おじさんは予防線にはなりません

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

文字の大きさ
9 / 38
第3章 ……好き。

3.気付いてしまった自分の気持ち

しおりを挟む
出勤するとなんとなーく空気が悪かった。

いや、この職場に勤めはじめて爽やかだった日なんて一日もないけれど。
でもいつも以上にぴりぴりしているというか。
しかもその矛先が私に向いている気がするのは、気のせい、かな……。

「羽坂さん、ちょっといい?」

「……はい?」

朝礼が終わってすぐ、森迫さんに人気のない売り場裏に連れて行かれた。

森迫さんは職場の女性の中では年上の方で、さらには独身で仕事に厳しい。
当然、仕事でなにかしたミスを注意されるんだと思っていたのだけれど。

「あんたさぁ、男に色目使うの、やめてくれない?」

「はい?」

なにを言われているのか理解できない。

男に色目?
誰に?
まさか、池松さん?

でもいままで全然、気にしていなかったですよね。

大河たいがに馴れ馴れしくしないでって言ってるの!」

意味がわかっていない私に苛ついたのか、森迫さんが一歩、ぐいっと迫ってきた。
けれど大河って誰のことだか私にはわからない。
池松さんはこの間、奥さんに和佳って呼ばれていたから違うっていうのはわかるけど。

「昨日、大河と話してたでしょ!?」

さらに一歩詰め寄られて、私も一歩下がったけれど、無情にも背中は壁についてしまった。
これ以上迫られると逃げられない。

しかし、大河っていったい誰だろ。
昨日、話した男の人……。
あ、もしかして。

「……大河って宗正さんですか?」

「それ以外に誰がいるっていうの!」

森迫さんの声がびりびりと鼓膜を震わせ、身体がびくりと小さく縮こまる。

「大河に手を出さないで!
大河は私のものなんだから!」

……そんなの、知らないし。

しかし言われてみれば、宗正さんに一番べたべたしていたのは森迫さんだったような。
それにしても髪を振り乱して怒っている森迫さんは宗正さんの言うとおり、〝鬼婆〟だ。

「なに、さっきから黙って!
大河にデートの約束してもらえて、いい気になってるの!?」

怒り狂っている森迫さんにまた身体がびくりと震え、目にはうっすらと涙が浮いてきていた。

なんで変な濡れ衣着せられて、怒鳴られなきゃいけないんだろ。
確かに宗正さんからデートを迫られたけど、それは丁重にお断りしたのに。

「なんとか言ったらどうなの、ねえ!」

森迫さんの右手が振り上がる。
目を閉じた瞬間、バシーンッ、あたりに派手な音が響きわたった。

「なにやってるんだ!」

じんじんと熱を持つ頬を押さえ声のした方を見ると、珍しく池松さんが酷く怒っていた。

「なにをやっているのかと聞いているんだ!」

「それは、その……」

滅多に怒らない池松さんが怒っているからか、森迫さんはしどろもどろになっている。
池松さんはつかつかと勢いよく歩いてきて、私の前に立って森迫さんを睨みつけた。

「あー、いいですか」

緊迫した空気の中、妙に間延びした声がする。
へらへらと現れた宗正さんは池松さんの隣に、私の前に壁を作るように立った。

「オレ、森迫さんのものになったつもり、ないんですよね。
というか迷惑してるんですよね、お、ば、さ、ん」

「な……っ!」

男性ふたりに阻まれて、森迫さんの顔は見えない。
でもきっと、激怒しているんだろうなっていうのは想像できる。

「でも、私はっ!」

「……はぁーっ。
わかった、わかった。
話はあとで聞くから」

ため息をついた池松さんの肩はがっくりと落ち、一気に空気がいつものものに戻った。

「宗正、会議室に連れて行って待たせておいてくれないか」

「えー」

「いいから」

「……仕方ないですね。
行きますよ、おばさん」

宗正さんに連行されるように森迫さんがいなくなり、池松さんが私を振り返った。

「大丈夫か」

心配そうに顔をのぞき込まれると鼻の奥がつんと痛くなる。

「平気、ですよ。
これくらい」

すんと鼻を啜り、無理に強がってみても涙はじわじわと滲んでくる。

「早く気づいてやれなくて悪かったな」

「池松さんは悪くなんかない、です」

急に目の前が暗くなったと思ったら、池松さんが至近距離に立っていた。
どうしてかとか考える間もなく、その胸に顔が押しつけられる。
なにが起こっているのかわからなくて混乱していると、後ろあたまに回った池松さんの手がそっと、私の髪を撫でた。

「無理、しなくていいんだぞ」

とうとう涙がぽろりと落ちる。
そのまま、池松さんの胸で思いっきり泣いた。

「落ち着いたか」

「はい。
ありがとうございました」

私が泣きやむとポケットからハンカチを出した池松さんだけど、あまりのしわしわ具合にまたポケットに引っ込める。
そういうのはなんだかおかしくて、思わずくすりと笑いが漏れた。

「ちょっと待ってろ。
本多さんに話して、病院連れて行ってやるから」

私の頬を見た池松さんの顔が痛そうに歪む。
そんなに派手に腫れているんだろうか。

「ビンタくらいで大げさですよ」

「爪が当たったんじゃないか。
ミミズ腫れができてる。
痕になったら困るだろ」

そっと池松さんの手が私の頬にふれ、びくりと身体が震えてしまう。
そろそろと見上げると、レンズ越しに目のあった池松さんは手を引っ込めた。

「どうかしたのか?」

眼鏡の向こうから池松さんは不思議そうに見ているが、うまく言葉にできない。

「ちょっと、傷に、しみて」

「それは悪かった。
とにかくちょっと待ってろ。
病院、連れて行ってやるから」

「……はい」

池松さんがいなくなり、ずるずると背中が壁を滑ってその場に座り込んだ。

……なん、で。
どう、して。

どきどきと心臓が妙に自己主張をしている。
ビンタされていない方の頬も熱い。

池松さんにふれられるのが、怖かった。

まるでそこから……この感情を知られてしまいそうで。



すぐに池松さんは戻ってきた。

「具合でも悪いのか」

座り込んでいた私を見て、池松さんの眉根が寄った。

「……なんだか気が抜けて、腰が抜けちゃって」

できるだけ平気な顔を作って立ち上がろうとすると、池松さんが手を貸してくれる。

「……ありがとうございます」

そういう優しさがいまはつらかった。
気持ちを自覚したいまは。

「じゃあ、病院行くぞ」

「はい」

促されて歩き出す。
頬を腫らした私に何事かとみんなが振り返る。
池松さんはまるでかばうように、私の肩をそっと抱いてくれた。

「あの、……森迫さん、は」

私に池松さんがついているということは、森迫さんと話をする人はいないはず。

「ああ、本多さんに頼んできた。
一応、上司なんだからなんとかしてくれるだろ」

池松さんは嘯いているけれど……本当によかったんだろうか。
私の怪我よりも本多課長の、胃の状態の方が心配だ。


会社を出て二軒隣の医療系雑居ビルに連れて行ってくれた。
自分ではそれまで怪我の状態を確認していなかったが、改めて鏡を渡されて見ると、肉が軽く抉れていた。

「痕が残るかもしれませんね」

「そうですか……」

医者から告げられてもため息しか出ない。
昨日はネクタイを選ぶのを諦めてさっさと宗正さんを無視して帰ればよかった。
けれど、いまさら後悔したってもう遅い。

「どうだった?」

診察室を出た私の頬に貼られた大きなガーゼを見て、池松さんは痛そうに顔をしかめた。

「痕が残るかもしれないそうです」

心配させたくなくて笑顔を作って答える。
でも池松さんの方が泣き出しそうになっていた。

「すまなかった。
もっと早く気づいていれば、こんなことにはならなかったのに」

池松さんに勢いよくあたまを下げられて慌てた。

悪いのは池松さんじゃなくて森迫さんだ。

そして、こうなることが薄々わかっていたのに、宗正さんを避けられたなかった自分にも責任がある。

「池松さんが悪いんじゃないですから」

あたまをあげた池松さん、は眼鏡の奥からまっすぐに私を見た。

「いや、俺にも責任はある。
この傷はちゃんと、責任を取るから」

まるでプロポーズのような台詞に……知らず知らず、喉がごくりと鳴った。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

愛のかたち

凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。 ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は…… 情けない男の不器用な愛。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

処理中です...