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第二十五章 里帰り編
第532話 《臭素(Br)》
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「うわぁ。派手にやってくれたねぇ」
それが大通りの混乱を見たテオフラストゥスの感想であった。
赤褐色の液体が歩道や道路、通行人や車、商店やアパートの外壁にまで飛び散り、車と車の衝突による交通事故まで起きている。
幸か不幸か、赤褐色の液体が噴出する前にセレンが道路に飛び出て、車を一台強制停車させていた為に、他の車も停車または徐行をした結果、衝突の衝撃は抑えられ大事故には至っていないようだが。
しかしそれでも怪我人は出ている。事故車の中にはバッテリーが上がり白煙と炎を出しているモノもある。
そこに加えて、辺り一帯に飛散した赤褐色の液体――
「ちょっと面倒な事になっちゃったなぁ。今日は折角、冬日なのに炎があったら気温が上がってしまう。そしたら……」
赤褐色の液体、つまり毒素が蒸発し、民間人に中毒をもたらす。
そも液体状態でも素肌に触れれば皮膚を溶かし、毒素も吸収される。間違いなく有害だ。早急に対処しなくてはならない。
「此処でウミヘビに関連しているとわかる騒動は起こしたくない。なかった事にしよう」
「? もう起こっちゃったのに、どうするのー?」
まるで過去に戻り時を改変する、と聞こえる物言いに、テトラミックスは不思議そうに首を傾げる。
尤もアンチモンはテオフラストゥスが何をしようとしているのか理解しているようで、ただ黙って腕を組んでいた。
テオフラストゥスは答える。
「簡単だ、工作すればいいんだよ。まずは毒素の中和。それから回収。そして【改竄】」
話しながらテオフラストゥスは辺りをよくよく観察する。
通行人の人数。車の運転手の数。赤褐色の液体の飛散範囲。惨状を発信する為に掲げられた電子端末。要所、要所に設置された監視カメラ。
「5分、あればいいね。上書きのストーリーは下水管の破裂と、ガス漏れにしようか。アンチモン、壊してきて」
「えぇー。それウチも下水浴びる事にならない? 嫌だし」
「テトラミックス、付き添いお願いできるかい?」
「んー? いいよー。俺、臭いの慣れているしねー。油の臭いが一番好きだけど」
「聞いたかい? アンチモンのカッコいい所を見せられるいい機会だ、行ってらっしゃい」
「……ぐぅ」
アンチモンはカエルが潰れたような声を出し、不快感をそのまま顔に出したものの、テトラミックスも付き添ってくれるならば、と妥協する形で道路へ向かって行く。その後ろをテトラミックスもついて行く。
彼らの背を眺めながら、テオフラストゥスは額に人差し指をトンと置いた。
ビキリ
直後。額に、金色の十字線が浮かび上がる。
「――開け、アイギス」
そしてテオフラストゥスが呼び掛ければ、十字線を中心に額の皮膚が盛り上がり、分離し、変質、そして肥大化していく。
現れたのは、テオフラストゥスのアイギス。
傘の十字模様、無数の触手と、折れ曲がった先端が特徴的な、カギノテクラゲ型。
体外に出てきたそのアイギスは優雅に空を泳ぐと、テオフラストゥスの後ろに回りふわりふわりと漂う。
傘の十字模様。傘の円状の形。そして放射線状に伸びる触手。
アイギスが金色をしているのも相まって、それはまるで後光のようで。
周囲の人々の目を奪うには十分であった。
「記録に記憶。全て書き換えていくよ。アイギス」
だがその場に居た全員、神々しく輝くテオフラストゥスの記憶を残す事は、なかった。
◇
「君! 待ってくれ、そこの君!」
薄暗い路地裏を早足で移動する男の後を、モーズは必死に追う。
「私はモーズと言う! フランチェスコとは同じ孤児院で育った旧知の仲だ! 彼は今、行方不明で、行方を探している!!」
男の足は速い。どう見ても歩いているのに、モーズが走っても追い付けない。
「何か、何か知っていないだろうか! 何か、何でもいい、最後に見た時でも何でも、生きているのか、……死んでいるのかどうかでも、何でも……っ!」
息を切らせ、どうにか足を止めて貰おうと大きな声で呼びかけていたが、その声は徐々に小さくなり、
「探して、いるんだ。ずっと、ずっと……」
震え、消え入るような声となってしまった。
会いたい。例え遺体となってしまっていたとしても。その思いは本当だ。だが同時に、会いたくないという思いも、確かに渦巻いてしまっている。
生きているのか、死んでいるのか、珊瑚症の進行は、意識は正気か否か、ステージ6に、なってしまっていないか。
最悪の事態ばかり頭の中に駆け巡る。そしてそのいずれかの結果は、フランチェスコと会う事で確定してしまう。
それが、酷く恐ろしい。
(……それでも、ぼくは)
胸の中に渦巻く不安や恐怖を敢えて無視し、足を止めず男の名を叫ぶ。
「どうか話を聞いて欲しい、《臭素(Br)》!!」
途端、背中越しに剥き出しの殺気が放たれる。
テオフラストゥスの事前情報、そして先程の赤褐色の液体からして、予想は間違っていなかったようだ。
大通りで噴出された赤褐色の液体――正確には、液体非金属。
臭素は、常温で唯一の液体非金属として知られる元素。尤も蒸発しやすく、水銀ほど液体状態を保てる訳ではない。また気体にならねば人体への吸収がほとんどない水銀と比べ、臭素は液体状態でも吸収されてしまう上に、腐食性もある。
皮膚に触れれば、組織が壊死するかもしれない。
それを知った上で、モーズはマスクと面頬を外し、敢えて無防備となった。
「もう一度言う。私の名はモーズ。フランチェスコとは幼馴染であり、彼を探している」
「……何の為に」
モーズの声が届いてか、男の、ブロムの足が止まる。しかし背は向けられたままだ。
モーズは答えた。
「一番は、安否の確認。次に珊瑚症の症状の確認。そして必要ならば、治療」
「治療……」
「あぁ。私は医者だから」
「……俺の回収が目的ではない、と?」
「私は違う」
テオフラストゥスはブロムを回収(保護)したがっていたが、それは伏せておく。
「疑うのなら毒霧でも使うといい。弱まれば少しは安心してくれるか?」
「……いや、お前を傷付けたら報復が来るだろう」
不意にブロムは顔を上げ、建物の側面へ視線を向ける。
そこにはいつの間にか、チャクラム型の抽射器を構えたセレンが、室外機の上に立っていた。
いつでも得物を投げられるように、と。
「アレを大人しくさせろ。まずはそれからだ」
「あ、あぁ。セレン、降りてくれ。それから抽射器はしまってくれ」
「……チッ」
その時、モーズの耳に舌打ちが聞こえた気がしたが、聞かなかった事とした。
▼△▼
補足
臭素(Br)
常温で唯一の液体非金属の元素。見た目は赤褐色の液体。
ただし気体になりやすい。
日本では劇物に分類されている。海中にもちょっと存在する。
臭素(ブロム)の意味は「悪臭」で、名前の由来の通り刺激臭がする(なお本編のブロムは他のウミヘビの例に漏れず、無臭にされています)。
用途は写真の材料や殺虫剤、難燃剤、鎮痛剤の原料など様々。しかし毒性が強く腐食性まであるうえに、オゾン層破壊の原因の一つとして、現在の利用は限られている。
ちなみに人体必須元素の内の一つでもあったり。
それが大通りの混乱を見たテオフラストゥスの感想であった。
赤褐色の液体が歩道や道路、通行人や車、商店やアパートの外壁にまで飛び散り、車と車の衝突による交通事故まで起きている。
幸か不幸か、赤褐色の液体が噴出する前にセレンが道路に飛び出て、車を一台強制停車させていた為に、他の車も停車または徐行をした結果、衝突の衝撃は抑えられ大事故には至っていないようだが。
しかしそれでも怪我人は出ている。事故車の中にはバッテリーが上がり白煙と炎を出しているモノもある。
そこに加えて、辺り一帯に飛散した赤褐色の液体――
「ちょっと面倒な事になっちゃったなぁ。今日は折角、冬日なのに炎があったら気温が上がってしまう。そしたら……」
赤褐色の液体、つまり毒素が蒸発し、民間人に中毒をもたらす。
そも液体状態でも素肌に触れれば皮膚を溶かし、毒素も吸収される。間違いなく有害だ。早急に対処しなくてはならない。
「此処でウミヘビに関連しているとわかる騒動は起こしたくない。なかった事にしよう」
「? もう起こっちゃったのに、どうするのー?」
まるで過去に戻り時を改変する、と聞こえる物言いに、テトラミックスは不思議そうに首を傾げる。
尤もアンチモンはテオフラストゥスが何をしようとしているのか理解しているようで、ただ黙って腕を組んでいた。
テオフラストゥスは答える。
「簡単だ、工作すればいいんだよ。まずは毒素の中和。それから回収。そして【改竄】」
話しながらテオフラストゥスは辺りをよくよく観察する。
通行人の人数。車の運転手の数。赤褐色の液体の飛散範囲。惨状を発信する為に掲げられた電子端末。要所、要所に設置された監視カメラ。
「5分、あればいいね。上書きのストーリーは下水管の破裂と、ガス漏れにしようか。アンチモン、壊してきて」
「えぇー。それウチも下水浴びる事にならない? 嫌だし」
「テトラミックス、付き添いお願いできるかい?」
「んー? いいよー。俺、臭いの慣れているしねー。油の臭いが一番好きだけど」
「聞いたかい? アンチモンのカッコいい所を見せられるいい機会だ、行ってらっしゃい」
「……ぐぅ」
アンチモンはカエルが潰れたような声を出し、不快感をそのまま顔に出したものの、テトラミックスも付き添ってくれるならば、と妥協する形で道路へ向かって行く。その後ろをテトラミックスもついて行く。
彼らの背を眺めながら、テオフラストゥスは額に人差し指をトンと置いた。
ビキリ
直後。額に、金色の十字線が浮かび上がる。
「――開け、アイギス」
そしてテオフラストゥスが呼び掛ければ、十字線を中心に額の皮膚が盛り上がり、分離し、変質、そして肥大化していく。
現れたのは、テオフラストゥスのアイギス。
傘の十字模様、無数の触手と、折れ曲がった先端が特徴的な、カギノテクラゲ型。
体外に出てきたそのアイギスは優雅に空を泳ぐと、テオフラストゥスの後ろに回りふわりふわりと漂う。
傘の十字模様。傘の円状の形。そして放射線状に伸びる触手。
アイギスが金色をしているのも相まって、それはまるで後光のようで。
周囲の人々の目を奪うには十分であった。
「記録に記憶。全て書き換えていくよ。アイギス」
だがその場に居た全員、神々しく輝くテオフラストゥスの記憶を残す事は、なかった。
◇
「君! 待ってくれ、そこの君!」
薄暗い路地裏を早足で移動する男の後を、モーズは必死に追う。
「私はモーズと言う! フランチェスコとは同じ孤児院で育った旧知の仲だ! 彼は今、行方不明で、行方を探している!!」
男の足は速い。どう見ても歩いているのに、モーズが走っても追い付けない。
「何か、何か知っていないだろうか! 何か、何でもいい、最後に見た時でも何でも、生きているのか、……死んでいるのかどうかでも、何でも……っ!」
息を切らせ、どうにか足を止めて貰おうと大きな声で呼びかけていたが、その声は徐々に小さくなり、
「探して、いるんだ。ずっと、ずっと……」
震え、消え入るような声となってしまった。
会いたい。例え遺体となってしまっていたとしても。その思いは本当だ。だが同時に、会いたくないという思いも、確かに渦巻いてしまっている。
生きているのか、死んでいるのか、珊瑚症の進行は、意識は正気か否か、ステージ6に、なってしまっていないか。
最悪の事態ばかり頭の中に駆け巡る。そしてそのいずれかの結果は、フランチェスコと会う事で確定してしまう。
それが、酷く恐ろしい。
(……それでも、ぼくは)
胸の中に渦巻く不安や恐怖を敢えて無視し、足を止めず男の名を叫ぶ。
「どうか話を聞いて欲しい、《臭素(Br)》!!」
途端、背中越しに剥き出しの殺気が放たれる。
テオフラストゥスの事前情報、そして先程の赤褐色の液体からして、予想は間違っていなかったようだ。
大通りで噴出された赤褐色の液体――正確には、液体非金属。
臭素は、常温で唯一の液体非金属として知られる元素。尤も蒸発しやすく、水銀ほど液体状態を保てる訳ではない。また気体にならねば人体への吸収がほとんどない水銀と比べ、臭素は液体状態でも吸収されてしまう上に、腐食性もある。
皮膚に触れれば、組織が壊死するかもしれない。
それを知った上で、モーズはマスクと面頬を外し、敢えて無防備となった。
「もう一度言う。私の名はモーズ。フランチェスコとは幼馴染であり、彼を探している」
「……何の為に」
モーズの声が届いてか、男の、ブロムの足が止まる。しかし背は向けられたままだ。
モーズは答えた。
「一番は、安否の確認。次に珊瑚症の症状の確認。そして必要ならば、治療」
「治療……」
「あぁ。私は医者だから」
「……俺の回収が目的ではない、と?」
「私は違う」
テオフラストゥスはブロムを回収(保護)したがっていたが、それは伏せておく。
「疑うのなら毒霧でも使うといい。弱まれば少しは安心してくれるか?」
「……いや、お前を傷付けたら報復が来るだろう」
不意にブロムは顔を上げ、建物の側面へ視線を向ける。
そこにはいつの間にか、チャクラム型の抽射器を構えたセレンが、室外機の上に立っていた。
いつでも得物を投げられるように、と。
「アレを大人しくさせろ。まずはそれからだ」
「あ、あぁ。セレン、降りてくれ。それから抽射器はしまってくれ」
「……チッ」
その時、モーズの耳に舌打ちが聞こえた気がしたが、聞かなかった事とした。
▼△▼
補足
臭素(Br)
常温で唯一の液体非金属の元素。見た目は赤褐色の液体。
ただし気体になりやすい。
日本では劇物に分類されている。海中にもちょっと存在する。
臭素(ブロム)の意味は「悪臭」で、名前の由来の通り刺激臭がする(なお本編のブロムは他のウミヘビの例に漏れず、無臭にされています)。
用途は写真の材料や殺虫剤、難燃剤、鎮痛剤の原料など様々。しかし毒性が強く腐食性まであるうえに、オゾン層破壊の原因の一つとして、現在の利用は限られている。
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