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第1章 新しい派遣先
2.池松係長
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就活に失敗した私は大学卒業後、派遣社員として働き始めた。
前にいた建築会社の契約期間を満了し、この春から新しく派遣された会社はアパレル商社大手のマルタカだった。
「凄い……」
それが、私の第一印象。
配属されたレディースファッション部のほとんどが女性で、みなきらきらして見えた。
……私って場違いなんじゃ。
ついつい、自分の服装を上から下まで確認してしまう。
シンプルな白ブラウスにこれまたシンプルなベージュのフレアスカート。
髪型だっておとなしく、肩までの髪にワンカールパーマをかけただけ。
それに比べてここの女性は、普通の職場だったら絶対上司に怒られるし、同僚には煙たがれるだろうなってファッションの方が大半を占めていた。
まるで、ファッション誌から抜け出てきたような方々ばかりなのだ。
「やっていけるかな……」
私の不安は違う意味ですぐに的中する。
「羽坂です。
よろしくお願いします」
最初に派遣会社の担当の早津さんと共に挨拶に行った外川部長は、でっぷりとしたお腹に脂ぎった顔をしたおじさんだ。
面接で会ったのはこの外川部長だけだったので、まさか職場があんなに華やかだとは想像していなかった。
「まあ、よろしく頼むよ」
外川部長は偉そうに胸……というかお腹をつき出した。
早津さんは最後まで、なにかあったらすぐに相談に乗るからと、心配しながら帰って行った。
そういうのは不安になるからやめて欲しい。
「君の直接の上司になる、本多課長に紹介するから」
「はい」
応接室を出て外川部長に連れられていった先では、うず高く書類やサンプルがデスクの上に積まれ、城壁のようになっていた。
「今日からうちに配属になった、派遣社員の羽坂君だ」
「羽坂です。
よろしくお願いします……」
不審に思いながらも挨拶してあたまを下げると、かさりと紙が動く音がした。
「……ああ、……聞いてますよ、……羽坂さん。
……羽坂さんですね」
壁の向こうからかろうじて聞き取れる声がする。
失礼ながら上からのぞき込んでみたら、小柄なおじさんが書類に判を押していた。
「……今日からしばらくは……僕が仕事を……教えます。
……よろしく……お願いします」
よわよわと笑う本多課長は太陽の下に出たら消えてしまうんじゃないかっていうくらい、影が薄かった。
「……朝礼の……時間まで……」
本多課長がすべてを言い終わらないうちに、始業のチャイムが鳴りはじめる。
「……朝礼で……紹介しますね」
はぁーっ、聞いているこっちが陰気なりそうなため息をついて、本多課長は席を立った。
「……このあいだ辞めた、……朝岡さんの後任の……羽坂さんです。
……羽坂さん」
朝礼でも本多課長はぼそぼそとしゃべり、聞き取りづらい。
「羽坂です。
一日でも早く仕事を覚えて頑張りたいと思っています。
よろしくお願いいたします」
前に立って挨拶すると、まばらな拍手しか起こらなかった。
全く歓迎されていないようで気が重い。
用が済んだので列の後方に戻る途中で。
「……頑張るだけだったら誰だって出来るってーの」
ぼそりと聞こえた声は酷く悪意に満ちていて、これから先の暗雲を予感させた。
朝礼が終わり、自分の仕事の合間に本多課長が私に仕事を教えてくれる。
「……入力が終わったら、……伝票をセットして……それから……」
「すいません、なにをセットしたらいいんですか」
メモを取りながら聞くけど、聞き取れなくてときどき聞き返してしまう。
何度も何度も聞き返すのは申し訳ないと思うんだけど、それで間違ったことなんてできないし。
「……はぁーっ。
……伝票を……ここにこう……セットして……」
たびたび聞き返す私に本多課長は怒ったりはしなかったが、そのたびに陰気なため息をつかれるのはさすがに堪えた。
「ねえ。
コピー用紙、切れてるんだけど!」
なんとなく暗い気分で本多課長に教わりながら仕事をしていたら、いきなり女性社員に怒鳴られた。
「はい……?」
コピー用紙は目と鼻の先に積んである。
あれを自分で補充すればいいだけだと思うのだけれど……?
それともまさか、コピー用紙の補充の仕方を知らないとか?
きょとんと見上げている私に女性社員はさらにイラつきを増し、机の上にダン!と叩いた。
机が大きな音を立て、椅子の上で小さく飛び上がってしまう。
「コピー用紙を補充しとくのはあんたの仕事でしょう!?」
なんでコピー用紙が切れていただけで、こんなに怒られなきゃいけないのかわからない。
さっきまで私に仕事を教えていた本多課長は関わりあいたくないのか、手元の書類を読むフリをしていた。
いつまでたっても席を立たない私に女性社員はばさりと髪をかき揚げ、持っていた紙をイライラと私の鼻先に突きつけた。
「さっさと補充して!
早く!」
「はい!」
反射的に椅子から立ち上がる。
それ以上、なんか言われるのも怖いし、コピー用紙の包みを抱えてコピー機のところに行って、補充した。
「これでいいでしょうか……?」
「最初からそうしとけばいいのよ」
フン、鼻息荒くコピー機に向きあい、女性社員は私を無視してコピーをはじめた。
たぶんもう用はなくなったのだろうから、そろそろと席に戻る。
「……じゃあ……さっきの……続きからね」
私が椅子に座ると、本多課長は何事もなかったかのように中断された続きから説明をはじめた。
続きはいいけど、さっきのことについてなにも説明はないのかな。
「……これの処理は……これでいいから……後のも処理……しといてくれるかな……?」
「はい」
私が頷くと、本多課長は背中を丸めて自分の席へと戻っていった。
ひとりになって一度、大きく息を吐き出して深呼吸し、残りの書類を処理していく。
「おう。
頑張ってるな」
聞こえた声に手を止める。
私にかまわずに眼鏡の男性社員は、隣の空いた椅子へ後ろ向きに座った。
「少しは慣れたか」
彼はごそごそとスーツのポケットの中からパインアメを出し、包みを開けてぽいっと口の中に放り込んだ。
「あ、君も食う?」
にかっと八重歯を見せて笑う男性社員は意外と若く見えた。
私の返事なんか待たずにポケットの中を探り、アメを握っているであろう拳を差し出してくる。
「まあ、遠慮せずに」
「じゃあ……」
両手の平を上にして揃えて出すと、彼はその上にパインアメを落とした。
「それで。
慣れたか」
背もたれの上に両腕を重ねておき、その上に顎をのせて彼はさらに聞いてきた。
「ええ、まあ」
陰鬱な課長と一緒に過ごし、さらには女性社員に訳もわからず怒鳴られて慣れるわけないけど。
嘘を誤魔化すように、くるくるともらったパインアメを手の中で弄ぶ。
「うちで働くのはなにかと大変だと思うけど。
できれば長く勤めて欲しい」
さっきまでの軽い調子とは違い、眼鏡の奥からまっすぐに見つめてくる。
その視線はあの影の薄い課長やさっき私を怒鳴った女性社員とは違い、この人は頼っていいんじゃなかなって思わせた。
「……できれば」
「うん。
本多さんは頼りないかもしれんけど、おじさんでよかったらいつでも相談に乗るし、愚痴だってつきあってやるからな」
くいっと眼鏡をあげ、男性社員は椅子を立った。
立つときちらりと、左手薬指に既婚者の証しが見えた。
「……よろしくお願いします」
「じゃあ、頑張れよ」
ひらひらと手を振って、彼は去っていった。
……なんだったのかな。
気が向いて、手の中で弄んでいたパインアメを口に入れる。
どこか懐かしい味のそれは、私に元気をくれた。
あとで席次表と照らし合わせて、池松さんというのだと知った。
係長で、年は四十近いらしい。
「……終わったかな。
……次の説明……」
「本多課長!」
任された処理が終わった頃、本多課長が戻ってきた。
けれど私の隣の椅子に座るよりも早く、凄い勢いで夜会巻きの女性が迫ってくる。
「……な、なに?」
本多課長、怯えるのはいいけれど、私の背に隠れるのはどうかと思う。
「今度、カタログ用に新しいモデルを使うって話、どうなったんですか!?」
だん、女性が机に手を叩き付け、腰に手を当ててぐっと顔を近付けると、その耳のチェーンピアスがぶらぶらと揺れた。
というか、私越しに本多課長を睨むのはやめて欲しい。
「……その話、ね……。
外川部長が……いまの子で十分だろう……って」
「十分じゃないから議題にあがって、次から変更しようって話になったんです!」
だん、また女性が机を叩くと、本多課長はますます小さくなって私の背中に隠れてしまった。
「……で、でも、……外川部長が……」
「外川部長はなにもわかってないんです!
本多課長がどうにかしてください!
それが仕事でしょう!?」
どうでもいいけど私を挟んで言い争うのは非常に気まずいんですが。
「よろしくお願いしますよ!」
「……は、はい」
言いたいことを言ってすっきりしたのか、女性はヒールの音も激しく事務所を出て行った。
そろそろと私の後ろから出てきて、はぁーっと本多課長は重いため息をついた。
「……悪いけど……今日はあと、……このマニュアル……読んでてもらえますか……。
……僕は……体調悪いから……早退するので」
ふるふると震える手で私にマニュアルのファイルを差し出し、書類とサンプルの城壁の向こうへ本多課長は姿を消した。
仕方ないのでマニュアルを読みつつ、電話を取って過ごす。
「大変だね、君も」
気づいたらさっきの男――池松さんがまた、椅子に後ろ向きに座っていた。
「まあ、これでも食いな」
差し出される拳に手を出すと、またパインアメがそのうえに乗せられる。
池松さんはポケットから自分の分を出して、ぽいっと口に放り込んだ。
「本多さん、帰ったか」
「……はい」
教育係が新人をひとり残して帰るとか、許されるのかな。
でも、体調不良だったら仕方ないよね。
「じゃあ、おじさんがそのマニュアルに載ってないことを教えてやろう」
池松さんがにやっと笑い、思わずごくりと唾を飲み込んでいた。
池松さんは私にほんとにいろいろ、……いろいろ教えてくれた。
基本、社員たちは自分の仕事しかしないから、コピー用紙の補充やシュレッダーの掃除、お客さんへのお茶出しや後片付けも派遣の仕事なのらしい。
そして池松さん曰く
「全員カルシウム不足で苛々している」
ので、やっていないと当たられる。
「気の毒だとは思うけど。
もうこれは直らないんだ。
へんな先に来てしまったと諦めてもらうほかしょうがない」
苦笑いの池松さんに私も苦笑いしかできない。
けれど、教えてもらえずに理不尽に当たられるよりも、対処方法を教えてもらえただけ随分ましだと思う。
波乱の初日が終わり、早津さんからメッセージが入ってきた。
【お疲れさまです。
初日、どうでしたか】
どうでしたって、あんな酷い職場だとは思わなかった。
昨日までいた建設会社がすでに懐かしい。
少し悩んで携帯の画面の上に指を走らせる。
【お疲れさまです。
なんとか無事に終わりました】
早津さんは知っていたはずなのだ、前にいた人も同じ派遣会社からだったって言っていたし。
なのに黙っていたのは騙された気がする。
【それはよかったです。
これからも頑張ってください】
頑張ってくださいって、なんか人事みたいでムッとした。
文句を言ってやろうと再び携帯に指を走らせかけたものの。
【了解いたしました。
頑張ります】
初日で辞めても文句を言われそうにない職場環境だが、どうしてかもう少しだけ頑張ろうと思った。
もしかしたら池松さんが声をかけてくれたおかげかもしれない。
前にいた建築会社の契約期間を満了し、この春から新しく派遣された会社はアパレル商社大手のマルタカだった。
「凄い……」
それが、私の第一印象。
配属されたレディースファッション部のほとんどが女性で、みなきらきらして見えた。
……私って場違いなんじゃ。
ついつい、自分の服装を上から下まで確認してしまう。
シンプルな白ブラウスにこれまたシンプルなベージュのフレアスカート。
髪型だっておとなしく、肩までの髪にワンカールパーマをかけただけ。
それに比べてここの女性は、普通の職場だったら絶対上司に怒られるし、同僚には煙たがれるだろうなってファッションの方が大半を占めていた。
まるで、ファッション誌から抜け出てきたような方々ばかりなのだ。
「やっていけるかな……」
私の不安は違う意味ですぐに的中する。
「羽坂です。
よろしくお願いします」
最初に派遣会社の担当の早津さんと共に挨拶に行った外川部長は、でっぷりとしたお腹に脂ぎった顔をしたおじさんだ。
面接で会ったのはこの外川部長だけだったので、まさか職場があんなに華やかだとは想像していなかった。
「まあ、よろしく頼むよ」
外川部長は偉そうに胸……というかお腹をつき出した。
早津さんは最後まで、なにかあったらすぐに相談に乗るからと、心配しながら帰って行った。
そういうのは不安になるからやめて欲しい。
「君の直接の上司になる、本多課長に紹介するから」
「はい」
応接室を出て外川部長に連れられていった先では、うず高く書類やサンプルがデスクの上に積まれ、城壁のようになっていた。
「今日からうちに配属になった、派遣社員の羽坂君だ」
「羽坂です。
よろしくお願いします……」
不審に思いながらも挨拶してあたまを下げると、かさりと紙が動く音がした。
「……ああ、……聞いてますよ、……羽坂さん。
……羽坂さんですね」
壁の向こうからかろうじて聞き取れる声がする。
失礼ながら上からのぞき込んでみたら、小柄なおじさんが書類に判を押していた。
「……今日からしばらくは……僕が仕事を……教えます。
……よろしく……お願いします」
よわよわと笑う本多課長は太陽の下に出たら消えてしまうんじゃないかっていうくらい、影が薄かった。
「……朝礼の……時間まで……」
本多課長がすべてを言い終わらないうちに、始業のチャイムが鳴りはじめる。
「……朝礼で……紹介しますね」
はぁーっ、聞いているこっちが陰気なりそうなため息をついて、本多課長は席を立った。
「……このあいだ辞めた、……朝岡さんの後任の……羽坂さんです。
……羽坂さん」
朝礼でも本多課長はぼそぼそとしゃべり、聞き取りづらい。
「羽坂です。
一日でも早く仕事を覚えて頑張りたいと思っています。
よろしくお願いいたします」
前に立って挨拶すると、まばらな拍手しか起こらなかった。
全く歓迎されていないようで気が重い。
用が済んだので列の後方に戻る途中で。
「……頑張るだけだったら誰だって出来るってーの」
ぼそりと聞こえた声は酷く悪意に満ちていて、これから先の暗雲を予感させた。
朝礼が終わり、自分の仕事の合間に本多課長が私に仕事を教えてくれる。
「……入力が終わったら、……伝票をセットして……それから……」
「すいません、なにをセットしたらいいんですか」
メモを取りながら聞くけど、聞き取れなくてときどき聞き返してしまう。
何度も何度も聞き返すのは申し訳ないと思うんだけど、それで間違ったことなんてできないし。
「……はぁーっ。
……伝票を……ここにこう……セットして……」
たびたび聞き返す私に本多課長は怒ったりはしなかったが、そのたびに陰気なため息をつかれるのはさすがに堪えた。
「ねえ。
コピー用紙、切れてるんだけど!」
なんとなく暗い気分で本多課長に教わりながら仕事をしていたら、いきなり女性社員に怒鳴られた。
「はい……?」
コピー用紙は目と鼻の先に積んである。
あれを自分で補充すればいいだけだと思うのだけれど……?
それともまさか、コピー用紙の補充の仕方を知らないとか?
きょとんと見上げている私に女性社員はさらにイラつきを増し、机の上にダン!と叩いた。
机が大きな音を立て、椅子の上で小さく飛び上がってしまう。
「コピー用紙を補充しとくのはあんたの仕事でしょう!?」
なんでコピー用紙が切れていただけで、こんなに怒られなきゃいけないのかわからない。
さっきまで私に仕事を教えていた本多課長は関わりあいたくないのか、手元の書類を読むフリをしていた。
いつまでたっても席を立たない私に女性社員はばさりと髪をかき揚げ、持っていた紙をイライラと私の鼻先に突きつけた。
「さっさと補充して!
早く!」
「はい!」
反射的に椅子から立ち上がる。
それ以上、なんか言われるのも怖いし、コピー用紙の包みを抱えてコピー機のところに行って、補充した。
「これでいいでしょうか……?」
「最初からそうしとけばいいのよ」
フン、鼻息荒くコピー機に向きあい、女性社員は私を無視してコピーをはじめた。
たぶんもう用はなくなったのだろうから、そろそろと席に戻る。
「……じゃあ……さっきの……続きからね」
私が椅子に座ると、本多課長は何事もなかったかのように中断された続きから説明をはじめた。
続きはいいけど、さっきのことについてなにも説明はないのかな。
「……これの処理は……これでいいから……後のも処理……しといてくれるかな……?」
「はい」
私が頷くと、本多課長は背中を丸めて自分の席へと戻っていった。
ひとりになって一度、大きく息を吐き出して深呼吸し、残りの書類を処理していく。
「おう。
頑張ってるな」
聞こえた声に手を止める。
私にかまわずに眼鏡の男性社員は、隣の空いた椅子へ後ろ向きに座った。
「少しは慣れたか」
彼はごそごそとスーツのポケットの中からパインアメを出し、包みを開けてぽいっと口の中に放り込んだ。
「あ、君も食う?」
にかっと八重歯を見せて笑う男性社員は意外と若く見えた。
私の返事なんか待たずにポケットの中を探り、アメを握っているであろう拳を差し出してくる。
「まあ、遠慮せずに」
「じゃあ……」
両手の平を上にして揃えて出すと、彼はその上にパインアメを落とした。
「それで。
慣れたか」
背もたれの上に両腕を重ねておき、その上に顎をのせて彼はさらに聞いてきた。
「ええ、まあ」
陰鬱な課長と一緒に過ごし、さらには女性社員に訳もわからず怒鳴られて慣れるわけないけど。
嘘を誤魔化すように、くるくるともらったパインアメを手の中で弄ぶ。
「うちで働くのはなにかと大変だと思うけど。
できれば長く勤めて欲しい」
さっきまでの軽い調子とは違い、眼鏡の奥からまっすぐに見つめてくる。
その視線はあの影の薄い課長やさっき私を怒鳴った女性社員とは違い、この人は頼っていいんじゃなかなって思わせた。
「……できれば」
「うん。
本多さんは頼りないかもしれんけど、おじさんでよかったらいつでも相談に乗るし、愚痴だってつきあってやるからな」
くいっと眼鏡をあげ、男性社員は椅子を立った。
立つときちらりと、左手薬指に既婚者の証しが見えた。
「……よろしくお願いします」
「じゃあ、頑張れよ」
ひらひらと手を振って、彼は去っていった。
……なんだったのかな。
気が向いて、手の中で弄んでいたパインアメを口に入れる。
どこか懐かしい味のそれは、私に元気をくれた。
あとで席次表と照らし合わせて、池松さんというのだと知った。
係長で、年は四十近いらしい。
「……終わったかな。
……次の説明……」
「本多課長!」
任された処理が終わった頃、本多課長が戻ってきた。
けれど私の隣の椅子に座るよりも早く、凄い勢いで夜会巻きの女性が迫ってくる。
「……な、なに?」
本多課長、怯えるのはいいけれど、私の背に隠れるのはどうかと思う。
「今度、カタログ用に新しいモデルを使うって話、どうなったんですか!?」
だん、女性が机に手を叩き付け、腰に手を当ててぐっと顔を近付けると、その耳のチェーンピアスがぶらぶらと揺れた。
というか、私越しに本多課長を睨むのはやめて欲しい。
「……その話、ね……。
外川部長が……いまの子で十分だろう……って」
「十分じゃないから議題にあがって、次から変更しようって話になったんです!」
だん、また女性が机を叩くと、本多課長はますます小さくなって私の背中に隠れてしまった。
「……で、でも、……外川部長が……」
「外川部長はなにもわかってないんです!
本多課長がどうにかしてください!
それが仕事でしょう!?」
どうでもいいけど私を挟んで言い争うのは非常に気まずいんですが。
「よろしくお願いしますよ!」
「……は、はい」
言いたいことを言ってすっきりしたのか、女性はヒールの音も激しく事務所を出て行った。
そろそろと私の後ろから出てきて、はぁーっと本多課長は重いため息をついた。
「……悪いけど……今日はあと、……このマニュアル……読んでてもらえますか……。
……僕は……体調悪いから……早退するので」
ふるふると震える手で私にマニュアルのファイルを差し出し、書類とサンプルの城壁の向こうへ本多課長は姿を消した。
仕方ないのでマニュアルを読みつつ、電話を取って過ごす。
「大変だね、君も」
気づいたらさっきの男――池松さんがまた、椅子に後ろ向きに座っていた。
「まあ、これでも食いな」
差し出される拳に手を出すと、またパインアメがそのうえに乗せられる。
池松さんはポケットから自分の分を出して、ぽいっと口に放り込んだ。
「本多さん、帰ったか」
「……はい」
教育係が新人をひとり残して帰るとか、許されるのかな。
でも、体調不良だったら仕方ないよね。
「じゃあ、おじさんがそのマニュアルに載ってないことを教えてやろう」
池松さんがにやっと笑い、思わずごくりと唾を飲み込んでいた。
池松さんは私にほんとにいろいろ、……いろいろ教えてくれた。
基本、社員たちは自分の仕事しかしないから、コピー用紙の補充やシュレッダーの掃除、お客さんへのお茶出しや後片付けも派遣の仕事なのらしい。
そして池松さん曰く
「全員カルシウム不足で苛々している」
ので、やっていないと当たられる。
「気の毒だとは思うけど。
もうこれは直らないんだ。
へんな先に来てしまったと諦めてもらうほかしょうがない」
苦笑いの池松さんに私も苦笑いしかできない。
けれど、教えてもらえずに理不尽に当たられるよりも、対処方法を教えてもらえただけ随分ましだと思う。
波乱の初日が終わり、早津さんからメッセージが入ってきた。
【お疲れさまです。
初日、どうでしたか】
どうでしたって、あんな酷い職場だとは思わなかった。
昨日までいた建設会社がすでに懐かしい。
少し悩んで携帯の画面の上に指を走らせる。
【お疲れさまです。
なんとか無事に終わりました】
早津さんは知っていたはずなのだ、前にいた人も同じ派遣会社からだったって言っていたし。
なのに黙っていたのは騙された気がする。
【それはよかったです。
これからも頑張ってください】
頑張ってくださいって、なんか人事みたいでムッとした。
文句を言ってやろうと再び携帯に指を走らせかけたものの。
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