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第十九章 狂信者のカタリ
第405話 《トルエン(C6H5CH3)》
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ネグラの昼。食堂にて。
今朝の港で、それも自分の事でひと騒動起きたことなど梅雨知らず、モーズはキッチンで菓子作りに勤しんでいた。
まず小さなボウルに卵を割り入れ、素早く泡立て器を回す。
次にグラニュー糖を加え、薄力粉を加え混ぜ、攪拌し、粉気がなくなったところに牛乳や生クリームも少しずつ加えて、丁寧に混ぜ合わせていく。
生地作りを終えたら、洗ったチェリーをバターの香るタルトの型に並べた。そしてチェリーの上に、ゆっくりと生地を流し込む。ぷかりと赤い果実が顔をのぞかせる様子に、モーズのフェイスマスクの下の口元がふっと緩んだ。
最後の工程として、完成したそれをあらかじめ予熱をしていたオーブンの中へ入れ、そっと扉を閉める。
「ワオ! 『クラフティ・オ・スリーズ』か! これは僕も作ったことがないなぁ」
「うおっ!?」
背後から声をかけられ肩を揺らすモーズ。いつの間にか美青年……、『甘いマスク』と形容するのが似合う顔立ちをした白髪の美青年が立っていた。
ちなみに『クラフティ・オ・スリーズ』とはフランスのチェリータルトの事である。
「え、ええと。君は……」
「あぁ、ごめん。いきなりでびっくりさせてしまったね。僕は《トルエン(C6H5CH3)》。菓子作りが趣味のしがないウミヘビさ」
爽やかな笑顔を浮かべ、ウィンクをするトルエン。
「トルエン、トルエンか。私の名はモーズという」
「うん、最近は毎日のように食堂に来ているんだってね。話には聞いているよ。もっと早く挨拶したかったのだけれど、なかなか都合が付かなくてねぇ。でも、やっと出会えた」
「あぁ、私も君に会いたかったよ」
自分に会いたかった、というモーズの返しは想定外だったのか、トルエンは瞬きをした。
しかし直ぐにどこか自信に満ちた表情を浮かべ、モーズと握手を交わす。
「これからよろしく、モーズちゃん」
「よろしく頼む」
ひと段落した所で、モーズはトルエンにずっと訊きたかった事を訊ねた。
「トルエン。アセトンから聞いたのだが、君はタリウムにチェリーパイの作り方を教えていたそうだな?」
「そうだよ。アセトンも手伝ってくれていたけどね」
「タリウムがチェリーパイを作ろうと思ったキッカケは、知っているだろうか?」
訊ねられたトルエンは顎に手を当て、少し考え込んでから口を開く。
「確か……。人間に興味を持って、知りたいって思うようになったんだって。それが誰かは知らないし、深い理由もわからないけれど」
「……。作り始めたのは、6月頃だろうか?」
「そうだよ。よく知っているね」
6月。《暁の悲劇》が起きた月。
そしてタリウムがアバトンの海辺で、クリスと2人切りで話をしていた月でもある。ガボゼの中で、クリスは自身は「チェリーパイが好み」だとタリウムに伝えていた。その事を、少し離れた場所から眺めていたモーズも覚えている。
タリウムの手によって命を落としたクリスの、好きな物。
あれがキッカケなのだとしたら――
「そうか。教えてくれてありがとう」
モーズはマスクの下で目を伏せ、トルエンに礼を伝えた。
「礼になるかわからないが、出来上がったクラフティ・オ・スリーズを食べないか? 君は確か、甘い物が好きなのだろう?」
「ワオ! いいのかい? そう、僕は甘い物が大好きさ! でもただ食べるだけじゃなく作るのも好きでね! 僕は菓子作りほど数学が反映された化学現象はないと考えていて、というのも分量や焼く際の温度、時間を少しでも間違えればお菓子は完成されない。逆に言うと精密な計量を再現さえすれば、誰でもお菓子作りができるんだ。例え家庭料理が苦手な人でもお菓子は作れるって人、人間にも多いって聞くよ? デリケートだからこそ乱数に左右されず確実で着実な結果をもたらす。素晴らしい事だと思わないかい!?」
「あ、あぁ。そう、だな」
その後もトルエンの熱弁は続き、モーズが適当に相槌を打っている内に、クラフティ・オ・スリーズは焼き上がったのだった。
◇
「モーズ先生は9月に入ってから、ずっとアバトンで過ごしている?」
フランスの都心。計算し尽くされた幾何学的で美しい街の景観を高所から眺めることができる、マンションの一室。
ルチルは部屋の壁に投影されたホログラム画面、そこに映る鶏血と通話を交わしていた。
「それは本当なのですか?」
『本当ヨ、本当。直接アバトンに行って情報を入手した奴がいたのヨ。ガーネットが煽った国連警察だネ。その情報の中に、アレキサンドライトが生活している映像があったのヨ!』
鶏血は興奮した様子でルチルに報告をする。
『ラボが大衆の疑惑に全く耳を貸さず無反応で、どうしたものかと思っていたガ……。ガーネットを捕まえられず国連警察がそろそろ功を焦り出す頃合いだと予想して、情報網を張り巡らせていた甲斐があったネ!』
「そうですか! モーズ先生が無事な事がわかってよかったです」
「しかし連絡が付かないのは何故だ?」
喜ぶルチルの隣に立つラリマーが問いかけた。
モーズがアバトンで凍結も処分もなく過ごしているのならば、ますます連絡が付かない事が不思議だからだ。ちなみにルチルはモーズから着信拒否等は受けていないので、ペガサス教団信徒との連絡を一切断つよう命じられた線はないものとしている。
『そこまでは知らないヨ。端末を使い込んで取り上げられたんじゃないカ?』
「そんなケータイゲームをし過ぎた、子供のような理由だと思えないが……」
「いいんです、ラリマー。ワタクシはモーズ先生が大事ないとわかればそれで。生きてさえいれば、必ず会えますよ」
「楽観的だな」
「そうでもありません」
ルチルは軽く首を横に振って、安楽椅子の背もたれに体重を預ける。
「保留にしてあるとは言え、真面目なモーズ先生がワタクシとの約束を反故にする事はないでしょうし、何よりモーズ先生の探しモノは、アバトンに居ては絶対に見付けられないですから」
長年探し続けているモーズの幼馴染、フランチェスコ。彼の所在はラボで研究していても決して見付ける事は叶わない。
よってアバトンから出てくる時が、必ず来る。そう確信しているから、ルチルは落ち着いて待つ事ができるのだ。
▼△▼
補足
トルエン(C6H5CH3)
日本では劇物に指定されている、無色透明の液体。
麻酔性があり、また燃えやすい。シンナーの主成分として有名。そしてシックスハウス症候群の原因の一つはトルエンである。
用途としては爆薬や染料、香料の他、サッカリンの原料にもなる。
このサッカリンとは砂糖の500倍甘い人工甘味料である。それでいてカロリーゼロ。夢のようだ。
この特性が反映されトルエンの声や顔、性格も『甘い』ものとなっていたりいなかったり。菓子作りが好きなのもこの辺が由来。
今朝の港で、それも自分の事でひと騒動起きたことなど梅雨知らず、モーズはキッチンで菓子作りに勤しんでいた。
まず小さなボウルに卵を割り入れ、素早く泡立て器を回す。
次にグラニュー糖を加え、薄力粉を加え混ぜ、攪拌し、粉気がなくなったところに牛乳や生クリームも少しずつ加えて、丁寧に混ぜ合わせていく。
生地作りを終えたら、洗ったチェリーをバターの香るタルトの型に並べた。そしてチェリーの上に、ゆっくりと生地を流し込む。ぷかりと赤い果実が顔をのぞかせる様子に、モーズのフェイスマスクの下の口元がふっと緩んだ。
最後の工程として、完成したそれをあらかじめ予熱をしていたオーブンの中へ入れ、そっと扉を閉める。
「ワオ! 『クラフティ・オ・スリーズ』か! これは僕も作ったことがないなぁ」
「うおっ!?」
背後から声をかけられ肩を揺らすモーズ。いつの間にか美青年……、『甘いマスク』と形容するのが似合う顔立ちをした白髪の美青年が立っていた。
ちなみに『クラフティ・オ・スリーズ』とはフランスのチェリータルトの事である。
「え、ええと。君は……」
「あぁ、ごめん。いきなりでびっくりさせてしまったね。僕は《トルエン(C6H5CH3)》。菓子作りが趣味のしがないウミヘビさ」
爽やかな笑顔を浮かべ、ウィンクをするトルエン。
「トルエン、トルエンか。私の名はモーズという」
「うん、最近は毎日のように食堂に来ているんだってね。話には聞いているよ。もっと早く挨拶したかったのだけれど、なかなか都合が付かなくてねぇ。でも、やっと出会えた」
「あぁ、私も君に会いたかったよ」
自分に会いたかった、というモーズの返しは想定外だったのか、トルエンは瞬きをした。
しかし直ぐにどこか自信に満ちた表情を浮かべ、モーズと握手を交わす。
「これからよろしく、モーズちゃん」
「よろしく頼む」
ひと段落した所で、モーズはトルエンにずっと訊きたかった事を訊ねた。
「トルエン。アセトンから聞いたのだが、君はタリウムにチェリーパイの作り方を教えていたそうだな?」
「そうだよ。アセトンも手伝ってくれていたけどね」
「タリウムがチェリーパイを作ろうと思ったキッカケは、知っているだろうか?」
訊ねられたトルエンは顎に手を当て、少し考え込んでから口を開く。
「確か……。人間に興味を持って、知りたいって思うようになったんだって。それが誰かは知らないし、深い理由もわからないけれど」
「……。作り始めたのは、6月頃だろうか?」
「そうだよ。よく知っているね」
6月。《暁の悲劇》が起きた月。
そしてタリウムがアバトンの海辺で、クリスと2人切りで話をしていた月でもある。ガボゼの中で、クリスは自身は「チェリーパイが好み」だとタリウムに伝えていた。その事を、少し離れた場所から眺めていたモーズも覚えている。
タリウムの手によって命を落としたクリスの、好きな物。
あれがキッカケなのだとしたら――
「そうか。教えてくれてありがとう」
モーズはマスクの下で目を伏せ、トルエンに礼を伝えた。
「礼になるかわからないが、出来上がったクラフティ・オ・スリーズを食べないか? 君は確か、甘い物が好きなのだろう?」
「ワオ! いいのかい? そう、僕は甘い物が大好きさ! でもただ食べるだけじゃなく作るのも好きでね! 僕は菓子作りほど数学が反映された化学現象はないと考えていて、というのも分量や焼く際の温度、時間を少しでも間違えればお菓子は完成されない。逆に言うと精密な計量を再現さえすれば、誰でもお菓子作りができるんだ。例え家庭料理が苦手な人でもお菓子は作れるって人、人間にも多いって聞くよ? デリケートだからこそ乱数に左右されず確実で着実な結果をもたらす。素晴らしい事だと思わないかい!?」
「あ、あぁ。そう、だな」
その後もトルエンの熱弁は続き、モーズが適当に相槌を打っている内に、クラフティ・オ・スリーズは焼き上がったのだった。
◇
「モーズ先生は9月に入ってから、ずっとアバトンで過ごしている?」
フランスの都心。計算し尽くされた幾何学的で美しい街の景観を高所から眺めることができる、マンションの一室。
ルチルは部屋の壁に投影されたホログラム画面、そこに映る鶏血と通話を交わしていた。
「それは本当なのですか?」
『本当ヨ、本当。直接アバトンに行って情報を入手した奴がいたのヨ。ガーネットが煽った国連警察だネ。その情報の中に、アレキサンドライトが生活している映像があったのヨ!』
鶏血は興奮した様子でルチルに報告をする。
『ラボが大衆の疑惑に全く耳を貸さず無反応で、どうしたものかと思っていたガ……。ガーネットを捕まえられず国連警察がそろそろ功を焦り出す頃合いだと予想して、情報網を張り巡らせていた甲斐があったネ!』
「そうですか! モーズ先生が無事な事がわかってよかったです」
「しかし連絡が付かないのは何故だ?」
喜ぶルチルの隣に立つラリマーが問いかけた。
モーズがアバトンで凍結も処分もなく過ごしているのならば、ますます連絡が付かない事が不思議だからだ。ちなみにルチルはモーズから着信拒否等は受けていないので、ペガサス教団信徒との連絡を一切断つよう命じられた線はないものとしている。
『そこまでは知らないヨ。端末を使い込んで取り上げられたんじゃないカ?』
「そんなケータイゲームをし過ぎた、子供のような理由だと思えないが……」
「いいんです、ラリマー。ワタクシはモーズ先生が大事ないとわかればそれで。生きてさえいれば、必ず会えますよ」
「楽観的だな」
「そうでもありません」
ルチルは軽く首を横に振って、安楽椅子の背もたれに体重を預ける。
「保留にしてあるとは言え、真面目なモーズ先生がワタクシとの約束を反故にする事はないでしょうし、何よりモーズ先生の探しモノは、アバトンに居ては絶対に見付けられないですから」
長年探し続けているモーズの幼馴染、フランチェスコ。彼の所在はラボで研究していても決して見付ける事は叶わない。
よってアバトンから出てくる時が、必ず来る。そう確信しているから、ルチルは落ち着いて待つ事ができるのだ。
▼△▼
補足
トルエン(C6H5CH3)
日本では劇物に指定されている、無色透明の液体。
麻酔性があり、また燃えやすい。シンナーの主成分として有名。そしてシックスハウス症候群の原因の一つはトルエンである。
用途としては爆薬や染料、香料の他、サッカリンの原料にもなる。
このサッカリンとは砂糖の500倍甘い人工甘味料である。それでいてカロリーゼロ。夢のようだ。
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