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第二十二章 コーラル〜海の人形〜
第459話 盃から唇まで
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講演ホールの中、多目的ホール内は、重く沈んだ空気に包まれていた。
数時間前まで賑わいを見せていた会場は、今やまるで別物だ。
聴講席の過半数を占めていた部隊員たちはすでに警備任務へと配置され、ホール内に残された人々は、学会開始時の半分にも満たない。
壇上には医療関係者やメディア関係者が一時的に集められており、その足元……整然と並んでいた座席は、すべて床下へと格納されていた。
滑らかなフローリングが広がるその光景は、ただの会場整備ではない。
突発的な避難命令に即応するための措置だ。障害物を排した空間は、即座の移動や処置を可能にする“臨戦態勢”の象徴だった。
「……。だい、じょうぶでしょうか……」
静寂の中、震える指先を胸元で組みしめながら、クララがぽつりと呟く。
警備部隊から告げられたのは、『生物災害発生』の報せのみ。
以降、外部との通信は絶たれ、ホールの外がどうなっているのかもわからない。ただ、時折遠くから響く轟音と足元を揺らす地鳴りが、状況の深刻さだけを訴えてくる。
被災の経験などない彼女にとって、先の見えない現実は恐怖そのものだった。
「恐ろしいですか? クララ院長」
彼女の隣に立つフローレンスが、凛とした声で問う。
「いえ、その……っ!」
クララは直ぐに否定しようとしたものの、
「……はい。怖い、ですね」
正直に、己の胸の内を偽る事なく告白した。
「心の臓が張り裂けそうならば、夢の底へ落ちるのもまた手段よ」
そこに割って入ってきたのは、浮世離れした美しさを持つクロロメタンだ。
突然の、それも見目麗しいウミヘビの介入に驚いたクララは肩を跳ねさせ、思わずフローレンスの陰に身を隠してしまう。
「下に寝転んでいる面々がいるだろう? その者らと並ぶだけの事。目覚めの時にはきっと、全て終わっている事だろう」
微笑すら浮かべて、クロロメタンはそう告げる。
どこか現実離れしたその物言いに、クララは息を呑んだまま、ただフローレンスの袖を強く握りしめた。
「望むならば、我がそなたに夜の帳を……」
「こら。駄目だよ、クロロメタン」
そこでフリッツがクロロメタンへ歩み寄り、制止の言葉を投げ掛ける。
「民間人への毒素の使用は緊急時じゃなきゃ許可できない。先程のクロロホルムの毒霧は、その緊急時だったから使われ……」
「そ、そ、そいつが噂のウミヘビか!?」
ひっくり返った声が、フリッツの言葉を妨げた。
その者は院長らと共に壇上へあがった数少ないメディア関係者、記者の男であった。
防疫意識の高さを売りにしているニュースサイトの現地派遣記者で、マスクやフェイスシールドの常時着用を習慣にしていた為、災害や感染予防に神経を注いでいる医療関係者以外では珍しく、先のクロロホルムの毒霧を逃れていた。
「生物災害の切り札なんだろう!? 今すぐこの状況をどうにかしてくれ! お、お、俺は死ぬ為にここに来たんじゃないっ!」
クロロメタンの肩を掴み、切羽詰まった様子で詰め寄る記者の男。彼がマスクを付けていなかったら、クロロメタンには唾がかかっていた事だろう。
そんな、マスクの下の必死な形相が目に浮かぶ記者の男を、クロロメタンは不思議そうな目で見詰めた。
「ここに居る者は、死を踏みしめる覚悟の者のみと思っていたが……。例外もいるのだな」
「な、何言ってんだ!? 死ぬつもりで学会に来るってか!? そんな訳……っ!」
記者は思わず叫び返しかけたが、その言葉は途中で途切れた。
周囲の空気に気付いたのだ。
壇上に控えている医療従事者たち。彼らはみな、押し潰されそうな不安を胸に抱えながらも、決して取り乱してはいなかった。寧ろ、その背筋は奇妙なほどに伸びていた。
誰ひとり、逃げようとすらしていない。
視線を向けたフリッツは、まるで災厄そのものを直視するような決意に満ちていた。
その隣で佇むフローレンスは、まるで氷のように静かだった。クララは震えながらも、両の手を堅く握りしめている。
この場に居る者たちは皆、とっくに覚悟を決めている。
その事実に、記者はようやく気が付いた。
自分一人だけが、取り残されていたのだ。
「ミ、ミ、ミシェル会長っ!!」
クロロメタンの肩から手を外し、記者の男が縋るように駆け付けたのは、壇上の隅で石像のように直立していた、ペストマスクの医師ミシェル。
一切の揺らぎを見せない佇まいは、非常時の中にあってなお、異様な存在感を放っている。
「予言! 予言をお願いできますか!?」
声を張り上げる。まるで祈るような声音だった。
『予言者』とまで称されるミシェルの先見の明にすがれば、この混乱の中にも道が見えるのでは――そんな一縷の望みに縋って。
「ここに留まるべきか、外に出るべきか……! 貴方ならわかるのでは!?」
震える記者の声に、ペストマスクの奥から、低く、短い一言が漏れた。
「……来る」
その言葉とほぼ同時に、ホール出入口が急にざわめきだす。
「何だ、お前達! 所属を申告しろ!」
警備部隊の怒号が響き、扉の向こうで揉み合う気配が起こる。
やがて警備員たちを押しのけるようにして、モスグリーンの軍服に身を包んだ集団がホール内へと雪崩れ込んできた。
一目でわかる、軍の精鋭。
ドイツ兵でもアメリカ兵のものでもない。国連軍スイス“本部”の、軍服を着た者達。
更に、二の腕の袖には、世界地図とオリーブを組み合わせた国連の紋章。その上には、アルファベットの『A』が重ねられていた。
国連上層部――国連警察所属の司令官『アダマス』の、私兵部隊。
彼らは、迷うことなく一直線に壇上へと歩み寄った。
「ミシェル会長。ご移動をお願いします」
隊列の先頭が軽く会釈し、低い声で告げる。
「ここは災害の中心地です。安全圏まで、我々が護送いたします」
「ほら! やっぱりここは危険なんだ! でっ、でも何でミシェル会長だけ声がかかるんだよ!? 俺も連れて……っ!」
――パンッ。
乾いた破裂音が、ホールの空気を切り裂いた。
一瞬、時間が止まったような静寂。
「ご安心ください。麻酔弾です」
引き金を引いた私兵が、感情のこもらない声で淡々と説明する。
男は腕を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。だが即効性の薬剤のせいで、悲鳴ひとつ上げる暇もなかった。
クロロメタンが、無言でその身体を支え、床に横たえる。
誰も言葉を発さない。誰も逆らわない。
ただ、その場に残された緊張だけが、肌に焼き付く。
コツ、コツ。
ミシェルは、ゆっくりと歩き出す。その一歩ごとに、床板に硬質な靴音が響き――
「フリッツ」
唐突に、フリッツへ声をかけた。
「……うん? 僕かい?」
「おおよそ10分後、外は負傷者で溢れる。ここを臨時医療施設とせよ」
「え? え……っ!?」
「可能か。不可か」
「か、可能です、けども」
「……大病には荒治療」
「ミシェル会長?」
それはフランスのことわざ。
『大きな問題には抜本的な対策が必要』という意味なのだが、ドイツ人であるフリッツにはその含意は完全には届かない。反応に戸惑いが滲む。
しかしそれを承知の上で、彼は今度はルイへ視線を向けた。
「ルイ」
「吾輩か。なんであろうか」
「待つ事を知る者には全てが時を経てやってくる。しかし盃から唇までは遠いものだ。故に斧の後で決して柄を投げてはならないと、近く巡り合う蛇に、伝えて欲しい」
「……了解した」
ルイの返答にどこか満足げに頷くと、ミシェルは壇上の階段を下り、私兵達と共にホールを去っていった。
完全に姿が見えなくなった後。
しばしの静寂の後に、エドワードが隣にいるルイへ小声で訊ねる。
「……ルイ院長。ミシェル会長の言いたい事、わかりました……?」
「いや、まぁ……」
ルイは曖昧に、自信なさげに相槌を打って言葉を続けた。
「盃から唇までは遠い、とは、あと一歩が遠いという意味である。斧の後……の言葉は、要するに『諦めるな』という事だ」
「では『蛇』、とは?」
素朴な疑問を向けるエドワード。
ルイはそこで言葉を止め、一度フリッツに目をやり、その背に隠れるように立つカルバミド、そしてクロロメタンへと視線を移す。
しばしの沈黙ののち――
「……候補が多過ぎてわからぬ」
疲れたようにそう言ったのだった。
数時間前まで賑わいを見せていた会場は、今やまるで別物だ。
聴講席の過半数を占めていた部隊員たちはすでに警備任務へと配置され、ホール内に残された人々は、学会開始時の半分にも満たない。
壇上には医療関係者やメディア関係者が一時的に集められており、その足元……整然と並んでいた座席は、すべて床下へと格納されていた。
滑らかなフローリングが広がるその光景は、ただの会場整備ではない。
突発的な避難命令に即応するための措置だ。障害物を排した空間は、即座の移動や処置を可能にする“臨戦態勢”の象徴だった。
「……。だい、じょうぶでしょうか……」
静寂の中、震える指先を胸元で組みしめながら、クララがぽつりと呟く。
警備部隊から告げられたのは、『生物災害発生』の報せのみ。
以降、外部との通信は絶たれ、ホールの外がどうなっているのかもわからない。ただ、時折遠くから響く轟音と足元を揺らす地鳴りが、状況の深刻さだけを訴えてくる。
被災の経験などない彼女にとって、先の見えない現実は恐怖そのものだった。
「恐ろしいですか? クララ院長」
彼女の隣に立つフローレンスが、凛とした声で問う。
「いえ、その……っ!」
クララは直ぐに否定しようとしたものの、
「……はい。怖い、ですね」
正直に、己の胸の内を偽る事なく告白した。
「心の臓が張り裂けそうならば、夢の底へ落ちるのもまた手段よ」
そこに割って入ってきたのは、浮世離れした美しさを持つクロロメタンだ。
突然の、それも見目麗しいウミヘビの介入に驚いたクララは肩を跳ねさせ、思わずフローレンスの陰に身を隠してしまう。
「下に寝転んでいる面々がいるだろう? その者らと並ぶだけの事。目覚めの時にはきっと、全て終わっている事だろう」
微笑すら浮かべて、クロロメタンはそう告げる。
どこか現実離れしたその物言いに、クララは息を呑んだまま、ただフローレンスの袖を強く握りしめた。
「望むならば、我がそなたに夜の帳を……」
「こら。駄目だよ、クロロメタン」
そこでフリッツがクロロメタンへ歩み寄り、制止の言葉を投げ掛ける。
「民間人への毒素の使用は緊急時じゃなきゃ許可できない。先程のクロロホルムの毒霧は、その緊急時だったから使われ……」
「そ、そ、そいつが噂のウミヘビか!?」
ひっくり返った声が、フリッツの言葉を妨げた。
その者は院長らと共に壇上へあがった数少ないメディア関係者、記者の男であった。
防疫意識の高さを売りにしているニュースサイトの現地派遣記者で、マスクやフェイスシールドの常時着用を習慣にしていた為、災害や感染予防に神経を注いでいる医療関係者以外では珍しく、先のクロロホルムの毒霧を逃れていた。
「生物災害の切り札なんだろう!? 今すぐこの状況をどうにかしてくれ! お、お、俺は死ぬ為にここに来たんじゃないっ!」
クロロメタンの肩を掴み、切羽詰まった様子で詰め寄る記者の男。彼がマスクを付けていなかったら、クロロメタンには唾がかかっていた事だろう。
そんな、マスクの下の必死な形相が目に浮かぶ記者の男を、クロロメタンは不思議そうな目で見詰めた。
「ここに居る者は、死を踏みしめる覚悟の者のみと思っていたが……。例外もいるのだな」
「な、何言ってんだ!? 死ぬつもりで学会に来るってか!? そんな訳……っ!」
記者は思わず叫び返しかけたが、その言葉は途中で途切れた。
周囲の空気に気付いたのだ。
壇上に控えている医療従事者たち。彼らはみな、押し潰されそうな不安を胸に抱えながらも、決して取り乱してはいなかった。寧ろ、その背筋は奇妙なほどに伸びていた。
誰ひとり、逃げようとすらしていない。
視線を向けたフリッツは、まるで災厄そのものを直視するような決意に満ちていた。
その隣で佇むフローレンスは、まるで氷のように静かだった。クララは震えながらも、両の手を堅く握りしめている。
この場に居る者たちは皆、とっくに覚悟を決めている。
その事実に、記者はようやく気が付いた。
自分一人だけが、取り残されていたのだ。
「ミ、ミ、ミシェル会長っ!!」
クロロメタンの肩から手を外し、記者の男が縋るように駆け付けたのは、壇上の隅で石像のように直立していた、ペストマスクの医師ミシェル。
一切の揺らぎを見せない佇まいは、非常時の中にあってなお、異様な存在感を放っている。
「予言! 予言をお願いできますか!?」
声を張り上げる。まるで祈るような声音だった。
『予言者』とまで称されるミシェルの先見の明にすがれば、この混乱の中にも道が見えるのでは――そんな一縷の望みに縋って。
「ここに留まるべきか、外に出るべきか……! 貴方ならわかるのでは!?」
震える記者の声に、ペストマスクの奥から、低く、短い一言が漏れた。
「……来る」
その言葉とほぼ同時に、ホール出入口が急にざわめきだす。
「何だ、お前達! 所属を申告しろ!」
警備部隊の怒号が響き、扉の向こうで揉み合う気配が起こる。
やがて警備員たちを押しのけるようにして、モスグリーンの軍服に身を包んだ集団がホール内へと雪崩れ込んできた。
一目でわかる、軍の精鋭。
ドイツ兵でもアメリカ兵のものでもない。国連軍スイス“本部”の、軍服を着た者達。
更に、二の腕の袖には、世界地図とオリーブを組み合わせた国連の紋章。その上には、アルファベットの『A』が重ねられていた。
国連上層部――国連警察所属の司令官『アダマス』の、私兵部隊。
彼らは、迷うことなく一直線に壇上へと歩み寄った。
「ミシェル会長。ご移動をお願いします」
隊列の先頭が軽く会釈し、低い声で告げる。
「ここは災害の中心地です。安全圏まで、我々が護送いたします」
「ほら! やっぱりここは危険なんだ! でっ、でも何でミシェル会長だけ声がかかるんだよ!? 俺も連れて……っ!」
――パンッ。
乾いた破裂音が、ホールの空気を切り裂いた。
一瞬、時間が止まったような静寂。
「ご安心ください。麻酔弾です」
引き金を引いた私兵が、感情のこもらない声で淡々と説明する。
男は腕を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。だが即効性の薬剤のせいで、悲鳴ひとつ上げる暇もなかった。
クロロメタンが、無言でその身体を支え、床に横たえる。
誰も言葉を発さない。誰も逆らわない。
ただ、その場に残された緊張だけが、肌に焼き付く。
コツ、コツ。
ミシェルは、ゆっくりと歩き出す。その一歩ごとに、床板に硬質な靴音が響き――
「フリッツ」
唐突に、フリッツへ声をかけた。
「……うん? 僕かい?」
「おおよそ10分後、外は負傷者で溢れる。ここを臨時医療施設とせよ」
「え? え……っ!?」
「可能か。不可か」
「か、可能です、けども」
「……大病には荒治療」
「ミシェル会長?」
それはフランスのことわざ。
『大きな問題には抜本的な対策が必要』という意味なのだが、ドイツ人であるフリッツにはその含意は完全には届かない。反応に戸惑いが滲む。
しかしそれを承知の上で、彼は今度はルイへ視線を向けた。
「ルイ」
「吾輩か。なんであろうか」
「待つ事を知る者には全てが時を経てやってくる。しかし盃から唇までは遠いものだ。故に斧の後で決して柄を投げてはならないと、近く巡り合う蛇に、伝えて欲しい」
「……了解した」
ルイの返答にどこか満足げに頷くと、ミシェルは壇上の階段を下り、私兵達と共にホールを去っていった。
完全に姿が見えなくなった後。
しばしの静寂の後に、エドワードが隣にいるルイへ小声で訊ねる。
「……ルイ院長。ミシェル会長の言いたい事、わかりました……?」
「いや、まぁ……」
ルイは曖昧に、自信なさげに相槌を打って言葉を続けた。
「盃から唇までは遠い、とは、あと一歩が遠いという意味である。斧の後……の言葉は、要するに『諦めるな』という事だ」
「では『蛇』、とは?」
素朴な疑問を向けるエドワード。
ルイはそこで言葉を止め、一度フリッツに目をやり、その背に隠れるように立つカルバミド、そしてクロロメタンへと視線を移す。
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