毒素擬人化小説『ウミヘビのスープ』 〜十の賢者と百の猛毒が、寄生菌バイオハザード鎮圧を目指すSFファンタジー〜 

天海二色

文字の大きさ
476 / 600
第二十二章 コーラル〜海の人形〜

第459話 盃から唇まで

しおりを挟む
 講演ホールの中、多目的ホール内は、重く沈んだ空気に包まれていた。
 数時間前まで賑わいを見せていた会場は、今やまるで別物だ。
 聴講席の過半数を占めていた部隊員たちはすでに警備任務へと配置され、ホール内に残された人々は、学会開始時の半分にも満たない。

 壇上には医療関係者やメディア関係者が一時的に集められており、その足元……整然と並んでいた座席は、すべて床下へと格納されていた。
 滑らかなフローリングが広がるその光景は、ただの会場整備ではない。
 突発的な避難命令に即応するための措置だ。障害物を排した空間は、即座の移動や処置を可能にする“臨戦態勢”の象徴だった。

「……。だい、じょうぶでしょうか……」

 静寂の中、震える指先を胸元で組みしめながら、クララがぽつりと呟く。
 警備部隊から告げられたのは、『生物災害バイオハザード発生』の報せのみ。
 以降、外部との通信は絶たれ、ホールの外がどうなっているのかもわからない。ただ、時折遠くから響く轟音と足元を揺らす地鳴りが、状況の深刻さだけを訴えてくる。
 被災の経験などない彼女にとって、先の見えない現実は恐怖そのものだった。

「恐ろしいですか? クララ院長」

 彼女の隣に立つフローレンスが、凛とした声で問う。

「いえ、その……っ!」

 クララは直ぐに否定しようとしたものの、

「……はい。怖い、ですね」

 正直に、己の胸の内を偽る事なく告白した。

「心の臓が張り裂けそうならば、夢の底へ落ちるのもまた手段よ」

 そこに割って入ってきたのは、浮世離れした美しさを持つクロロメタンだ。
 突然の、それも見目麗しいウミヘビの介入に驚いたクララは肩を跳ねさせ、思わずフローレンスの陰に身を隠してしまう。

「下に寝転んでいる面々がいるだろう? その者らと並ぶだけの事。目覚めの時にはきっと、全て終わっている事だろう」

 微笑すら浮かべて、クロロメタンはそう告げる。
 どこか現実離れしたその物言いに、クララは息を呑んだまま、ただフローレンスの袖を強く握りしめた。

「望むならば、我がそなたに夜の帳を……」
「こら。駄目だよ、クロロメタン」

 そこでフリッツがクロロメタンへ歩み寄り、制止の言葉を投げ掛ける。

「民間人への毒素の使用は緊急時じゃなきゃ許可できない。先程のクロロホルムの毒霧は、その緊急時だったから使われ……」
「そ、そ、そいつが噂のウミヘビか!?」

 ひっくり返った声が、フリッツの言葉を妨げた。
 その者は院長らと共に壇上へあがった数少ないメディア関係者、記者の男であった。
 防疫意識の高さを売りにしているニュースサイトの現地派遣記者で、マスクやフェイスシールドの常時着用を習慣にしていた為、災害や感染予防に神経を注いでいる医療関係者以外では珍しく、先のクロロホルムの毒霧麻酔を逃れていた。

生物災害バイオハザードの切り札なんだろう!? 今すぐこの状況をどうにかしてくれ! お、お、俺は死ぬ為にここに来たんじゃないっ!」

 クロロメタンの肩を掴み、切羽詰まった様子で詰め寄る記者の男。彼がマスクを付けていなかったら、クロロメタンには唾がかかっていた事だろう。
 そんな、マスクの下の必死な形相が目に浮かぶ記者の男を、クロロメタンは不思議そうな目で見詰めた。

「ここに居る者は、死を踏みしめる覚悟の者のみと思っていたが……。例外もいるのだな」
「な、何言ってんだ!? 死ぬつもりで学会に来るってか!? そんな訳……っ!」

 記者は思わず叫び返しかけたが、その言葉は途中で途切れた。
 周囲の空気に気付いたのだ。
 壇上に控えている医療従事者たち。彼らはみな、押し潰されそうな不安を胸に抱えながらも、決して取り乱してはいなかった。寧ろ、その背筋は奇妙なほどに伸びていた。
 誰ひとり、逃げようとすらしていない。

 視線を向けたフリッツは、まるで災厄そのものを直視するような決意に満ちていた。
 その隣で佇むフローレンスは、まるで氷のように静かだった。クララは震えながらも、両の手を堅く握りしめている。
 この場に居る者たちは皆、とっくに覚悟を決めている。
 その事実に、記者はようやく気が付いた。
 自分一人だけが、取り残されていたのだ。

「ミ、ミ、ミシェル会長っ!!」

 クロロメタンの肩から手を外し、記者の男が縋るように駆け付けたのは、壇上の隅で石像のように直立していた、ペストマスクの医師ミシェル。
 一切の揺らぎを見せない佇まいは、非常時の中にあってなお、異様な存在感を放っている。

「予言! 予言をお願いできますか!?」

 声を張り上げる。まるで祈るような声音だった。
 『予言者』とまで称されるミシェルの先見の明にすがれば、この混乱の中にも道が見えるのでは――そんな一縷の望みに縋って。

「ここに留まるべきか、外に出るべきか……! 貴方ならわかるのでは!?」

 震える記者の声に、ペストマスクの奥から、低く、短い一言が漏れた。

「……来る」

 その言葉とほぼ同時に、ホール出入口が急にざわめきだす。

「何だ、お前達! 所属を申告しろ!」

 警備部隊の怒号が響き、扉の向こうで揉み合う気配が起こる。
 やがて警備員たちを押しのけるようにして、モスグリーンの軍服に身を包んだ集団がホール内へと雪崩れ込んできた。
 一目でわかる、軍の精鋭。
 ドイツ兵でもアメリカ兵のものでもない。国連軍スイス“本部”の、軍服を着た者達。
 更に、二の腕の袖には、世界地図とオリーブを組み合わせた国連の紋章。その上には、アルファベットの『A』が重ねられていた。
 国連上層部――国連警察所属の司令官『アダマス』の、私兵部隊。
 彼らは、迷うことなく一直線に壇上へと歩み寄った。

「ミシェル会長。ご移動をお願いします」

 隊列の先頭が軽く会釈し、低い声で告げる。

「ここは災害の中心地です。安全圏まで、我々が護送いたします」
「ほら! やっぱりここは危険なんだ! でっ、でも何でミシェル会長だけ声がかかるんだよ!? 俺も連れて……っ!」

 ――パンッ。
 乾いた破裂音が、ホールの空気を切り裂いた。
 一瞬、時間が止まったような静寂。

「ご安心ください。麻酔弾です」

 引き金を引いた私兵が、感情のこもらない声で淡々と説明する。
 男は腕を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちた。だが即効性の薬剤のせいで、悲鳴ひとつ上げる暇もなかった。
 クロロメタンが、無言でその身体を支え、床に横たえる。
 誰も言葉を発さない。誰も逆らわない。
 ただ、その場に残された緊張だけが、肌に焼き付く。

 コツ、コツ。
 ミシェルは、ゆっくりと歩き出す。その一歩ごとに、床板に硬質な靴音が響き――

「フリッツ」

 唐突に、フリッツへ声をかけた。

「……うん? 僕かい?」
「おおよそ10分後、外は負傷者で溢れる。ここを臨時医療施設とせよ」
「え? え……っ!?」
「可能か。不可か」
「か、可能です、けども」
「……大病には荒治療」
「ミシェル会長?」

 それはフランスのことわざ。
 『大きな問題には抜本的な対策が必要』という意味なのだが、ドイツ人であるフリッツにはその含意は完全には届かない。反応に戸惑いが滲む。
 しかしそれを承知の上で、彼は今度はルイへ視線を向けた。

「ルイ」
「吾輩か。なんであろうか」
「待つ事を知る者には全てが時を経てやってくる。しかしさかずきから唇までは遠いものだ。故に斧の後で決して柄を投げてはならないと、近く巡り合う蛇に、伝えて欲しい」
「……了解した」

 ルイの返答にどこか満足げに頷くと、ミシェルは壇上の階段を下り、私兵達と共にホールを去っていった。
 完全に姿が見えなくなった後。
 しばしの静寂の後に、エドワードが隣にいるルイへ小声で訊ねる。

「……ルイ院長。ミシェル会長の言いたい事、わかりました……?」
「いや、まぁ……」

 ルイは曖昧に、自信なさげに相槌を打って言葉を続けた。

さかずきから唇までは遠い、とは、あと一歩が遠いという意味である。斧の後……の言葉は、要するに『諦めるな』という事だ」
「では『蛇』、とは?」

 素朴な疑問を向けるエドワード。
 ルイはそこで言葉を止め、一度フリッツに目をやり、その背に隠れるように立つカルバミド、そしてクロロメタンへと視線を移す。
 しばしの沈黙ののち――

「……候補が多過ぎてわからぬ」

 疲れたようにそう言ったのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

女神の白刃

玉椿 沢
ファンタジー
 どこかの世界の、いつかの時代。  その世界の戦争は、ある遺跡群から出現した剣により、大きく姿を変えた。  女の身体を鞘とする剣は、魔力を収束、発振する兵器。  剣は瞬く間に戦を大戦へ進歩させた。数々の大戦を経た世界は、権威を西の皇帝が、権力を東の大帝が握る世になり、終息した。  大戦より数年後、まだ治まったとはいえない世界で、未だ剣士は剣を求め、奪い合っていた。  魔物が出ようと、町も村も知った事かと剣を求める愚かな世界で、赤茶けた大地を畑や町に、煤けた顔を笑顔に変えたいという脳天気な一団が現れる。  *表紙絵は五月七日ヤマネコさん(@yamanekolynx_2)の作品です*

忘却の艦隊

KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

ネクスト・ステージ~チートなニートが迷宮探索。スキル【ドロップ★5】は、武器防具が装備不可!?

武蔵野純平
ファンタジー
現代ファンタジー(ローファンタジー)です。ニート主人公のスキルは【ドロップ★5】――ドロップ確率が大幅上昇し、ドロップアイテムの品質も大幅上昇するチートスキルだった。だが、剣や盾などの装備品が装備出来ない欠陥があり、攻撃力、防御力に問題を残す。 ダンジョン探索をする為に冒険者となりパーティーメンバーを募集するが、なぜか【ワケあり】女性ばかり集まってくる。

初恋♡リベンジャーズ

遊馬友仁
青春
【第五部開始】  高校一年生の春休み直前、クラスメートの紅野アザミに告白し、華々しい玉砕を遂げた黒田竜司は、憂鬱な気持ちのまま、新学期を迎えていた。そんな竜司のクラスに、SNSなどでカリスマ的人気を誇る白草四葉が転入してきた。  眉目秀麗、容姿端麗、美の化身を具現化したような四葉は、性格も明るく、休み時間のたびに、竜司と親友の壮馬に気さくに話しかけてくるのだが――――――。  転入早々、竜司に絡みだす、彼女の真の目的とは!?  ◯ンスタグラム、ユ◯チューブ、◯イッターなどを駆使して繰り広げられる、SNS世代の新感覚復讐系ラブコメディ、ここに開幕!  第二部からは、さらに登場人物たちも増え、コメディ要素が多めとなります(予定)

【完結】大量焼死体遺棄事件まとめサイト/裏サイド

まみ夜
ホラー
ここは、2008年2月09日朝に報道された、全国十ケ所総数六十体以上の「大量焼死体遺棄事件」のまとめサイトです。 事件の上澄みでしかない、ニュース報道とネット情報が序章であり終章。 一年以上も前に、偶然「写本」のネット検索から、オカルトな事件に巻き込まれた女性のブログ。 その家族が、彼女を探すことで、日常を踏み越える恐怖を、誰かに相談したかったブログまでが第一章。 そして、事件の、悪意の裏側が第二章です。 ホラーもミステリーと同じで、ラストがないと評価しづらいため、短編集でない長編はweb掲載には向かないジャンルです。 そのため、第一章にて、表向きのラストを用意しました。 第二章では、その裏側が明らかになり、予想を裏切れれば、とも思いますので、お付き合いください。 表紙イラストは、lllust ACより、乾大和様の「お嬢さん」を使用させていただいております。

プライベート・スペクタル

点一
ファンタジー
【星】(スターズ)。それは山河を変えるほどの膂力、千里を駆ける脚力、そして異形の術や能力を有する超人・怪人達。 この物語はそんな連中のひどく…ひどく個人的な物語群。 その中の一部、『龍王』と呼ばれた一人の男に焦点を当てたお話。 (※基本 隔週土曜日に更新予定)

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...