じた。音に気づかれたのか。周囲は木々が生い茂り、下草も膝のあたりまである。姿さえ目視されなければ、位置は特定できない。
 駆け寄り、草を分ける音。雨音に紛れて、無数の気配が近くに集まってきている。
 エフレムの背後は岩壁である。すでに包囲されているのだろう。おどり出て矢を放つべきか、束の間考えた。最低でも八人の影を確認している。三矢までなら、ほぼ同時に放てる。身を転がし、そしてまた三矢。だが、それらがすべて命中しても、まだ二人はいるのだ。位置もわからない。
 片膝立ちで背中を丸め、じっと音を聞いた。草を踏む音。かなり間合いが詰められている。袋の口を絞っていくようなものだ。
「いたぞっ」
 響いた低声にエフレムは瞬間、躰を強張こわばらせた。舌打ちをし、矢に手を伸ばす。
 弓を構えようとしたときにはもう、眼の前を黒い影が横切っていた。
「動くな。動けば殺す」
 影が、次々とエフレムの前を横切っていく。すぐには事態が呑みこめなかった。声は、エフレムからいくらか離れたところに向いている。
「拘束しろ」
 エフレムと並ぶ位置の岩壁の暗がりから、見知らぬ男が引き出されてきた。後ろ手に縛られた男一人の周囲を六人の隠術師が固め、残る二人の隠術師はなにか言葉を交わしている。
 集団が、移動をはじめた。そばに潜むエフレムには眼もくれず、道を引き返していく。遠ざかる気配に、エフレムは大きく息をついた。何者なのかはわからないが、隠術師たちが追っていたのは自分ではなく、あの男だったのだ。
 見つかっていてもおかしくはなかった。つがえたやじりが触れるほどに近くを横切ったのだ。捕らえられたあの男には悪かったが、この雨に助けられた。
 もう一度大きく息を吐き、また濡れた顔を拭った。髭が伸びたな、とエフレムは思った。
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